……急に止めることはできない。スケジュールに余裕があっても、何日も穴を空けては支障が出る。
せめて、この体調がさらに酷くなる前に――そう思い、早朝からトレーナー室に来ていた。教え子たちがいなくてもできることはある。
エアコンの電源を入れた。暖かい風が入ってくる。モリブデンやリリーがこの部屋にいる時は、あまり乾燥をさせたくないから加湿器も稼働させるものの、今はひとりだけ――しかも体調は最悪。これ以上崩れようがない。最低限で十分だ。
ノートパソコンを机に置いて、眠気覚ましと気合いのためにインスタントコーヒーを淹れる。冷蔵庫から牛乳を取り出して、コーヒーに加えて一気に飲み干した。
冷えた身体にカフェインが行き渡って体温が高くなっていく。
伸びをすると、ぽきぽきと身体が鳴って、ほんの少しの立ちくらみ。
椅子に座って、作業内容を考えながら体力も回復するように努める。
ゆっくり息を吸って――吐いて――
よし、もう大丈夫。早速仕事に取り掛かろう。
そう思った瞬間に、扉がノックされた。
「……どうぞ」
慌ててサングラスを掛けて、扉に向かって言った。
こんな時間に誰が。
同僚の可能性もあるけれど……冬の朝からデスクワークをしたり、相談に来たりするような人は滅多に居ない。
開いた扉から現れたのは、見知った顔だった。
「トレーナー、大丈夫?」
耳を倒しながら、心配そうな顔でモリブデンが覗き込んできた。その後ろからは、リリーがどうでも良さそうな顔で覗いている。
二人に向かって手招きをすると、モリブデンは恐る恐ると、リリーは嬉しそうに耳をぴこん、と跳ねさせながらトレーナー室に入ってきた。
「朝から来ちゃって。時間は平気なの?」
「ちょっとくらい遅刻したって平気だぜ。トレーナー、体調はどうなんだ?」
私が訊ねると、リリーが答えた。舌を出していたずらっぽい表情を浮かべながらも、彼女の隠された感情はありありと伝わっていた。
悪ぶっているけれど、この子もすごく優しい子なんだ。私のことを、本当に心配してくれている。
「昨日よりは良いよ! ……ごめんね、昨日は」
当然、嘘だ。
だけど笑顔を見せてあげれば二人は安堵の表情へと変わっていく。ちょっとした罪悪感が胸を刺した。
「気にすんなって。つーか今日は病院行っとけよ。あたしたちに
「ちょっとイリリ。……でも、病院には行ってほしいな。心配だよ、トレーナー」
パタパタと手を振るように言うリリーを窘めるようにモリブデンが控えめに言ってきた。病院……病院か。
このような症状が初めてだったとしたら、当日中に行っていた。だけど、病院に行ったところでどのような診断が下されるのかわかってしまう今の状況では、あまり行く気にならなかった。
かといって、今の教え子たちに直接言われてしまった以上それを無下にする訳にもいかない。
「あー……うん、そうだね。今日は病院いくよ」
サングラスの位置を直しながら、観念して二人に言った。ノートパソコンを閉じて、スマホで近所の病院を調べる。まだ朝も早いから、今から予約が取れるところもいくつかあるはず。
そうしてスマホを操作していると、リリーがスマホの画面を覗き込むように動きながら、私の眼前まで顔を近づけてきた。
ひょっこり、その隣からはモリブデンも出てくる。
「……ってことは」
「そういうこと? トレーナーさん」
「ええ? ふふっ」
なるほど。……そういうつもりもあったんだ。
学生らしい悪戯心につい漏らしてしまった笑いを咄嗟に抑えて、なるべく真面目な顔を作って叱るように言う。
「なんだかずる賢くなってきたね、貴方たち」
……残念ながら、私の笑い声はしっかりと聞こえてしまっていた。二人は私の事なんて怖くないかのように、にんまりと微笑を浮かべている。たぶん、彼女たちなりに圧を加えているつもりなのだろう。何人ものウマ娘を担当してきた私には、かわいらしい抵抗にしか思えないけれど。
ため息をひとつ。少し仰々しく。
教え子たちの瞳をまじまじと見てしまうと、どうしても甘やかしたくなってしまう。たぶん、全トレーナー共通の反省点だ。
「そうだよ。トレーニングは無し。授業終わったら、遊んできな」
彼女たちの求めている言葉を言ってあげると、二人は口々に感謝の言葉を告げて――時計を見ると、レースでも出したことの無いようなスピードで教室へと駆けていった。
◇
その日の昼。晴天の空から射す紫外線は私の体力をじりじりと蝕んでいく。肌を出す面積を最小限にして、更にはサングラスまでかけているというのに、全く意味が無いような感覚すらする。帰りはタクシーを呼ぼう……。
