彼女たちの静かなる蹄跡   作:シカジカ三丁目

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初投稿でーす。



芝の囁き、ダートの咆哮

 トレセン学園の朝は、湯気と喧騒から始まる。

 巨大なカフェテリアの天井付近には、炊き立ての白米の甘い香り、焼けた鮭の芳ばしさ、そして出汁の効いた味噌汁の匂いが層を成して漂っていた。数百人のウマ娘たちが発する「いただきます」の合唱と、食器が触れ合う軽快なカチャカチャという音は、これから始まる激しいトレーニングの一日を予感させる、活力に満ちたオーケストラだ。

 その喧騒の真ん中、窓際のテーブル席。

 朝から定食の「大盛り」オプションを二つ追加したサニーペースは、幸福そうな顔で箸を動かしていた。

「ん〜っ! 今日の卵焼き、出汁が染み染みで最高! ねぇベルちゃん、これ食べた? 絶品だよ!」

 サニーは口の端に米粒をつけたまま、対面に座る同室の友人に同意を求めた。

 しかし、返事はない。

「……ベルちゃん?」

 サニーが箸を止めて前を見る。

 同室のベルベットトーンは、手つかずのトーストとサラダを前に、眉間に深い皺を寄せていた。彼女の長く美しい黒髪の間から飛び出た耳は、まるで獲物を探知するレーダーのように小刻みに震え、両手には無骨な業務用のモニターヘッドホンが握りしめられている。そして、テーブルの上には、食事の場には不似合いな、波形編集ソフトが表示されたタブレット端末が置かれていた。

「……ここだ。この400ヘルツ帯の低音……。やはり、昨日の含水率だと反響がコンマ0.2秒遅れてる……」

 ブツブツと呪文のような言葉を呟きながら、ベルベットトーンはトーストに塗るはずのバターナイフを、指揮棒のように空中で振った。

 サニーは呆れたように溜息をつき、自分の味噌汁をすする。

「またやってる。朝からその『儀式』、よく飽きないねぇ」

 ベルベットトーン──通称ベルは、サニーの声にようやく反応し、片耳のヘッドホンをずらした。切れ長の瞳が、不満げにサニーを見る。

「儀式じゃないわ、サニー。これは『解析』よ。あと、食事中に話しかけるなら、その口元の米粒を取ってからにして」

「へ? あ、ほんとだ」

 サニーは舌先で器用に米粒を回収すると、ニシシと笑った。

「で、今日はどこの音? また『雨上がりの中山』とか?」

「……ふん。素人はすぐに中山の急坂を聴きたがるけど、今日の素材はもっと玄人好みよ」

 ベルは得意げにタブレットを指差した。画面にはギザギザとした波形が複雑に走っている。

「『早朝6時、札幌競馬場、芝コース、内柵から3メートル地点の結露した洋芝を踏みしめる音』……の、ハイレゾ録音よ」

「……うん、情報量が多い!」

 サニーはツッコミを入れつつ、焼き鮭の皮をパリリと剥がした。「それの何が楽しいのか、同室になって半年経ってもイマイチ分かんないんだよねぇ。ただの『ドスドス』って足音でしょ?」

 ベルの表情が一変した。

 先ほどまでのクールな仮面が剥がれ落ち、そこには狂信的な熱を帯びた瞳が現れる。彼女は身を乗り出し、サニーの顔の前に迫った。

「『ただの足音』? サニー、あなた、半年間私の何を見てきたの? あれをただの足音と言うのは、最高級の吟醸酒を『ただの水』と言うのと同じくらい冒涜的だわ」

「ち、近いって! ベルちゃん、鼻息荒い!」

「いい? よく聞きなさい。札幌の洋芝はね、本州の野芝とは根本的に構造が違うの。寒冷地仕様で葉が柔らかく、密度が高い。そこに朝露が含まれるとどうなると思う?」

「え、滑りやすくなる?」

「物理的にはそうよ。でも『音』は違うの!」

 ベルは熱弁を振るいながら、手元のバターナイフを握りしめた。

「水分を含んだ洋芝は、蹄鉄が接地した瞬間、『クチュッ』という湿った粘着音を立てる。でも、その直後に芝の根が反発して、『パァン!』という乾いた倍音が抜けていくの。この『湿り気』と『反発』の二重構造……まるで、冷たい初恋の相手に拒絶されたと思ったら、去り際に袖を引かれたような……そんな背徳的な響きがするのよ!」

「……例えが独特すぎて全然入ってこないんだけど」

 サニーは引き気味に身を引いた。「要するに、ベチャッて音が好きなの?」

「違う! 私が愛しているのは、その音が語る『地面の意志』よ」

 ベルはヘッドホンを外し、愛おしそうに撫でた。

「レース中、私たちは視覚と体性感覚に頼りすぎているわ。でも、聴覚は嘘をつかない。地面の硬さ、根の張り具合、砂の粒子の大きさ……全ては、私たちが踏みしめた時の『音』に情報として刻まれているの。私はその声を聴いて、コースと対話しているだけ」

 サニーは残りの卵焼きを口に放り込みながら、ふと考えた。

 ベルベットトーンは、変わり者だが実力はある。特に、初めて走るコースや、天候が崩れた時のレースでの適応能力は異常に高い。

(もしかして、この変態的な趣味が、あの上手さに繋がってる……のか?)

