複雑なことが考えられない。頭の中がそのまま思考になっているような、変な、気持ち悪い。今の状況を理解しようとするとスティルのことばかり考えてしまう。そういえば、あの子のお気に入りの香りのヘアオイルを大事に取っておいた気がする。どうにも使う気になれなくて、さすがにダメになっているかも。帰ったら確認してみよう。
あの子の走りを――恋焦がれるような、そんな感情を彷彿とさせるような、激しいあの走りを――初めて見たのは、満月の日だった。
方図もなく暑い、夏の夜だった。
あの子は、満月が苦手だった。本能が表に出て来てしまうから。
あの子は、優しい子だった。
どうして忘れていたのだろう。スティルと共に駆け抜けたあの三年間が、全て思い起こされる。
桜と樫、そして秋の冠を取って……私たちは……走り続けた。ずっと、勝った。……どうして、終わってしまったんだっけ……。
スティルは、私を愛していた。文字通り……恐らく、親愛の情を超えていた。
スティルは、私を何よりも大切にしてくれていた。
だけど、私は? ……私は、彼女を、大切に扱うことが、彼女の愛に応えることは、できていたの?
纏まらないな。
私は、壊れそうになっていた。紅い彼女に魅入られて――あるいは、魅入ってしまって。彼女の向こうにいる彼女を追い求めて、彼女を苦しませてしまった。
思考が渦巻く。
そうだ――スティルインラブは、私を守ろうとしていた。だから、離れていった。
私は……彼女を、追えなかった。
壊れていく自分が、怖かった。
「トレーナー……?」
肩が叩かれた。微睡みから起こされようとしているみたいで、身体をひねろうとする。動かない。
適当に返事をしようとしても、泥酔した時のように頭は働かなくて、声も出ない。
まあ……良い。それより、スティルのことだ。今考えることは、スティルインラブ。
「トレーナーっ!! ――まずい、――、救急車呼んできて!」
強く身体を揺さぶられて、一瞬だけ意識が表層に戻る。「はっ」と短い息が口から出た。
誰か、焦ったような声が聞こえる。優しい人がいるみたい。……安心するような、守りたくなるような声だった。……誰……だろう。まるで、スティルに向けるような感情が、胸の中に湧いてくる。これは……罪悪感……?
なにも、悪いことはしていないのに。
「あ、う、うんっ、わかった!」
ブラウン管テレビの電源を切る時のように、ぷつん、と音が鳴ったような気がした。
◆
目を覚ますと、白い天井だった。見覚えがある……そうだ、思い出した。私が入院している間に、スティルはトレセン学園を去ってしまったんだった。手紙を……残して。手紙――なぜか違和感があった。今でも、たぶん、部屋のどこかに置いてある。エンドテーブルに積み重なった手紙の中か、棚の奥か、どこかの引き出しか……。ともかく、確実にある。探せば見つけられるはずなのに、その事に違和感があった。まるで、見つけられないことが真実かのような、今の現実が白昼夢であるかのような違和感。
有り得ない。
現実だ。
スティルはどこかに去ってしまい、私はトレーナーを続けている。バッドエンドでも、ハッピーエンドでもない、
いきなり連絡も無しに居なくなるのは珍しいものの、トレーナーと教え子という関係が終われば、そのまま希薄な繋がりとなってしまうことや、そもそも繋がりが消えてしまうことは普通だ。よくある話だった。
普通のこと……なのに。
目を瞑ると、紅い影が視界を覆う。まるで、
悪夢を見たのか、身体中がじっとりと濡れていて気持ち悪い。
起き上がろうとして――窓際に誰かが座っているのが見えた。
まさか、スティル――?
視界がぼやけている。陽光は私には眩すぎて、そのウマ娘――辛うじてわかる。尻尾と、耳――の姿形も光に呑まれてよく見えない。
心臓が高鳴った。
私が惚けるように見つめていると、そのウマ娘が起き上がった私に気がついて、ゆっくりと口を開いた。
「おはよ、トレーナー」
落ち着いた、優しげな声だった。
芯のある、よく通る声だった。……スティルではない。
私の口から、安堵なのか落胆なのかよくわからないため息が出てきた。うるさい心臓も落ち着く。
「貴方は……」
「まだ寝ぼけてるの? さっき授業終わって、もう放課後。学園のことは心配しないで。――もすぐに来るってさ」
「あ、そっか……」
恐らく――彼女の言うとおり、まだ寝ぼけている。それか、体調不良の一時的な後遺症か。意識ははっきりしているつもりだけれど、記憶が曖昧だった。
彼女には悪い気持ちを抱かない。それどころか、親近感を覚える。名前が聞き取れなかったが、誰かの名前を言っていた。
頭はよく働いていた。外の世界を上手く認知することはできないのに。だから、推察することはできる。
たぶん、今の私が担当している子たちなのだろう。なら、下手に心配を掛けてはならない。なるべく話を合わせて、私が元気であるように見せないと。
だからと言って……あまり私から語りかけることもない。
私が黙ると、彼女も黙った。じっと顔を見つめてくると、手元のスマホにメッセージを打って誰かに送り、外を眺め始めた。
私からなにかできることは無い。起こした身体をまた倒して、何も考えずに天井を見つめた。
そうして、暫く。
心地よい無言も耐えきれなくなる頃に、大きな音を立てて病室の扉が開いた。
「よおー。来たぜ」
身長の高いウマ娘が入ってきた。工夫して着崩した学園指定のコートのお陰で、その姿はまるで不良のように見えた。だけど、所作は作られた荒っぽさである事が簡単に見て取れた。マイルドヤンキー……死語かな。
