エタった小説のラスボス邪神に転生したが、過去の俺の性癖が痛すぎて死にたい 作:超とんでもなくムッチリしたインコ
規格外には規格外をぶつけるしかないと真の邪神が覚醒
その間にカイたちはデコピンでアリスのもとまで吹っ飛んでるよ
虚空から引き抜かれた黒い大鎌が、白金の空間に禍々しい軌跡を描いた。
直後。ジャバウォックの巨体が、三日月のように歪んだ軌道で突進してくる。だが、私は避けることすらしない。
ヒュンッ、と。
奴の爪が私の身体を確かに両断した――かに見えた。
だが、その軌跡は何も斬らない。
私の身体は紙芝居の絵が飛ぶように不連続に位置を変え、次の瞬間には奴の死角へ移っていた。
かつての創造主が描いた粗雑な棒人間。ゆえに私は、人体という概念に縛られない。
ギィィィィンッ!!
振り下ろしたはずの大鎌が、あり得ない角度から再び現れる。
左。右。背後。
そして、そこにいるはずのない場所から、予測不能の斬撃が嵐のように降り注ぐ。
絶対硬度を誇る装甲が紙のように裂け、巨体に無数の裂傷が刻み込まれた。
『……LOO?』
だが、全身をズタズタにされながらも化け物の動きは止まらない。斬られた肉体から血は出ず、痛みすら感じている様子はなかった。
『かつての創造主は、お前をただの無敵の化け物として書き殴った』
私は見当違いの方向を向いている没の染みを見下ろした。
『だが、その装甲の内側に生命を書き込むことを忘れた。ゆえに、お前には魂がなく、苦痛を知らず、そして死の概念すら存在しない』
私は染みに向けて青白い指先をパチンと鳴らした。
『哀れな没の染みだ。ならば、私が空欄のページに書き足してやろう。――「命」を』
ドクン……ッ。
指の音に応えるように、ジャバウォックの胸の奥底で、脈打つ『心臓』の音が響いた。
それは化け物が初めて得た生。初めての感覚。
そして同時に、自分がすでに無数に切り裂かれているという事実の理解だった。
『……AA……AAAAAA!?』
化け物は絶叫した。理解してしまったのだ。
自分がすでに、取り返しのつかないほど切り刻まれているという事実を。
全身を覆う傷口という傷口が、一斉に悲鳴を上げる。それは一太刀ではない。
数十。数百。あるいは数千。
先ほどまで意味を持たなかった斬撃の全てが、遅れて牙を剥いたのだ。
『……なるほど。苦痛とは、そういうものか』
私は地面をのたうち回る染みを見下ろし、冷たい宣告を下す。
『だが、お前は死ねない』
絶対に壊れない無敵の肉体と、死ぬほどの激痛。
相反する理に耐えきれず、無敵であるはずの存在が自らを維持できなくなっていた。
絶叫と共に、その輪郭が崩れ始める。
『GAAAAAAAAAAAHHH!!!?』
存在の崩壊を告げる、狂乱の大絶叫。
それは白金の空間すらも震わせ、鏡の国の最奥にまでビリビリと響き渡った。
やがて、鼓膜を裂くような断末魔が途切れる。
絶対硬度を誇った怪物は、風に吹かれた砂の城のように崩れ去った。
『泥底の創造主。足掻きの結末を、見物してやろうと思っていたが……』
私は大鎌を下ろし、自然とチェス盤の第八マスへ移った。
悠然と向かうつもりだった私の意志よりも早く、この足が無意識のうちに、最奥のマスへ向けて空間を蹴ろうとしていたからだ。
『……忌々しい。まだ私の器を引いているか』
ほんの僅かな、しかし明確な肉体の反逆。
私はその不快な綻びに目を細めながら、事の結末を確かめるべく虚空を滑った。
* * *
師匠の放ったデコピンの推進力はマジで規格外だ。
俺たち四人は人間大砲の弾となって、白金の鏡面世界をカッ飛んでいる。
「ルミナ! クッション頼むぜ! 後ろは俺と『こいつ』が引き受けるッ!」
俺は数珠繋ぎの陣形の最後尾――逆向きの先頭として『ダークネス・バイブル』を構え、背後から迫る空間の崩壊を真っ向から受け止めていた。
俺の背中越し、進行方向の最前列からルミナの力強い声が響く。
「聖なる防壁、最大出力で展開しますわ! さあ皆様、衝撃に備えなさいませッ!」
「カイ、ノートから絶対に手を離すなよ!」
「……来るぞッ!」
エリスとアッシュの鋭い声が交差した直後。
先頭のルミナの光の壁が幾重にも砕け散る甲高い音と共に、俺たちは玉突き事故のように、チェス盤の最奥――第八マスへと激突した。
ズガァァァァァァンッ!!
