春も深まってきた。近所の公園の桜も満開に咲いている。時間は有り余っているのだから花見の一つでもしてみたらいいのだろうか。桜色の巣が張ってあるかもしれない。
しかし、やはり面倒だ。ブルーシート、酒、食品、人、集めるものが多すぎる。人にいたっては面倒では済まない。栓のないことをぐるぐると考えていた自分の前にいつもの光景が広がった。
「カワセミ珈琲店」埃っぽい我が家を除いて、唯一心を落ち着ける場所だ。
夕暮れが近づき、隅の方から赤みがかかり始めた空を背に色あせた扉を引いた。
マスターの物静かな歓迎を受け、挨拶もそこそこに注文を終えて、いつもの席に着く。
冷コーヒーが運ばれてくるまでの間、読みかけの小説でも読もうかと鞄を探り始めた時、勢い良く扉が開き、彼女が来店した。
「やあ、ヨシノ君。お待たせ、待った?」
「はい。少しだけ」
「おいおい、そこは「大丈夫、今来たところ」だろ~」
入店早々ダルがらみを仕掛けた彼女は、向かいの席に腰を下ろした。
「今日は、テーマ決めだったね。考えてきてくれたかな?」
「いえ、特には」
「え~、今回は僕も思いついてないんだよな~、どうしよっかな~」
目の前で間延びした喋り方に引っ張られるように体をうねらせているこのひとが、テーマを事前に考えてきたためしがあっただろうか。
「まあ、それはともかく何か注文したらどうですか。アズサさん」
「ん、そうだね。何にしようかな、う~~ん、よし。マスター、アメリカーノを一つ」
話を聞いてか、メモ帳を片手に注文を取りに近づくマスターを制止するように呼び止めると、彼女は乱暴に注文を済ませた。
「そういえば、ここに来る途中に黒猫を見てね」
「黒猫ですか」
「前に君が書いてきた小説のことを思い出して、つい見入ってしまったぜ。ふわっとした黒色の毛の中にくりくりした黄色い目が光ってて可愛かったよ」
黒猫について語る彼女の舌はよく回る。やはり実際に生きている黒猫を見るのと文字で描写された黒猫を読むのとでは、抱く感情に差があるらしい。当たり前のことではあるが。
「お待たせしました」マスターがいつも通りの丁寧な所作でトレーを運んできた。冷コーヒーとアメリカーノが同時に来た。頼んだ時間に対して差はないのだから不思議ではないが、彼女と会うようになってから毎回いっしょに運ばれてくるように感じる。考えすぎだろうか。
「お~、ありがと~ございます」
間の抜けた喋り方を再開しながら彼女は、丸テーブルに置かれたアメリカーノに口を付ける。
「アメリカーノですか」
「お、気になるなら一口あげるぜ」
彼女は目を輝かせて、カップを此方へ突き出す。
「いえ、大丈夫です」
身を引くように、差し出されたカップから逃れた。
「なんだ~、可愛げがないな~。君もたまにはアイスコーヒー以外も飲んだらどうかな」
「これでいいんですよ」
これがいいのだ。
「そういえば、アメリカーノってどんな飲み物でしたっけ」
「ん?アメリカーノはね、エスプレッソにお湯を加えたものだよ」
「エスプレッソのお湯割りですか」
「ふふ、変な捉え方をするな~。まあでも、そういえばそうなるね」
「変ですかね、まあ確かに居酒屋見たいですか」
「ああ、ちょっと可笑しいよ」
そう言って彼女は少し笑った後、急に眼を見開いた。
「思いついた!」
「なにがですか、声大きいですよ」
「今回のテーマだよ。紫陽会の」
ああ、そんなのあったな。
「それで何になったんです」
「今回のテーマは、「言い換えられるもの」だ」
「言い換えられるもの?ずいぶんざっくりしたテーマですね」
いつものことだが。
「ああ、アメリカーノで思いついたんだ。いいだろ、こういう思い付きは大事にしないとな」
こちらは何も言っていないのに彼女は一人で盛り上がっている。こうなると人の話を聞かない人だ。
「じゃあ、「言い換えられるもの」をテーマに話を書いてきたらいいんですね」
口を挟むのを諦めて確認を取った。
「うん。それでいい僕も書いてくるよ。期日は来週の金曜で大丈夫かな?」
「はい、問題ないです」
「よし。それじゃあここからは世間話と行こうか」
「読みかけの本があるんですが」
「いいじゃないか、また今度読めば。今日のところは僕の話に付き合ってくれたまえ」
意見するのを諦めたことを思い出した自分は、飲み忘れていた冷コーヒーを啜りながら彼女の話に耳を傾けた。