エタった小説のラスボス邪神に転生したが、過去の俺の性癖が痛すぎて死にたい   作:超とんでもなくムッチリしたインコ

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すまん。胸くそ注意だ。そして長文だ。
胸糞描写が連話しすぎるの避ける為、なるだけ纏めたからだ。


第19話 少女に安易な救いなどいらない

最初は、何もかも順調だった。

『鬱シナリオ』から外れ、ハッピーエンドへと向かっていると思った。

 

いじめは影を潜め、クラスの空気も軟化していた。

昼休みには、屋上で俺たちと一緒に食事をとる。

アリスが小さく笑ったのを見た時、俺はその時こう思ったのだ。

 

『このままいけば、アリスは闇落ちしない』

 

だが今の俺の胸中に去来したのは安堵ではない。

焼け付くような焦燥感だった。

 

(……順調すぎる)

 

そうだ、俺が書いた『黒歴史』の強制力は、こんなものではないはずだ。

嵐の前の静けさ。

世界が特大の絶望を叩きつけるために、今は力を溜めているとしたら?

 

脳裏に蘇るのは昨日のアッシュの言葉だ。

別れ際、奴はこう告げた。

 

 

『お前が何者であろうと、避けられぬ「結末」からは逃れられない』

 

 

その夜。

俺は屋敷のリビングに、カイ、エリス、ルミナを集めた。

 

「……話がある。アリスのことだ」

 

俺は重い口を開き、一枚の羊皮紙をテーブルに置いた。

そこには、かつて俺が黒歴史ノートに書きなぐったポエム――

いや、呪いの文章を書き写しておいた。

 

「これは?」

 

エリスが眉をひそめる。

 

「……俺が『邪心』として受信した言葉を書き写した。無視できないほど強烈な『呪詛』の気配を感じてな」

 

俺は嘘をついた。自分が書いたポエムとは口が裂けても言えない。

どこかで拾ったなどと証拠をでっち上げると、現物を見せろと言われかねない。

だから邪神としての「受信」という体裁をとった。

 

「ただの戯言かもしれない。だが……妙に気になってな。読んでみてくれ」

 

エリスが羊皮紙を手に取る。

彼女は冷静な目で文字を追っていたが、次第にその表情が曇っていった。

 

『少女に、安易な救いなどいらない。

彼女の美学は、自ら閉ざした鳥籠という器の中で完結する。

その痛みは毒の根のように侵食し、抵抗の証として黒い花を咲かせる。

他者の手は届かず、誰にも理解されず、闇に沈む……』

 

読み終えたエリスはそっとテーブルに戻した。

 

「……なんだこれは。気分が悪くなる文章だな」

 

「ああ。まるで、不幸を願う呪いの言葉だ」

 

俺は、自分の言葉に同意した。同意するしかなかった。

俺の胃がキリキリと痛み、酸っぱいものが込み上げてくる。

不快感を抱いているのは、俺の感性に対してだ。

かつての俺がカッコいいと思って書いた言葉は仲間を不快にさせ、アリスを追い詰めかねない凶器となっている。

 

(……俺は、なんてものを書いたんだ)

 

強烈な自己嫌悪で、視界が歪む。

これは俺が書いたんだと叫んで謝罪できればどれほど楽か。

その欺瞞が俺の心を締め付けた。

 

「……詩的な表現ですわね」

 

ルミナが静かに言った。

 

「精神的な孤独を表しているようにも読めますが……」

 

「ああ、そうだな」

 

俺は喉の渇きを覚えながら、核心に触れる。

 

「だが、俺はこの一節が……どうしても引っかかるんだ。『毒の根のように侵食し』という部分が」

 

「侵食、ですか?」

 

「……根拠はない。だが、邪神としての直感が告げている。これはただのポエムじゃない」

 

俺は羊皮紙を指でなぞりながら、慎重に言葉を選んだ。

断定を避け、あくまで可能性として提示する。

 

「ルミナ、お前なら分かるはずだ。高位の呪術や儀式において、言葉は単なる伝達手段じゃない。事象を固定するための『定義』だろ?」

 

「……おっしゃる通りですわ。『対象』と『状態』を定義することで、魔力は行き先を得ますから」

 