白金の床を派手に転がり、ようやく勢いが死ぬ。
結んでいた縄はとっくに千切れていたらしい。どこか折れていてもおかしくない衝撃だ。
だが、闇に選ばれし者が仲間の前で無様を晒すわけにはいかない。
俺は震える足に力を込め、不敵な笑みを浮かべる。
「……ふっ。他愛もない。冥府の入り口の突風にしては、少々生温かったな」
「カイ! 無事ですの!?」
ルミナが慌てた様子で俺に駆け寄ってくる。
白い法衣もあちこち破れ、擦り傷だらけだ。
「ああ。少し傷ついたが魂までは届いてない。ルミナこそ、大丈夫か?」
「私は平気ですわ。……ですが、カイ……折れてますわ……!」
ルミナが悲痛な顔で、俺の右腕を見つめている。
つられて視線を落とす。俺の右腕の関節が、ありえない方向へひん曲がっていた。
ぐにゃり。
「ぎゃああああああああッ!!? 」
俺の暗黒の……いやマジで痛えッ!!
視認した瞬間、遅れてやってきた激痛が脳天を突き抜ける。
ルミナが涙目になりながら、俺の腕を両手でガシッと掴んだ。
「じっとしてくださいませ! 一度正しい位置へ戻してから治癒をかけた方が、より頑丈に繋がるというのが私の持論ですわ!」
「ま、待ってくれルミナ!お前、何言って――」
バキゴキィッ!!
「ぎゃああああああああああッッ!!??」
有無を言わさぬ腕力で骨が元の位置に戻され、俺の喉から本日二度目の悲鳴が迸る。
直後、強烈な治癒の光が傷口を塞いだ。だが、激痛はウソのように一瞬で引いた。
「はい、元通りですわ!」
「……ふっ。多少、俺の魂が砕け散った気もするが、些事だな」
俺は右腕を押さえながら、必死に息を整えた。
アッシュとエリスもそれぞれ立ち上がり、体勢を立て直している。
そこは、異様な空間だった。チェス盤の第八段。敵陣の最奥。
今まで続いていた白銀の床は赤黒く変色し、まるで毒に侵された傷跡のように亀裂が走っていた。
その中心に据えられた玉座へ向かって、無数の人間大の白い駒が静かにひれ伏している。
異様な光景に眉をひそめていると、隣でルミナが息を呑んだ。
「……あの駒たちから、かすかに生命の気配を感じますわ」
「お、おい。ただの石じゃないのか……?」
言われて目を凝らし――背筋が凍った。
滑らかな白い表面のあちこちに、制服の襟や袖口、生徒たちの虚ろな顔立ちが沈むように浮かび上がっていたのだ。
「まさか……神隠しに遭った生徒たちなのか……ッ!?」
エリスの震える声に、アッシュが忌々しげに頷く。
「アリスの孤独を完成させるためだろう。救おうとした者たちを、玉座へ跪く駒に変えたのだ」
壊されてはいない。だが、人間であることだけが奪われている。
アリスを救おうと手を伸ばした者たちの、無残な末路だ。
そして、その駒たちが永遠に見上げ続ける先。禍々しく歪んだ巨大な玉座には、黒い茨が幾重にも絡みついていた。その中央に据えられた巨大なクリスタルの中で、目を固く閉じたアリスが、胎児のように身を丸めて眠っていた。
「アリス……!」
俺が声を上げた瞬間。
空間そのものが重く軋み、理解不能の言語が直接脳を揺らした。
『――Достижение восьмого поля.』
『――Начало превращения в Королеву Одиночества.』
『――60 секунд.』
何を言っているのか全く分からん。
だが、最悪な結末へのカウントダウンだということだけは理解できた。
「アリス!! 待ってろ、今……!」
俺はクリスタルへ向かって、地を這うように踏み込もうとした。
だが、空間がぬかるみのように重く、アリスに向かおうとする力がそのまま逆向きへと反転させられる。
「……ここまで吹っ飛んできても、この理屈だけは気合じゃ抜けれないか……ッ!?」
「無駄だ、カイ。止まれ」
背後から、アッシュが静かに俺を制止した。
「あのクリスタルは無敵だ。物理や魔法による破壊も不可能。こちらの声も中には届かない」
「……まじかよ!? じゃあどうすれば……!」