平日の病院は少しだけ混んでいた。今は冬、空気が乾燥する季節。この状態でウイルスに感染したら死にかけてしまうかもしれない。病院特有の匂いを遮るように、しっかりとマスクを付けた。
そうして、待つことしばらく。呼び出されたので早速診察をすると、帰ってきたのは予想通りの結果だった。
「……やっぱり」
「どうかされましたか?」
「いえ。ありがとうございました」
少しだけ、期待していたのだけれど。
渡された薬の名前を眺めて、自嘲した。
こんなのが効くはずはない。
無理が祟ったのか、視界の端が紅く色付いていた。同じ症状だ。
あの時と同じだ。
あの子――スティルインラブと共に駆けたあの時と、同じ症状だった。
「となると……やっぱり、あの子の影響……? でも、今更になって……」
でも、そうとは限らない。
信じたくないのではない。信じられなかった。
スティルは近くに居ない。消息すら知らない。時折思い出すことはあっても、直ぐに忘れる。まるで過去に愛し合っていた恋人のような、曖昧だけど鮮烈な、思い出だけの存在になっていた。
タクシーを呼んで、後ろに乗る。「トレセン学園まで」とだけ伝えると、運転手は短く返事をして発進した。
冬の帳が下ろされた府中の街に彩りは少ない。あと数ヶ月もすれば温かさは再び戻ってきて、花々や木々が色とりどりに咲き誇る。
想像は出来た。
だけど、私がその場に立っていられるような気はしなかった。
太陽が地平線に落ちて、月が昇って、落ちて、また太陽が昇る。
どうにも眠れなくて、教え子たちのトレーニング計画を練っていると、深夜だというのに妙に頭が働いた。
そうして気がついたら朝になっていた。顔を洗うため洗面台に向かうと、吸血鬼のように青白い肌の上に、真っ黒い隈ができていた。まるで死にかけの人間だ。でも、私は元気で、脳みそは十全に働いている。
――元気なんだ。担当のためにも、働かないと。
今日は朝練がある。今更眠る訳にもいかない。冷蔵庫から適当に野菜ジュースを取り出して、それを朝ご飯の代わりにした。不思議とお腹は減っていなかったから、むしろちょうど良いくらいだった。
少し着込んでから外に出る。西の空はまだ青黒い。
コースに着くと、モリブデンとリリーは既に来ていて、二人で軽くウォーミングアップをしていた。この寒い朝だから、何もしないでじっと待っているのも辛かったのかもしれない。
「待たせちゃったかな」
「いいや、全然。さっき来たばっかりだよ」
私が遠くから声を掛けると、同じくらいの声量でリリーが返事をした。早朝だというのに、二人とも元気なようだった。
「昨日動いてない分今日はびしびしいくよ」
「あーい」
「はい。ところでトレーナー、病院で何か言われた?」
その事を聞かれる前にトレーニングを始めようとしていたものの、モリブデンに先を越されてしまった。
重厚な合金の耳飾りに朝日を煌めかせながら、彼女のグレーの瞳が私を見据えてくる。純粋な視線だった。私を心配してくれているのが、嫌でもわかる。
簡単な嘘を吐くだけだというのに、心臓が一瞬だけ強く跳ねた。
「……ううん、なにも。異常は無いってさ」
サングラスの位置を直しながら、目を逸らすようにして言った。
リリーが怪訝そうな表情をしている。
「はあ? その真っ青な顔でか……? ヤブ医者なんじゃねえの」
「そうだね。トレーナー、ヤブ医者かどうかはわかんないけど……。セカンドオピニオンをオススメしたいな」
リリーに釣られるように、モリブデンまで口を出してきた。その心配はありがたいものだけれど……どうやっても治らないものだから、おいそれと頷く訳にも行かない。
この場は適当な返事で濁すことにした。
「まあ……考えておくね。ありがとう、モリブデン、リリー。ほら、トレーニングやるよ」
ぱんぱん、と大きな音を出すように両手を叩く。首に提げていたホイッスルを咥えて音を鳴らすと、二人の意識もトレーニングへと切り替わった。
さあ、仕事の時間だ。
◇
「やっぱりモリブデンに芝は合わないね」
モリブデンのメニューはスピードの向上。
スタミナはダートの距離で活躍するには十分ある上、身体も頑丈な子だ。ということで、成熟しつつある部分を更に引き上げていくために、最近は芝のコースでトレーニングを行うことが多かった。モリブデンとの併走が基本なものの、こうして一人で走らせることで体内時計を鍛えることも重視している。