ルミナがハッとして俺を見る。

俺は頷き、畳み掛けた。

 

「これが……アリスを追い詰めるための『儀式の工程』だとしたらどうだ? 『侵食』という言葉が、比喩ではなく、物理的な現象として定義されていたら?」

 

「……っ」

 

ルミナの顔色がサッと青ざめる。

彼女がその可能性を理解したことで、場の空気が一気に張り詰めた。

 

「おい……まさか……」

 

カイが引きつった笑いを浮かべる。

 

「比喩じゃなくて、マジで何かが起こるのか……?」

 

「分からない。……だが、俺たちは『神隠し』という怪異を調査しに来ているんだ。何が起きてもおかしくない」

 

そう口にした瞬間、脳裏に冷たい閃きが走った。

 

(……待てよ。神隠し……?)

 

昨日のアッシュの言葉がよみがえる。

あいつの言う「逃れられない結末」というのが、この「神隠し」のことを指していたとしたら。

 

(……まさか、レオンハルト)

 

あいつはもう、この世界から隠されてしまったんじゃないだろうか。

俺は拳を強く握りしめ、焦燥を振り払うように全員の目を見た。

 

「……もしアリスの周りで、何かが壊れたり、不可解な現象が起きたりしたら……その時は、俺たちが全力でカバーするんだ。アリスが孤立しないように」

 

「……承知いたしました」

 

ルミナが深く頷く。

 

「確かに、呪いとは『不条理』を現実に強制するものです。邪神様の懸念、あながち杞憂とは言い切れませんわ」

 

「わかったぜ」

 

カイがニヤリと笑い、力強く頷いた。

 

「深淵を覗く師匠の眼が『来る』と言っているんだ。なら、俺たちは迎撃の準備をするだけだ。……アリスを狙う悪意が何であれ、俺の黒竜が食らい尽くしてやる」

 

「……ああ、頼む」

 

俺は息を吐く。カイの純粋な信頼が、今は痛い。

俺は彼らを騙し、巻き込んでいる。

 

「何も起きなければ、それが一番だ」

 

俺が話を締めくくろうとした時、視線を感じた。

エリスだ。

彼女だけは羊皮紙ではなく、じっと俺の横顔を見ていた。

 

「……アルテ」

 

「……ん? どうした」

 

「いや……無理はするなよ」

 

エリスの瞳は俺の言葉の奥にある、言えない何かを見透かそうとしているようだった。

彼女には分かっているのかもしれない。

俺が今、言葉にできない何かを抱え込んでいることを。

 

「……、分かってる」

 

俺は短く答えることしかできなかった。

 

 

異変は翌日の朝、唐突に始まった。

 

 

一限目の授業後。

教室の空気がほんの一瞬だけ、歪んだ気がした。

俺は顔を上げる。

 

隣の席のアリスが手を止めていた。

 

「……え?」

 

「インク……? でも、触ってないのに……」

 

アリスが机を見下ろす。

そこには、コイン大の黒いシミが浮かんでいた。

 

(……まさか)

 

俺はすぐにアリスの席へ駆け寄った。

カイとルミナも昨夜の話を思い出したのか、硬い表情で集まってくる。

 

「アリスさん、どうしました……?」

 

「あ、アルテさん。すみません、なんか汚れちゃってて……」

 

アリスが指差した先。

黒いシミは、さっきよりも明らかに広がっていた。

 

俺は息を呑む。ただのインク汚れじゃない。

俺には分かる。どす黒い腐敗が滲み出している。

 

「……カイ、ルミナ」

 

俺が小声で名前を呼ぶと、二人が息を呑む気配がした。

間違いなく『黒歴史』の始まりだ。

 

だが、アリスの前で俺たちの動揺を悟られるわけにはいかない。

俺は腹に力を入れ、努めて明るい声を作った。

 

「大丈夫です、アリスさん。ちょっとした汚れみたいなものです」

 

「え、でも……」

 

「……アリス、ちょっと離れててくれ」

 

カイがアリスの肩を引き寄せ、席から遠ざける。

そして、自分のポケットからハンカチを取り出した。

 