「外殻を無視して、内側の精神を直接こじ開ける」
アッシュは片腕に抱えていた強欲の錬金釜を床にドンッと置いた。
「強欲よ、出番だ。あの少女の心に巣食う呪いごと、内側へこじ開けろ」
『ヒャハハァー!!』
次の瞬間、釜の奥から耳障りな笑い声が響いた。
『やぁぁっと呼び出しやがったなァ!……だが、こりゃ想定以上ってヤツだ』
「なんだと……?」
『邪神ちゃんのスク水ダンスのツケがあるから楽勝だと思ってたんだがなァ。ここまでブ厚い呪いの空間は聞いてねェ』
強欲の錬金釜の眼窩が怪しく光る。
『あのツケだけじゃ、この物理も魔法も言葉も通じねェ鳥籠に穴一つ開けられそうにねェんだわ』
アッシュが忌々しそうに舌打ちした。
『どうしても繋ぎてェなら、二つ足りねェな。一つは、この呪いの空間をぶち抜いて中まで届かせるアンテナ! そしてもう一つは――強引に押し通すための、特濃の心の闇だぜェ』
アンテナ。その言葉を聞いた瞬間、俺は迷わず名乗り出た。
「アンテナなら、俺の右腕を使え! 俺の封印されし黒竜なら、呪いくらいぶち抜けるはずだ!」
俺は右腕を錬金釜へ向かって突き出した。
『ギャハハハハ! てめェのその少しかぶれただけの痛ェ細腕をか!? まァ、ただの導線としてなら機能するかもなァ!』
錬金釜は腹を抱えたように嗤った後、眼窩を怪しく光らせて俺たちをねっとりと見回した。
『だがよォ、アンテナがあっても流す中身がなけりゃ意味がねェ! 邪神ちゃんのツケですら足りなかったんだぜェ? てめェらに、この鳥籠を内側からぶっ壊すほどの黒歴史はあるのかァ!?』
静寂が落ちた。アッシュは、一切の躊躇なく自らの胸元に手を当て、俺の方を真っ直ぐに見据えた。
「カイ。これからお前の右腕を通過するのは、強欲の釜が喰らう特濃の心の闇だ」
「? いや、なんだよ突然」
「聞け。他者の心の闇を喰らい、流す感覚をよく覚えておけ。それが、必ずお前を救う武器になる」
アッシュの言葉には有無を言わさぬ確信があった。俺が頷くのを見て、アッシュは血を吐くような、絞り出すような声で口を開いた。
「……私は、この悪夢を百回繰り返した」
『はァ~? 何言ってやがる……?』
錬金釜の嗤い声が止まった。
だが、アッシュの端正な顔は極限の自己嫌悪に歪むが彼は止まらなかった。
「私は神に選ばれた特別な人間だと思っていた。この悲劇を覆すために時の超越者として選定されたのだと、胸を躍らせていた。彼女の命すら、私のヒロイズムを満たすための舞台装置のように扱っていた時期すらあった……ッ!」
ギリッ、とアッシュが自らの胸の肉を爪で強く掻きむしる。制服が破れ、皮膚から血が滲んだ。
「ア、アッシュ……? お前は、いったい何を……っ!?」
突然の狂気じみた告白と気迫に、エリスは完全に言葉を失っている。ルミナも息を呑んで立ち尽くしていた。
だが、俺には解る。こいつの魂が流している血の涙は本物だ。俺はその覚悟を、ただ静かに見届けた。
「なんという浅ましさだ……。私はただの、英雄を気取った……痛々しい道化だったのだ!!」
直後、途方もない質量の恥のエネルギーが、アッシュの全身から物理的な瘴気となって噴き出す。
錬金釜が狂ったように沸騰し始めた。
『ギョエェェェェッ!? 重い重い重い重ォォォイ!! なんちゅう高純度の自己嫌悪と黒歴史だァ! アビスチューブ、強制接続ゥゥ!!』
「ぐあああああぁぁッ!?」
俺の右腕に強烈な痛みが走る。腕を導線として、膨大でドロドロとした心の闇が呪いの空間を貫通していく。腕が内側から破裂しそうなほどの激痛。
「カイ! 今すぐ治癒術を掛けますわッ!」
ルミナが血相を変えて杖を掲げようとする。だが。
「待て、ルミナ……ッ! 今は治すな!」
「えっ……!?」
俺は激痛に顔を歪めながら、ルミナを制止した。
「この痛みを、感覚を……残しておきたいんだ……ッ!」
「カイ! 今お前の右腕を駆け抜けている、その心の闇を喰らう感覚を、深く刻み込め!」