 サニーは少しだけ興味が湧き、味噌汁のお椀を置いた。

「ねぇベル。それ、私にもちょっと聴かせてよ」

「え?」

 ベルが瞬きをする。

「その、サッポロのなんとかってやつ。そんなに熱く語るなら、ちょっとくらい分かるかもしれないじゃん」

 ベルは一瞬、躊躇うような素振りを見せた。自分だけの聖域に土足で踏み込まれるのを嫌う猫のような警戒心だ。しかし、すぐに「……後悔しないでよ」と小さく呟き、ヘッドホンのプラグを抜いて、二股のイヤホンジャックに差し替えた。

 彼女は予備のイヤホンをサニーに手渡す。

「いい? 最初は何も聞こえないかもしれない。でも、耳を澄ませて。雑音(ノイズ)の中にある、一定のリズムを探して」

 サニーはイヤホンを耳に押し込んだ。

 ベルがタブレットの再生ボタンを押す。

『──────』

 最初は、ホワイトノイズのような風の音だけが聞こえた。

『ザァァァ……』という、早朝の空気の流れる音。

(なんだ、やっぱ風の音じゃん)

 サニーがそう思って口を開きかけた瞬間。

『……タッ、……ザクッ、……タッ……』

 遠くから、微かなリズムが聞こえてきた。

 誰かが走ってくる。

 一歩、また一歩。

 音は次第に大きくなり、解像度を増していく。

『タァン、……シュッ、……タァン!』

(……あれ?)

 サニーは無意識に箸を止めた。

 想像していた「ドスドス」という重い音ではない。

 もっと軽やかで、それでいて、何かが弾けるような音だ。

「聞こえる?」

 隣でベルが囁くような声で解説を入れる。彼女の声は、まるで美術館の音声ガイドのように滑らかだ。

「着地の瞬間、芝が潰れる音。そのコンマ数秒後、土が蹄鉄を押し返す音。……ほら、今。右足が少し深く沈んだわ。そこは多分、水はけが少し悪い箇所」

『グシュッ……パァン!』

 言われた通りだった。

 確かに、一瞬だけ音が濁り、すぐに鋭い音に変わった。

 サニーの脳内に、鮮明な映像が浮かび上がる。

 朝霧のかかる札幌競馬場。青々とした洋芝。そこを、誰かが──おそらくベル自身が──疾走している。

 足の裏に、芝の冷たさと、土の柔らかさが伝わってくるような錯覚。

(すごい……。足の裏の感触が、耳から入ってくる……!)

「これ……」

 サニーは思わず呟いた。

「なんか、分かるかも。この音、すごく……『走りやすい』音がする」

 ベルが嬉しそうに目を細めた。

「でしょう? この音の周波数帯は、筋肉の収縮リズムと同期しやすいの。だから、この音を聞いているだけで、脳が『ここは安心して踏み込める』って錯覚して、ストライドが自然と伸びるイメージが湧くわ」

「なるほどねぇ……。リズム感がいいっていうか、地面が『蹴ってくれ!』って言ってる感じ?」

「そう! その表現、悪くないわサニー!」

 ベルは興奮気味にサニーの肩を叩いた。「地面からの反発(リターン)が音として可視化されるのよ。じゃあ次はこれ、先週の阪神ダート、第四コーナー付近の砂厚調整ミスによる『沈み込み音』の聴き比べを……」

「あ、それはいいや」

 サニーは即座にイヤホンを外した。

「なによ。ここからが面白いところなのに」

 ベルは不満げに頬を膨らませる。

 サニーは苦笑いしながら、冷めかけたご飯を口に運んだ。

「いや、でもさ。ベルちゃんがいつもレース前に、目をつぶってコースの真ん中で突っ立ってる理由、やっと分かった気がするよ」

「……突っ立ってるんじゃないわ。チューニングしてるの」

「はいはい。でも、今の音を聞いて思ったんだけどさ」

 サニーは真面目な顔で、ベルを見つめた。

「私、スタート直後の『ゲートが開く金属音』と、みんなが一斉に飛び出す時の『轟音』が好きだな。あの一瞬だけ、世界中の空気が圧縮されるみたいな音。あれ、録音してないの?」

 ベルはきょとんとした後、ふっと口元を緩めた。

「……あるわよ。G1ファンファーレ直後の、十数万人の観客が息を飲む『静寂』とセットになった、極上のファイルがね」

「マジ!? ちょっとそれ聴かせてよ!」

「ふふ、私のコレクションは安くないわよ。……今日の昼休み、購買の焼きそばパンをおごってくれるなら、考えてもいいわ」

「うっ……。焼きそばパンかぁ……。激戦区じゃん……」

 サニーは唸ったが、先ほどの足音の感触が忘れられず、覚悟を決めたように机を叩いた。

「乗った! その代わり、私がスタートダッシュで一番いいやつ買ってくるから、最高の音源用意しときなよ!」

「交渉成立ね。……楽しみにしてるわ、あなたの『いい音』を」

 ベルは満足げにタブレットを閉じ、ようやく冷え切ったトーストに手を伸ばした。

 サニーもまた、残りの朝食を胃袋にかき込む。

 食堂の喧騒は変わらない。

 だが、二人の間に流れる空気は、先ほどまでとは少し違って見えた。

 サニー・ペースは、自分が歩く床のタイルの音に、そしてベルベット・トーンは、友人の力強い咀嚼音に、それぞれの「日常の音楽」を感じながら、新しい一日を始めようとしていた。

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