「闇の浸食か……。ならば、俺の右腕が拭い去るのみ」

 

俺とカイは視線を交わした。

カイも気づいている。これが普通の汚れではないことを。

だからこそ、アリスに触れさせたくないのだ。

 

カイはハンカチを机に当て、そっと拭き取ろうとした。

 

その瞬間。

 

ズブッ……。

 

カイの手が止まった。

 

「……えっ?」

 

拭いた感触がない。

硬い木材のはずなのに、まるで泥の中に指を突っ込んだような、頼りない手応え。

 

「……な、なんだよこれ。拭いた感触が……なかったぞ?」

 

カイが青ざめて手を引っ込める。

ハンカチは真っ黒に汚れ、彼が触れた部分は、大きく抉れていた。

 

そして――

 

ミシッ……ミシミシミシッ……!

 

机全体から、不吉な音が響いた。

まるで何かが蝕んでいくような、繊維が切れる音。

 

「な……?」

 

カイが一歩下がった、その刹那。

 

ドシャアアアァッ!!

 

机が崩壊した。

 

天板が真ん中からへし折れ、脚が根元から砕け散る。

木材は形を保つ力を失い、黒い腐泥のようなものに還って床にぶちまけられた。

教室に、腐った臭いが充満する。

 

「うわっ、くっせ!」

「何あれ……汚ねぇ……」

 

遠巻きに見ていたクラスメイトたちが鼻をつまみ、明らかに嫌悪の表情で距離を取る。

 

「お、おい、待てって……。俺が勝手に触っただけだ……それで……こんな……」

 

カイの手は汚れただけだが、机の方は完全に死んでいた。

ほんの少し前までアリスが使っていた机が跡形もなく腐食している。

 

「……アリスの席、だよな」

 

誰かが、床に転がった残骸を指差しながら言った。

それを合図にしたかのように、ひそひそとした囁きが一斉に広がる。

 

「最初に黒くなってたの、あの机だけだろ」

「木があんな腐るとか、普通じゃねぇし……」

 

ざわめきが、確信めいた色を帯び始める。

視線が一斉に、アリスへと集まった。

 

(……まずい)

 

黒いシミは、机が崩れた後も消えていない。

床に広がった残骸からじわりじわりと、黒い染みが周囲へ滲んでいる。

まるで地面を這う影のように。

 

「な、なんか俺の椅子も変だぞ……」

 

隣の席の男子生徒が、自分の椅子を見下ろす。

座面に小さな黒いシミが浮かんでいた。

 

「うわ、マジかよ……!?」

 

彼が立ち上がろうとした、その瞬間。

 

ベキョッ!

 

椅子が、粉々に砕け散った。

 

「きゃあっ! 私の机にもヒビが入ってる!」

「あたしの机も! 黒いシミが……!」

 

侵食はアリスの席を中心として、波紋のように広がっていた。

アリスに近い席から順にまるで見えない毒が、強制的に寿命を奪うかのように腐らせていく。

 

「……あ、あ……」

 

アリスが顔を上げる。

自分の机だけじゃない。クラスメイトの机まで腐らせてしまった。

彼女は血の気を失い、ガタガタと震え出した。

 

「おい!アリス! お前、何したんだよ!」

「ふざけんなよ、俺の私物もあったんだぞ!」

「疫病神……ッ、こっち見んな!」

 

クラスメイトの不満が、ついに声となって漏れ出した。

罵声の雨が、無防備なアリスに降り注ぐ。

 

「ご、めんなさい……ごめんなさい……!」

 

アリスが頭を抱え、小さく縮こまる。

 

「騒がしい! 何事だッ!!」

 

鋭い怒声と共に、教室の扉が勢いよく開かれた。

エリスだ。

どうやら廊下を巡回中、教室内の騒ぎを聞きつけたらしい。

ジャージ姿の彼女はカツカツと足音を立てて教室に入り、惨状を目にして眉を吊り上げた。

 

「……これは、なんだ」

 

「せ、先生! アリスのやつが!」

 

「いきなり机を腐らせて……! 俺たちの机まで壊れたんです!」

 

生徒たちが口々に訴える。

その喧騒の中、俺はふと顔を上げたエリスと視線を交わした。

ほんの一瞬の交錯。だが、それだけで十分だった。

 

