「ごめんね、スティル」
「……私こそ。相応しくない話を、してしまいました……」
コーヒーを握りしめながら、私たちは互いに頭を下げあった。
そこで私は、あっ、と心の中で声に出した。このままだと、現役時代によくあった謙遜の――あるいは謝罪の無限の応酬になってしまいそうだ。
そのことにはスティルもすぐに気がついたようで、少し寂しげな、だけどそれ以上に期待に胸を膨らませているような顔で――当然私以外にはわからないくらいの、ほんの少しの変化だけど――話を切り出してきた。
「ところで、体調はどうですか?」
「元気。超元気。ありがとうね、スティル」
右腕を曲げて、力こぶを見せるような仕草をして笑いながら言う。スティルは口を抑えて上品に笑った。
久しぶりにスティルの顔を近くで見た。
あの時より大人びた彼女は、それでもまだ無垢だ。穢れを知らない少女のような顔をしている。肌は白磁のように白く、唇は新鮮なりんごよりも瑞々しい。
「……いえ」
私の視線を受けて、スティルは照れていた。頬に朱が差して、赤ん坊のようにかわいい。
紅い瞳に見惚れながら、私もスティルに聞いてみる。
「スティルこそ、満月なのに平気なの?」
「あの子は……今では静かです」
夜は、あの子が――スティルの本能が強くなる時だった。満月ともなれば本能の欲求は最も強くなる。
こうして、普段通りのスティルが穏やかに月を眺めているのは、どこか不思議だった。
まるで夢の中にいるかのような気がするが、突き刺すような寒さが、これが現実であることを物語っている。
「……居なくなっちゃったの?」
「いえ……。共におります。ですが、特別な……心躍る時にしか、語りかけようとはしてきません」
スティルが成長するように、あの子も成長していたらしい。トリプルティアラを戴冠した後のスティルからは……走ることに満足したスティルからは、本能がいなくなっていた。あの時と似たような感じ……かもしれない。
「大人になるにつれて、私たちは成長しましたから」
「そっか」
なんにせよ、スティルが自分の望むように暮らせているのなら、その事を知られただけで十分だった。
心を縛り付けていた枷が、一つ一つ解かれていく。ここでまた、私は気がついた。
こんなに、はっきりと重圧が無くなっていくことがわかるくらいに、私はスティルのことを心配していたらしい。
……ふう、とため息と自嘲が漏れた。リリーの言う通りだ。来てよかった。
表情を隠したくて、スティルの視線を誘導するように上を向く。
夜空には、月が浮かんでいた。
雲に隠れ、また現れて、その繰り返し。視界の端では星々がよく見える。
「月が綺麗だね」
「はい……」
しずしずと、スティルは頷いた。
「貴方のためなら、私は死ぬことだって厭いません」
「……ふふ。それはやめてほしいな。長生きして欲しいもの」
スティルに近づいた。
冷たい風が、ウマ娘の体温でわずかに和らぐ。微々たるものだけど、なぜか、小さい身体が頼もしい。
彼女の尻尾がぱたぱたと脚に当たる。次第に遠慮がちに絡めてきて、私が拒まないとわかると温めるように私の脚を包み込んでくれる。
「……あの後、ね」
「はい」
「二人に怒られちゃった。……いや、主には一人なんだけど……。正直、だから今ここにいるっていうのもある。情けないなー、私」
「変わりませんね」
「えっ……? そう?」
驚いて、スティルと顔を見合わせる。緋色の瞳が慈しむように私を覗いた。
変わってると思ったのに。あんまり変わってないらしい。
「はい。本来の貴方は、優しさで、自分の意思を我慢してしまう方でした。……変わりません」
「優しさ……なのかな。自分勝手なだけだろ、って怒られちゃったけど」
「視座の違いですね」
変わらないのなら、彼女だってそうだ。
大きくなったようで、なっていない。ずっと私のことを想ってくれていて、それ以上に大切な人として、彼女の心に刻まれている。
もう、あの時から何年も経っているのに。
私はずっと『トレーナーさん』のままだった。
……たぶん、彼女の前に立つと、私も同じであの時に戻ってしまう。だから、二人とも変わっていない。
時が止まって、ずっと一緒にいたかのような――どこか遠い別の世界から、この現実に帰ってきたような錯覚すら覚える。
「……スティルも、変わらないね」
「自分では、変わったつもりですが……。貴方にはそう見えますか?」
「うん。いつまでも同じ。あの時のスティルのまま」
はにかんで、前を向いた。
この場所はちょっとした高台にあって、府中の夜景がよく見えた。
きらきらと光る地平線の上には雲があって、月があって、星が光っている。
どこか曖昧な気がして、夢のような時間を過ごしているけれど、今ここにいるのは紛れもないどこまでも続く現実だった。
「ねえ、スティル」
無音の時間が暫し続く。冬の風は冷たく、木々にはまだ葉も茂っていない。風が吹く音だけが聞こえていた。
冷たさを心に受け入れるように、ある決心をした。