とはいえ、脚質や距離の向き不向きのように、芝とダートでも向き不向きがある。モリブデンは、デビュー前からずっと芝が苦手だった。
「どうにも走り方にしっくりこないんだよね」
コースを一周して戻ってきたモリブデンが、芝の感触を確かめるように地面をぐにぐにと踏みしめていた。
スタミナと瞬発力を養うためのトレーニングを私の横でやっていたリリーが、その言葉に反応する。
余所見すると転ぶよ、と思うものの、言ったところで治らなさそうなので何も言わないことにした。
「あたしはダートでも行けるけどなあ。そういうもんなのか」
最後のミニハードルを大きく飛び越えて、リリーはモリブデンの隣に着地した。……勢いが付きすぎて転びそうになった所を、モリブデンに支えてもらっている。相変わらず、姉妹みたいに仲が良い。
「よっこいしょ」と呟きながら、モリブデンも口を開いた。
「イリリのデビュー、ダートだったもんね」
愛すべき教え子たちが仲睦まじく過ごしているのを眺めていると、体調も良くなっていく気がする。このまま何事もなく過ごして、トゥインクルシリーズに名前を刻んで欲しい――そう思うのは、トレーナーの特権なのだろう。
モリブデンのタイムを手元のタブレットに記入して、今もわちゃわちゃとじゃれ合っている二人の方を改めて向いた。
そろそろ次のトレーニングをやらないと。
「芝じゃ上手く使えない、そういう特別な走り方がモリブデンの末脚を支えてるんだろうね。さ、次はダートで併走しよっか。リリー、末脚の使い方意識してね」
真面目な声色で二人に声を掛けると、しっかりとスイッチが切り替わってくれた。良い子だ、本当に。
「へいへい」
「中距離でも走りたいんでしょ。私のやり方よく見ときなよ」
「……オマエのは参考にならないと思うけどな」
軽口を叩きあって、二人は駆け出した。
前を走るのはリリーで、その後ろをモリブデンが追走している。一周したら仕掛けるように伝えているから、リリーのスタミナで優位を作ることは出来ない。末脚勝負をすることで、勝負勘を鍛えてもらうのが目的だった。
勝負事において、気持ちっていうものは案外バカにならない。
向正面を超えたあたりで、双眼鏡を使って二人を観察する。第三コーナーに差し掛かると、モリブデンが脚を使い始めた。本来ならもっともっと溜めるものの、今回の目的はリリーのトレーニング。彼女本来の鋭い脚ではないが、切れる脚を持たないリリーには少し厳しい――と思っていた。
だけど、私の予想に反してリリーも徐々に加速していき、モリブデンを追い越させようとはしない。
「お、良い脚。今年の秋には中距離も行けるかな、リリーは――っと……」
ぴきり。
こめかみに鋭い痛みが奔る。痛みを抑えようと眉間に指を添えて力を入れた。だけど、痛みは一向に良くならない。むしろ酷くなっていっている。
「あれ……」
――まずい、かも。
そう思った時には、もう手遅れだった。
目の前の世界が、一気に狭まる。双眼鏡を取り落とす。視野が狭窄していく。
「うっ」
重力に導かれるまま、抵抗もできずに地球と口付けを交わした。地面が顔を強く打ち、痛みで涙が溢れてくる。
しかし、立ち上がることは出来ない。まるで地面が直角に動いたかのようだった。本来の地上が壁になっているみたいで、起き上がろうとする度に迫ってくる。
焦りと痛みで息が荒くなっていく――酸素が身体中を駆け巡り、次第に手足が痺れてくる。
力が入らない。
視界が更に霞む。黒色は次第に鮮やかになっていった。真っ赤だ。
意識が遠のく。限界を迎えて、四肢を投げ出して瞼を閉じた。
「――……? ――っ!! ――!」
遠くで、何かが聞こえる。
たぶん、彼女たちだ。激しく地面を蹴りつけているのか、芝が微かに揺れている……。
現実が曖昧になっていく。
「――、――!」
紅く染まった視界――瞼は閉じているはずなのに――それに、一つの事しか考えられないこのアタマ。
今も大声を出して駆け付けてきているあの子たち。それなのに、こんなことになっていても、考えていたのは別のことだった。
スティルインラブ。
その名前が、ずっと、脳みそを支配する。
あの走りが、網膜に焼き付いたあの美しい紅が――
焦がれるような想いが、再び燃え上がる。
ハメでの感想評価お気に入り、ほかにも感想ツイや支援絵等々どれか一つだけでもすごく嬉しいです!よろしくお願いします!
してくれてる人はありがとうございます!あなたのお陰で作品は完結まで続きます!
ウマ娘用X▶︎@chitosejinko