正直、何を覚えろと言われているのかも分からん。だが、こいつがそう言うなら間違いない。
俺は右腕が裂かれそうな激痛に耐えながら、その不快な感触を決して忘れまいと脳裏へ焼き付けた。
空間が震え、クリスタルの中のアリスが、ビクンと大きく身をよじった。
魔界の野次馬たちからの遠慮のない野次が、彼女の脳内を直接殴りつけたのだ。
『キタキタァ!! 邪神ちゃんの仲間ァ!!』
『孤独トカ言ッテル場合ジャネェゾ!! 魔界中ガ視聴中ダ!!』
『一人デ抱エ込ムナァ!! 共有シロ、共有ゥゥゥゥ!!』
「な、なにこれ!? 頭の中に直接……うるさっ、なに、これ……!?」
ずっと意識を閉ざしていたアリスが、頭を抱えて目を見開く。
涙目で震えながら視線を向けた先。そこには懺悔を叫び続けるアッシュや、そして右腕を釜に突っ込んでいる俺の姿があった。
しかも、全員が言葉を反転させないため、パイプを口に咥え続けている。
「なんで……みんなでそんな変なパイプしゃぶってるの……ッ!?」
アリスがたまらず、涙声でツッコミを入れた。
その絶妙に気が抜ける光景が、彼女の心を縛り付けていた張り詰めた糸を、ブチリと切断した。
「アリス!!」
俺の腹の底からの叫びが、今度はハッキリと彼女の鼓膜を震わせた。
アリスが弾かれたように、俺の方を見下ろす。
「溜め込んでるから苦しいんだ! お前の腹の中にある真っ黒なもん、全部吐き出せ!! 俺たちが全部受け止めてやる!!」
錬金釜の『心の闇を吸い上げる』力が、アリスの心の奥底に分厚い鍵をかけて隠されていた本音を、強引に引きずり出した。
「うるさい、うるさい、うるさいっ!!」
アリスが、これまで見せたことのない激しい表情で、涙ながらに叫んだ。それは、呪いを受けた悲劇の少女の言葉ではない。
ただの、傷つき、怒り、理不尽に耐え続けてきた、一人の少女の絶叫だった。
「なんで私のお母さんが死ななきゃいけなかったの!? なんで私ばっかり、こんな呪いのせいで……みんなから除け者にされて、逃げ回らなきゃいけなかったの!?」
赤いクリスタルの中で、アリスが魔導書を強く抱きしめ、声を枯らして叫ぶ。
「ずっと怖かった! 教室の隅で独りぼっちで……誰も助けてくれなかった! 羨ましかった……! 楽しそうに笑って、手を繋いでるみんなが、憎かった! なんで私だけ置いてけぼりにして、みんな平気な顔で生きてるのよ!!」
ズドンッ、と。俺の右腕を通過する痛みが跳ね上がる。
だが、釜に腕を突っ込み続けた。赤いクリスタルの中で、アリスが魔導書を強く抱きしめ、声を枯らして叫ぶ。
「カイさん……受け止めてくれるって言うなら……なんでもっと早く、私を見つけてくれなかったの!? 散々いじめられて、転校して、心がぼろぼろになる前に……なんで来てくれなかったの!!? 私をこんな目にあわせた世界なんて……全部、全部壊れちゃえッ!!」
理不尽な八つ当たりだ。だが、痛いほど分かる。誰かにすがりたくて、でも誰もいなくて、世界を恨むしか自分を保つ方法がなかったんだ。
彼女の叫びが、迷宮全体に反響する。
肩で息をするアリスは涙を流しながら、自嘲するように笑った。
「他人のせいにしてばっかり……っ。こんな自分勝手な自分が……浅ましくて、醜くて……大っ嫌いだぁぁぁッ!!」
アリスの絶叫。魂からの暴露。
隠されていた本音が全て吐き出された。だが、その瞬間。錬金釜の許容量を遥かに超える、膨大で濃密な漆黒の闇が爆発的に噴出した。
『ゲボォォォッ!? ゲェェェェッ!!』
いきなり、俺の右腕を咥え込んでいた錬金釜が、汚物を吐き出すように咽せた。
『ペッ……! 確かに心の闇には違いねェ! だが、こいつは俺様が好む恥辱じゃねェ! どろどろに煮詰まった純度100%の怨念と嫉妬じゃねェか!!』
『だが……強欲たる俺様が、一度口に入れたモンを吐き出すわけにはいかねェェ!! 意地でも全部喰い尽くしてやるァァッ!!』
強欲ゆえ、吐き出しかけた闇を意地だけで飲み込もうとする。だが。
ピキッ、メキメキィッ!!
