” ぅ 、あぁ ……… ”
言葉にならない声が漏れる。きちんと声を出したはずなのに。単語を発したはずなのに。
でも、僕はなんと言ったか分からない。僕は単語を発したと知っているのに、その単語が意味するものを知らない。
だからこそ、常人からすると、不可解な音となるのだろう。
躰を動かそうと懸命にもがいた。感覚が無いので、ふかふかかどうかは分からないベッドを軋ませ、僕は懸命に動かした。然し、動かない。正確に言えば、一定の範囲を超えて動くことが出来ない。
僕は怒った。
ベッドに手錠で繋がれた僕の腕を、じっと見つめて、単語と成り得なかったオトを発しながら、僕は怒っていた。
誰かが部屋に入ってくる音がする。ガチャ、と灰色染みた壁に、すっと亀裂が入り、ソレは扉を開く音のみ鳴らし、現れた。
この世に僕を、怖がらせるものはないと思っていた。だが、ソレは間違いなく僕を震えさせるに値する存在感を放っていた。
ソレは、僕にとって何かの対象だったはずだった。喜び、悲しみ、怒り、恐怖、何かしらの存在だった…はずだったのだが。記憶が抜け落ちている。ソレは、何かしら音を発して、僕の方へ近付いてくる。何を言っているのか、僕には理解出来なかった。
寄るな、寄るな。僕はそう言いたかった。
だが、口から出る音は、そうでは無い。まるで脳から舌へ行くための道が、工事か何かで塞がれてしまったように、僕は’きちんとした撥音’が出来ない。分かっている。勿論分かっているとも。然しだ、僕から出ている音は明らかに違うはずなのに、僕の耳に届く音は、俄然きちんとした撥音なのだ。
僕は一瞬でこの状況を理解していた。信じるべきは脳ではなく、この聞こえてくる音なのだ。だから、僕の言葉は間違えてはいない。
寄るなと言うのに、ソレは僕に戸惑いなく近付いてくる。1歩、2歩、3歩。触れられる距離になった時、ソレは僕に笑い掛けた。
『 - - くん、きこえるかい?』
何を笑っているのだ。ソレは、何かよく分からない単語を告げ、僕に笑いかけている。
僕が、戸惑っているのを見て、笑っているのだろうか?残念ながら、ソレの言うことは理解できない。僕は穴が空くほどソレを見つめ、目を細めた。
すると、ソレは今度は声を立てて笑い、また訳の分からぬ単語を述べた。
『そうかい、やっぱりダメか。…ううん、上手くいかないね。私の技術が足りないのか……君の治療にはもう少し時間が掛かりそうだ。すまないね。』
……そう言って、ソレはまた、外に出ていったのである。