「静粛に!!」

 

二度目の一喝で、教室の空気がビリリと震える。

エリスは腕を組み、生徒たちを見回した。

 

「結論を決めつけるな!怪我人が出なかったこと、今はそれで十分だ!」

 

エリスによる一喝。

普段なら、この威圧感で生徒たちは縮み上がるはずだ。

だが――。

 

「はあ? 何言ってんだこの教師」

「あいつの机から腐ったんだぞ!」

「先生もあいつの味方かよ」

 

止まらない。

エリスの威圧を受けてなお、彼らの瞳には理性を欠いた敵意が宿っている。

その光景を見て、俺の背筋に新たな寒気が走った。

 

(……おかしい)

 

俺は周囲を見渡す。

俺達以外、誰一人としてアリスを気遣う者がいない。

エリスの言葉すら、彼らの耳には届いていない。

 

(……『その痛みは毒の根のように侵食し』……)

 

俺は奥歯を噛み締めた。

これがあの記述――俺がかつて黒歴史ノートに書き殴った、『設定』の正体だというのか。

ただ机が腐るだけじゃない。

この異常な敵意。急速な掌返し。

 

まさか、この「毒」は物理的な物質だけでなく――人の「心」までも腐らせているのか?

 

 

 

次の日、授業の移動中。

その廊下で、決定的な亀裂が入った。

 

「きゃっ!?」

 

アリスが一歩を踏み出した瞬間、メリメリッ! という嫌な音と共に、床板が腐食して崩落した。

 

「アリス!」

 

とっさにカイが手を伸ばし、彼女を抱き寄せる。

だが、その代償はすぐに訪れた。

腐り落ちた床の鋭いささくれが、カイの足首を無惨に裂いたのだ。

 

「ぐっ……!」

「カイさん!?」

 

カイの足から鮮血が滴り落ちる。

 

「カイ!」

 

誰よりも早く駆け寄ったのはルミナだった。

彼女はカイの前に膝をつくと、悲痛な表情で傷口に手をかざす。

 

「《聖なる光よ、愛しき者の痛みを癒やしたまえ……》」

 

小声で紡がれた言葉。淡い光がカイの足を包み込む。

パックリと裂けた傷口は見る見るうちに塞がり、元通りの肌に戻っていく。

一介の学生を装いながらも、その手際は鮮やかだった。

 

「……すまねぇ、ルミナ。助かった」

 

「いいえ。カイが無事なら……」

 

ルミナは安堵の息をつく。

カイの傷は完全に消え去った。

 

だが――「血」は消えない。

 

カイのズボンはべっとりと赤く汚れ、床にはアリスを庇って流れた鮮血が、生々しい水溜まりを作っていた。

痛々しい加害の痕跡だけが、そこに取り残されている。

 

「ご、ごめんなさい……カイさん、私のせいで……!」

 

アリスが真っ青な顔で震えだす。

その姿を見て、カイは努めて明るく笑い飛ばした。

 

「気にするな、アリス。俺が勝手に転んだだけだ、あんたは悪くない」

 

「そうですわアリス様。これはただの事故です」

 

カイとルミナも即座に口を添え、アリスを庇うように周囲の視線を遮った。

それが俺たちにできる唯一のフォローだった。

 

「……ねえ、見た? 今、あの子が踏んだだけで床が抜けたよ?」

 

だがそれすらも今の歪んだ空気の中では、最悪の燃料にしかならなかった。

 

「……なんかもう、呪われてるとかいうレベルじゃなくない? 」

 

「カイ君たち、優しすぎでしょ。あいつに何か弱みでも握られてんの?」

 

カイの女子人気は凄まじいが、男子からはキザな野郎と疎まれる傾向にあった。

しかし、ようやく男子連中とも打ち解け始めていた矢先。

その積み重ねが、今は逆効果だった。

 

「……チッ、またアリスかよ」

 

「いい気なもんだよな。カイに庇わせてよぉ」

 

男子生徒たちの舌打ち。

そして、女子生徒たちの容赦ない視線。

 

俺は口を開きかけて――やめた。

 