空元気を出して、努めて明るい声を出す。
「私、幸せだったよ。貴方に嘘はつきたくないから、本当のこと言うけど。貴方がいなくても、幸せだった」
スティルには言わない方が良いのかもしれない。きっと傷つけてしまう。
……だけど、隠していてもわかることだろうから、今のうちに言っておきたかった。
「でも……」
いや……言葉を続ける前に、スティルの気持ちを聞いておかないと。
「……スティル、私のこと、好き?」
「当然です」
即答が返ってきて、ついスティルに顔を向けてしまう。
うっすらと目が潤んでしまっていた。
「今でも、愛しています……。ずっと、ずっと。貴方とこうして話せることを夢見ていましたから」
なら、良かった。
私もすぐに言葉を返す。
「ならさ……私たち、やり直せないかな」
……あ。と思った。この言葉はまずい。だけど、出てしまった声は取り消すことはできない。
ちょっと、話の組み立て方を間違えた。
これじゃ浮気男みたいだ。
「……なぜ」
スティルは俯いてそう言った。
「今の貴方は、幸せなのでしょう。あの方たちだって……。同情から言っているのでしたら……それは」
顔を上げた彼女は、睨むように私を見つめる。
泣きそうになっていて、手も声も震えているのに……。
彼女は変わらないと言ったけれど、それは違うことに今更ながら思い至った。
もう、少女じゃないんだ。立派な自立した大人として、彼女はここにいる。
「同情じゃないよ。……貴方を都合の良い存在として扱いたいからでもない」
スティルの手を握り、懇願するように声を出す。
絶対に勘違いしてほしくなかった。
そのまま、冷たくしてしまった心に、ヒトより温かいウマ娘の体温を流し込む。比喩だけど、そう思うだけで、何も考えずともスティルに言うのに相応しい言葉を思い付く。
「私だって、何も知らない新人じゃないんだよ、スティル。あれから何年かな……」
出会ったときに中等部だったスティルが大人になるくらい。
トレセン学園に入ったばかりの新人トレーナーが、ベテランに足を踏み入れるくらい。
あれから、そのくらいの時が経った。
「私たち、大人になっちゃったね。……なんて言うには、年の差が大きすぎるか」
ただ、年の差は変わらない。スティルは大人になってすぐだけど、私は大人になってしばらく。
おどけてみせると、スティルは笑ってくれた。真っ赤な口内が覗き、一瞬だけ見惚れてしまうと、彼女は恥じらうように口を隠した。
気を取り直して、話を続ける。
「貴方がいない日常を過ごす中で、何回も思ってたの」
ずっと待っていた。願っていた。
このときを。
スティルとまた会う、この夜を。
「楽しい場所に行った時――スティルなら、どんな顔をするかなって」
遊園地のナイトパレードを見たときの、貴方の横顔。
それを思い浮かべて、目の前の景色に貴方を並べていた。
「馬鹿みたいな話をした時、貴方はどんな言葉を返してくれるかなって」
お菓子について語っているときの、貴方の楽しそうな顔。
きっと、貴方ならそんな顔で聞いてくれるって――勝手に思っていた。
「どうしようもない出来事にぶつかった時……貴方が傍に居てくれたら……って」
クリスマスのときを――思い出した。そういえば、その時もここに居た。
同じように、寒い日で……雪が降ってきて。
場所は覚えていなかったけれど、貴方の言葉は覚えていたんだ。
辛いときも、ずっと、貴方の欠片は私の傍に居てくれた。
……本当の貴方も傍に居てほしかった……。
「でも、その感情を無視していた。私は貴方に相応しくないって、そう思って。何年経ってもずっと蓋をし続けて、気付かないふりをしていたの」
しかし――
私はすべて塗り潰した。
スティルには相応しくない。その一心で、彼女の欠片が現れるたびに丁寧に消していた。
いつか、絶対に思い出すことのないように。
「だけどね。もう一度会うことができて、気付いたよ」
そこまでして抑えつけていた気持ちは、それでも消え去ることはなかった。
スティルを見つめる。
彼女も見つめ返してくれる。
月光が瞳を照らす。
長い睫毛、赤い唇、柔らかい髪。
想いが溢れそうになる。
「ねえ、スティル」
「はい、トレーナーさん」
言わずとも察せられる。
しかし、言わずにはいられなかった。
「……私は、貴方を」
スティルの手を引いて、立ってもらった。
両手を下げて、腰のあたりで握った。
――暖かい。大好きなひとの、心の温もり。
「穏やかで、優しくて、少し控えめな、等身大の貴方を――」
改まって言うのは結構恥ずかしい。
期待の視線に晒されながら言うから尚更。
勇気を振り絞った。
「今でも、愛してる」
月に照らされた私のシルエットは、緋色の帳によく映えた。
ハメでの感想評価お気に入り、ほかにも感想ツイや支援絵等々どれか一つだけでもすごく嬉しいです!よろしくお願いします!
してくれてる人はありがとうございます!あなたのお陰で作品は完結まで続きます!
ウマ娘用X▶︎@chitosejinko