その子は私を一瞥すると、窓際のウマ娘の近くに行って話しかけていた。大人しそうな彼女に語りかけるその姿は、知らない人が見たらカツアゲのようにも見える。……なるほど、この二人が今の教え子なんだ。
「どうだ? トレーナーの方は」
「元気そう。……たぶん」
「なんだよ『たぶん』って……。まあオマエがそう言うなら大丈夫なんだろうけどよ」
背の高いウマ娘は、鞄をそっと置くと、椅子にどすんと座り込んだ。そして脚を組んで頬杖をつき、私に向かってがなり立てるように話しかけてきた。
「にしても、驚いたぜ。いきなりぶっ倒れんだから……。何があったんだ?」
「お母さんが看護師やってるからさ。たまに仕事の話を聞いてたから、雑学程度に知ってたけど……はあ、まさか本当に使える時が来るなんて」
「いやー、ごめんね。心配かけちゃって」
努めて明るく笑いながら少しふざけたように言うと、彼女たちは呆れからなのか安心からなのか、肩を落としてため息をついていた。「案外平気そうだな」とか「心配して損したかも」とか、こそこそと話している声がしっかりと聞こえていた。
背の高い方の子が、ちらりと一瞬だけ私と視線を合わせて、すぐに気まずそうに逸らした。
「てか……なんだよその目」
「うーん、なんて言えば良いのかな……。でも、大丈夫。悪いものではない……はず……」
どう言えば良いのか迷ってしまうと、そんな歯切れの悪い言葉になってしまった。これじゃマズいとなんとか取り繕おうと思うものの、良い言い訳は思い浮かばなかった。
事実、そうなのだから。悪いものではない……恐らく。目が紅いから、視界が紅いから、陽光が眩いからと言って、それが何かを引き起こすようなことはない。
「お医者さんもそう言ってたけどさ……。私には、トレーナーさんはその……病気? になってるようにしか見えないんだけど」
大人しい子はあまり物怖じしないようだった。私のことをしっかりと見据えて、きかん坊に言い聞かせるように、優しく、しかし強く話しかけてくる。
目を逸らすのは、今度は私の番だった。
「餅は餅屋だよ。お医者さんの言うことは聞いとかないと」
何も映っていないテレビの方へと顔を向けて、なんとかそう言った。
だけど私の言い逃れはあまり通用しなかったようだった。彼女はベッドに腰掛けて、さらに近づいてくる。
その時、不意に咳が出た。
咄嗟に手で口を覆うと……手のひらに血が付いていた。心配そうな顔で背中をさすってくる彼女に悟られないように、水を指さして持ってくるように頼む。
私から離れるその瞬間に、シーツの裏側で手のひらを拭った。ほんの少しだから、この程度で何も問題は無くなる。
差し出された水を飲み込んで、口内に残る鉄の味を流した。
「んく……。ありがと。でも、ね? 私の言う通りだと思わない? ス……あれ」
身体に染み付いていたのだろう。普段通りに彼女の名前を口に出そうとして、気が付いた。
……彼女の名前が出てこない。それは当然だ。
気が付いたのは……違う名前が頭に浮かんだこと。
そんなはずないのに。
変な感じがして、焦りとともにこの子たち以外の名前を思い出そうとした。
同僚の……後輩……先輩……昔の人……今の人……。
だめ――だった。
覆い尽くされている。
真っ赤な、あの輝きが、全てを覆い尽くしている。
「? どうしたの?」
「やっぱり体調わりいんだろ。もっと寝てろよ」
「……あ」
そんな馬鹿なことない。
「あ、なた、たち、のなまえ……」
聞けば、思い出せる。
「私の名前? 名前は――『スティルインラブ』だけど……なに当然のこと聞いてるの?」
「あたし? 『スティルインラブ』だよ。寝惚けてるのか? ……病み上がりだもんな、仕方ないか」
スティルインラブ。
スティルインラブ、スティルインラブ。
スティルイン……ラブ?
「は、え、スティ……ル……?」
スティル。
おかしい、有り得ない……違う。スティルじゃない。この子たちは――ちがう。
現実に生じていた違和感が広がり、紅いヴェールがその濃さを増す。
蓋をしていた想いが、封を切って溢れ出す。
そうだ、スティルは、私の傍から離れていった。もういない。
スティルはいないんだ。二度と、あの走りを見ることは出来ない。
なにを考えていた?
一体、どうして、安穏と暮らせていた?
あの大切な、あの美しい、あの紅を忘れて、あの子から離れて、私はなにをしていた?
彼女たちは近いが……まだ、足りない。
美しくない。
私はもっと――あの走りが見たい。
月下を駆ける、見る者を喰らい尽くすような紅を。
「探しに……行かないと……」
休んでいる時間なんて無かった。
何年無駄にした?
スティルはどこに行ってしまった?
手紙は読んだのか?
なぜ探しに行かなかった……壊れることなんて、どうでも良いじゃないか。
今からだ。
紅で全て染め上げて、一緒にならないと。
私よりも
「トレーナー!? おい――! どうなってんだこれっ……!?」
「わかんない……! とにかく抑えといて、看護師さん呼んでくる!」
「……わかった! 早く行ってこい!」
見つけないと。私だけの紅を。
早く、スティルを。
スティルインラブを、スティルインラブを……見つけないと。
取り返しのつかないことになってしまうから。
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