今ここで俺まで何か言えば、それはきっと、アリスを守る言葉にはならない。

庇えば庇うほど周囲の同情はカイたちへ、そして憎悪はすべてアリスへと注がれていく。

カイの献身は「アリスに強いられた犠牲」として歪曲され、俺たちの擁護は被害者のやせ我慢として美化される。

 

アリスは真っ青な顔で、血に濡れたままのカイの足を見つめ、震えていた。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 

 

負の連鎖は止まらない。

昼休み。

 

外は朝からの暴風雨で、いつもの屋上は使えなかった。

俺たちは逃げ場を失い、喧騒に包まれた食堂の隅に陣取っていた。

 

アリスは周囲の視線に怯えながらも、小さく息を吸った。

 

「……だ、大丈夫」

 

そう自分に言い聞かせるように呟き、ランチセットの焼きたてのパンに手を伸ばした。

 

その瞬間。

 

シュワァ……ッ。

 

空気が抜けるような枯れた音がした。

 

アリスの指先が触れたパンから、一瞬にして湯気が消え失せる。

ふっくらとしていた表面は、見る見るうちに水分を失ってひび割れ、瞬く間に青カビに覆われた化石のように硬化した。

 

「え……?」

 

それだけではない。

鮮やかだったサラダは茶色く変色してドロドロに溶け崩れた。

まるで、そこだけ時間が一瞬で過ぎ去ったかのように。

 

「くっさ……何これ、腐敗臭……?」

 

隣のテーブルの生徒が鼻をつまむ。

アリスの皿だけではない。

半径数メートル以内の、他の生徒の料理までもが、急速に風化し、腐敗し始めたのだ。

 

「なんだこれ!さっきまで普通だったのに!!」

「ふざけんな、せっかくの昼メシが!」

 

アリスの手が空を切る。

食べられない。

空腹なのに近づくもの全てが、その寿命を尽くして死んでいく。

 

「……ごちそうさま、でした」

 

アリスは何も食べず、逃げるように席を立った。

その背中は数日前よりも明らかに小さく、やつれていた。

 

 

「……花を見に行きましょう、アリスさん」

 

放課後、俺たちはアリスを中庭へ誘った。

食事も喉を通らず、クラスにも居場所がない。

しかし彼女が大切に世話をしていた花壇を見れば、少しは気が紛れるかもしれないと思ったからだ。

外はまだ小雨がぱらついていたが、俺たちは傘をさして花壇の前にしゃがみ込んだ。

 

そこには白い花が健気に咲いていた。

唯一、アリスがまだ大丈夫だと信じていた場所。

 

「……雨に濡れて、綺麗ですね」

 

アリスの表情がわずかに和らぐ。

彼女はしゃがみ込み、愛おしそうに花に指先を伸ばした。

 

だが。

指先が花弁に触れた、その瞬間だった。

 

ジュッ……

 

花が黒く染まった。

枯れたのではない。毒を注ぎ込まれたように、どす黒く溶け崩れたのだ。

腐敗は連鎖し隣の花へ、そのまた隣の花へと爆発的に広がる。

あっという間に、美しい花壇は死骸の沼へと変わった。

 

「あ……あぁ……」

 

アリスが腰を抜かす。

 

「なんで……? お花まで……?」

 

通りかかった園芸委員たちが、悲鳴を上げた。

彼らがアリスに向ける目は、もはや迷惑な生徒を見る目ではない。

駆除すべき害虫を見る目だった。

 

「出てけよ!」

 

誰かが叫んだ、その直後だった。

 

ゴッ!

 

鈍い音がした。

 

「――っ!?」

 

アリスの体が仰け反る。

彼女が押さえた白い額から、ツー……と赤い筋が流れ落ちた。

血だ。

何かが彼女の額に叩きつけられた。

足元には、石が転がっている。

 

「アリス!!」

 

俺が叫ぶより速く、白い影が動いた。

ルミナだ。

彼女はすぐ駆け寄り、その体を抱きしめながら周囲を睨みつけた。

 

「……下劣な真似を」

 

だがアリスに向き直ると、その表情は慈母のように和らぐ。

彼女はアリスの額に手をかざし、静かに、そして力強く詠唱した。

 