『ヒギャベベベェェェッ!? 腹が、俺様の腹が破裂するゥゥ!?』
暴走した怨念の質量は、器を優に超えていた。
強欲の釜の表面に致命的な亀裂が走り、情けない断末魔と共に、その機能が完全に停止する。
釜の口がだらりと開き、俺は慌てて右腕を引き抜いた。
「おい錬金釜!? 嘘だろ、返事しろッ!」
腕を通して繋がっていた感覚が途切れ、俺は青ざめて釜を揺さぶる。だがピクリとも動かない。
直後、釜が喰らいきれずに行き場を失ったアリスの闇が、巨大な真っ黒な津波となって俺たちへと襲いかかる。
「させませんわッ!!」
その絶望の津波の前に、純白の法衣を血で汚したルミナが歩み出た。
彼女が巨大な光のメイスを白金の床に突き立て、呪いの津波を真っ向から受け止める光の防波堤を構築する。
「あがッ……あぁぁぁぁッ!!」
意地だけで支える光の壁。だが、暴走したアリスの呪詛はあまりにも重い。メイスを握るルミナの指先から爪が剥がれ、目から、鼻から血が流れ落ちる。
しかし指先が裂けようと、血を吐こうと、ルミナは一歩も退かなかった。
「はぁっ、はぁっ……! 押し留めましたわ……ッ!」
光の防波堤が凄まじい闇をどうにか相殺し、空間に一瞬の静寂が落ちる。ルミナが膝をつき満身創痍で息を荒らげた。
だがアリスの瞳には、さらに暗く、ドロドロとした執着の炎が宿っていた。
「カイさんは……私を受け止めてくれるって言ってくれた。だから、カイさんは私だけのもの。この絶対安全なクリスタルの中で、二人きりで永遠に……」
アリスの矛先が、満身創痍になって膝をつくルミナへと真っ直ぐに向く。
「なのに……なんであなたはまだ生きているの? カイさんのすぐ隣で、ずっと当たり前みたいな顔して……邪魔なのよッ!」
アリスがルミナを指差した次の瞬間。
「えっ……?」
ルミナが戸惑ったように。何かを感じ取ったのか、彼女の顔がサッと青ざめた。
「カ、カイッ……! 邪神様を、どうか……ッ!」
フッ。
「――え?」
伸ばしかけた俺の手が、虚空を空振る。
視界から、ルミナが消えた。まるで最初からそこに誰もいなかったかのように。
「ルミナ? おい、ルミナ!どこ行ったんだよ!?」
思わず声が大きくなる。だが、そこには誰もいなかった。
「……アリス。 ルミナに何しやがったんだ!?」
解っていた。それでも叫ばずにはいられなかった。
何人もの生徒を消し去った怪異。
神隠し。
それが今、ルミナを奪った。
「……次。あなたも、私とカイさんの世界には要らないわ」
次の標的はアッシュだった。
アリスが指を向けた瞬間、アッシュの姿が一瞬だけブレた。
「ぐうっ……!?」
苦悶の声を漏らしながら、アッシュが両足で床を踏み締める。
その身体は一瞬ごとに掻き消えかけては戻り、掻き消えかけては戻る。まるで何度も奴の存在を消そうとしているように。
「アッシュ……!?」
額に青筋を浮かべ、アッシュが必死に耐える。
だが、それも長くは続かなかった。徐々にその姿は薄れ始める。
法則そのものに抗っているような異様な粘りだったが、最後には押し負けた。
「カイ……頼んだぞ……ッ!」
次の瞬間。
フッ。
アッシュの姿が消えた。
「アッシュ!!」
返事はない。ルミナが消えた。アッシュも消えた。
ほんの数秒で、仲間が二人いなくなった。
「あと一人……! あなたもどっかへ消えちゃえッ!」
アリスが最後にエリスを指差す。俺の背筋を嫌な悪寒が走った。
まただ。また誰かが消える。そう確信した。
だが――
何も起きなかった。
「……え?」
アリスが目を見開く。エリスはその場に立っていた。
本人も何が起きたのか分からない様子で、自らの身体を見下ろしている。
「なんで……なんで効かないの!?」
アリスの声が震える。エリスはゆっくりと顔を上げた。