「慈悲深き光よ、穢れなき乙女の痛みを拭い去りたまえ……」

 

清浄な光がアリスを包み込む。

パックリと割れていた傷口は瞬く間に塞がり、傷跡一つ残らず消え去った。

 

「……傷は消えました。もう大丈夫です」

 

ルミナが優しく背中をさする。

だがアリスの手は、まだ額を押さえたまま震えていた。

 

「……血が」

 

「アリス様……」

 

「血は止まったのに……まだ、痛いんです。……怖いんです」

 

アリスの目から涙が溢れる。

傷は治せる。だが、石を投げられたという恐怖は、どんな高位の魔法でも治せない。

 

「だ、誰だ……! 今投げたのは誰だ!!」

 

カイが周囲を睨みつけた。

だが――誰もいない。

遠巻きに見ている生徒たちはいるが、誰も投石の動作などしていない。

まるで、空気そのものが石を吐き出したかのように。

 

世界がアリスから食べる権利も愛でる権利も、そして安全さえも奪い尽くそうとしている。

 

 

その夜。

俺たちは屋敷のリビングで、重苦しい空気に包まれていた。

 

「……原因は、特定できません」

 

ルミナが悔しげに報告する。

 

「学園の防衛結界……安全面を考えれば当然張られているはずですが、外部からの干渉反応はゼロ。それに、呪い特有の波長も皆無でした」

 

困惑したように眉を寄せ、言葉を継ぐ。

 

「魔法で操ったわけでも、殺意を持って投げたわけでもない……まるで、風が吹くような自然現象として、石がアリス様に吸い込まれたとしか……」

 

ルミナは組んだ指が白くなるほど強く手を握り締めた。

 

「……それに、本来の目的である『神隠し』の調査も、手詰まりです。当初の推測通り、アリス様が『鍵』であることは間違いないはず。ですが……アリス様に向けられる『悪意』の密度が高すぎます」

 

「師匠……限界だ。……このまま通学を続ければ、アリスの心が壊れる……」

 

カイの拳が膝の上で震えている。

 

「それに、石の次はなんだ……? もっと酷い暴力が振るわれるかもしれない……もう……心が保たねぇよ……」

 

目の前の一人の少女を守ることすらままならない。

守れなかった悔しさが、彼を苛んでいるのだ。

エリスが腕を組み、沈痛な面持ちで口を開いた。

 

「机や床の腐敗、そして今回の投石……。原因が掴めない以上、一旦、学園から遠ざけるべきだな……」

 

「……明日、アリスに伝えよう」

 

俺は決断した。

 

「……しばらく、学校を休んでもらおう。対処法が確立するまでは……この屋敷で、俺たちが守るしかない……」

 

それは敗北宣言だった。

かつて俺は『黒歴史ノート』にこう書いた。

『彼女の美学は、自ら閉ざした鳥籠という器の中で完結する』と。

 

俺はそれらを回避するために戦ってきたはずだ。

なのに結局俺は、アリスを「屋敷という鳥籠」に押し込めようとしている。

その事実に吐き気がした。

 

 

翌日、昼休み。

俺たちはアリスを屋上に連れ出した。

風が強い日だった。アリスは虚ろな目で空を見上げている。

 

「……アリスさん」

 

「分かってます、アルテさん」

 

俺が口を開く前に、アリスが弱々しく微笑んだ。

その笑顔はあまりに儚くて、見ていられなかった。

 

「もう、学校には来ない方がいい……ですよね?」

 

「……っ」

 

「私がいるとみんな不幸になる。カイさんが怪我をして、お花が死んで、みんなのご飯が腐って……」

 

「違う! そうじゃないんです! それはアリスのせいじゃ――!」

 

俺の叫びは、虚しく響いた。

事実は事実として、残酷に積み重なっている。

 

「ごめんなさい。……私、やっぱり『外』に出ちゃいけなかったんです」

 

アリスが瞳を閉じる。

諦めと深い絶望が、彼女を塗り潰そうとしていた。

 

その時だ。

 

「あ、あの……アリスさん!」

 

屋上の扉が開き、1人の女子生徒が入ってきた。

図書委員の生徒だ。

彼女は、勇気を振り絞るようにアリスに歩み寄った。

 

「見たの。花壇が腐った時、アリスさんは泣いてた。……私、正しいかは分からないけど……

でも、あれを見て、悪意だなんて思えなかった」

 

希望の光が見えた。

この腐ったシナリオの中にも、まだ善意は残っていたのだ。

 

「……私を……信じてくれるの……?」

 

「……私、アリスさん、花が好きだったの知ってるもの……」

 

女子生徒が、アリスに手を差し伸べようとする。

その手がアリスの手と触れ合うまで、あと数センチ。

 

(ああ……まだ、終わってない)

 

俺はそう安堵した。

 

だが。

 

『少女に安易な救いなどいらない』

 

脳裏にかつて俺が書き記した『呪い』の一節が蘇った。

 

次の瞬間。

 

フッ。

 

アリスに手を伸ばしていた生徒の姿が――掻き消えた。

 

悲鳴も予兆もなく。

まるで、最初からそこに誰もいなかったかのように。

 

「――え?」

 

アリスの手が、空を掴む。

 

「……あれ?」

 

アリスが呆けた声を出す。

俺もまた、状況を理解できずに瞬きを繰り返した。

 

いない。女子生徒が、跡形もなく消え失せている。

悲鳴を上げる暇も、影に飲まれる過程もなく。

あまりにも唐突に、存在ごと切り取られていた。

 

俺の背筋を、極寒の悪寒が貫いた。

反応することすら許されない、神速の消失。

 

(……な、なんだ、今のは!?)

 

魔法や転移なんてチャチなもんじゃない。

過程を飛ばしていなかったという結果だけを現実に上書きしたのだ。

これこそが、俺たちが追っていた怪異。

 

(……『神隠し』……!?)

 

「お兄様ッ!!」

 

俺はこの狂った現実の確認を取らずにはいられなかった。

 

「今……今の、見ましたか!?」

 

俺の声は裏返り、震えていた。

だが、カイの反応は俺が求めたものとは違った。

 

「な、何の話だ、妹よ……?」

 

「消え、たんです!今そこで、アリスさんと話していた……!」

 

俺は誰もいない空間を指差す。

そこにいたんだ。つい数秒前まで。

 

「……妹よ、落ち着いてくれ」

 

カイが俺の肩を強く掴む。

その瞳にあるのは深い心配と焦燥だった。

 

「最初から、ここには俺たちしかいないだろ……?」

 

「あ……」

 

カイの目は本気だった。演技ではない。

今の消失も、女子生徒の存在そのものも、最初から存在しなかったことになっているのだ。

 

「ルミナさんは!? 見えていましたよね!?」

 

「え……? あ、アルテ様……いえ、なにを……?」

 

ルミナもまた、不安げにカイの背後に控えているだけだ。

彼女ほどの聖女ですら、反応一つ感知できていない。

 

俺は理解した。

そして、アリスも理解してしまった。

世界がなかったことにしたのだ。

 

「……ッ」

 

だが、ただ一人。

エリスだけが、青ざめた顔で何もない空間を凝視していた。

そして、自身の胸元を強く握りしめる。

 

「……な、なんだ、今の寒気は」

 

エリスが呻くように呟く。

 

「エリス先生、見えたのですか……?」

 

「いや……何も見えていない。だが……今、何かが『欠け落ちた』ような……強烈な喪失感があった」

 

(……エリスは、違和感を覚えている?)

 

俺はカイとエリスを見比べた。

この世界の住人であるカイやルミナは神隠しによって記憶ごと改変されている。

だが、エリスだけは、完全な忘却に抗うように違和感を感じ取っている。

 

だが、今の俺にはそれを考察する余裕などなかった。

もっと根本的な絶望が、俺の心をへし折ろうとしていたからだ。

 

差し出された救いは、握る前に消された。

善意ある人が消えていく。

しかも、誰の記憶にも残らずに。

 

「あ……ぁあ……」

 

アリスが、震える手で自分の喉を押さえる。

 

「……やっぱり、わたしの、せいだ」

 

彼女の中で、何かが静かに壊れる音がした。




明日と明後日も投稿するぜ
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