「……私にも分からん。だが、私はここに立つ」
思い通りにならない現実。そして、決して退こうとしないエリス。
アリスの表情がさらに歪んだ。
「今さら私に構わないで!!なんで私ばっかり、呪われて、嫌われて、独りぼっちにならなきゃいけなかったの!?」
涙を流しながら叫ぶ。
「もういいよ……。この理不尽な世界も……全部、全部……」
空中に浮かぶ彼女の背後へ、巨大な漆黒の魔法陣が展開される。
先ほどまでとは比べ物にならない。圧倒的な絶望の質量。
「みんな、消えちゃえッ!!」
トドメの一撃が放たれようとした、その時だった。
『GAAAAAAAAAAAHHH!!!?』
突如として白金の空間の底から、世界そのものを引き裂くような絶叫がビリビリと響き渡った。
「な、なんだよ!この悲鳴は!?」
ジャバウォックの断末魔。その規格外の恐怖の残滓に、俺たち全員が背筋を凍らせる。
「ひっ……!?」
アリスもまた、得体の知れない死の叫びに恐怖し、展開していた最大火力の呪詛をデタラメに解き放った。極大の闇の奔流、もう防ぐ手立てはない。
俺は決死の覚悟で、痛む右腕を前に突き出して抵抗しようとした。だが、闇が俺たちを飲み込む直前。
パキンッ、と。
目の前の空間がガラスのように鋭くひび割れ、そこから『異形』が現れた。
透き通るような青い肌。背に展開された漆黒と瑠璃の六枚の羽。そして、額で金色の光を放つ第三の眼。
その神々しくも恐ろしい存在は、虚空から黒い大鎌を引き抜く。
そのたった一振りで、迫り来るアリスの極大の呪詛を両断し、霧散させてしまった。
「え……」
必滅の呪詛が、そよ風のように俺たちの頬を撫でて消える。
だが、俺たちの窮地を救ったはずのその異形は、振り返りもせず、ただ自らの青白い掌を不思議そうに見つめていた。
『……奇妙だ』
紡がれたのは、這いずるような低く冷酷な声。
『なぜ私は、こんな木っ端どもを庇って鎌を振るったのだ? そのようなつもりなど、微塵もなかったというのに』
まるで、自分自身の行動に困惑しているようだった。
その異様な姿を前に、エリスが信じられないものを見るように目を見開く。
「……姿は違うが……アルテ、なのか……?」
「嘘だろ……あれが師匠なのか……!?」
俺も遅れて息を呑んだ。
振り返ることすら許されない、毛穴の奥まで凍りつくような絶対的な死の気配。
『気安く呼ぶな、羽虫が』
真の邪神が冷徹に言い放つ。その顔に微かな、しかし明確な不快感が混じり始めた。
『……なんだ、この胸焼けのする感覚は。下らぬ感情が空間そのものを汚染している』
俺には解った。アッシュが放った特濃の羞恥と自己嫌悪。
あれが俺の右腕を通り、この空間そのものへ染み込んでいるのかもしれない。
だが邪神が本当に反応したのは、それだけではなかった。
ピクリ、と。
邪神の右腕が痙攣する。まるで誰かが無理やり腕を掴んで引っ張っているかのように。
『……泥底から、私の腕を無理やり動かして仲間を守ったというのか。滑稽な執念だ』
神の左手が、痙攣する右腕を押さえつける。
『ならば見せてみろ。この俗悪な喜劇を、貴様がどう書き換えるか』
直後。彼女を覆っていた青い肌が陶器のようにひび割れ、六枚の羽が光の粒子となって砕け散った。空間を支配していた絶対的な圧が、嘘のように消え去る。
「……がはっ! げほっ、ごほっ!!」
神の抜け殻の中から現れたのは、神々しさなど欠片もない。
四つん這いになって激しく咳き込む、必死に足掻いて戻ってきた一人の幼女だった。
「し、師匠!!」
俺が叫ぶと、師匠は額の汗を乱暴に拭いながらゆっくりと立ち上がった。そしてアリスが抱きしめる黒い魔導書を睨みつけた。
「……おい、まだ足りねえのか。胸糞悪い物語は、もう終わりなんだよ……ッ!」
続きは1週間以内……もしくは2週間以内に……