彼女たちの静かなる蹄跡   作:シカジカ三丁目

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レンズの向こうに映るのは

 午前五時三十分。

 東の空がようやく群青色から茜色へと滲み始める刻限。トレセン学園のトレーニングコースは、まだ夜の静寂を色濃く残していた。

 朝露に濡れた芝生が、立ち込める霧の中で鈍く光る。

 その冷たく張り詰めた空気の中を、三つの人影が歩いていた。

「……お、重いです、トレーナーさん。これ、本当にただのビデオカメラですか? 中に鉄アレイとか入ってません?」

 静寂を破ったのは、チーム・アークトゥルスに今年入ったばかりの新人ウマ娘、ウィンディホッパーの素っ頓狂な声だった。

 彼女の栗色の髪は寝癖で少し跳ねており、その頭上で落ち着きなく動く耳は、彼女の未熟さと溢れるエネルギーを象徴している。

 彼女の両手には、黒く武骨な業務用ビデオカメラが抱えられていた。

 三脚まで背負わされたその姿は、将来有望なスプリンターというよりは、戦場に向かう通信兵のようだ。

「文句を言うな、ウィンディ。それは最新鋭のハイスピードカメラだ。お前の脚一本より高いかもしれないぞ」

 隣を歩くトレーナーが、眠気覚ましのブラックコーヒーを啜りながら苦笑する。

 彼はこの道十年のベテランで、データ分析を重視する理論派だ。

「ひえぇ……! 落としたら引退までタダ働き決定じゃないですか!」

 ウィンディは青ざめて、赤子を抱くようにカメラを抱き直した。

 その二人の数歩前を、一人のウマ娘が歩いている。

 ノーブルエッジ。

 昨年の秋、GⅡレースを制し、GⅠ戦線でも掲示板を外さない実力派の先輩ウマ娘だ。

 長く艶やかな黒髪を一本に束ね、無駄な装飾の一切ない漆黒のジャージに身を包んでいる。彼女が歩くだけで、周囲の霧が切り裂かれていくような鋭いオーラがあった。

「ウィンディ。カメラの重さは、情報の重さだ」

 エッジは足を止めず、背中越しに凛とした声を投げかけた。

「そのレンズが捉えるのは、私の走りだけではない。筋肉の収縮、重心の移動、芝との接地時間……勝つために必要な情報を0.1秒単位で撮るんだ。重くて当然だろう。」

「うぐっ……。エッジ先輩にそう言われると、ぐうの音も出ません」

 ウィンディはシュンと耳を伏せたが、すぐにパッと顔を上げた。

「でも先輩! なんで今日は私がカメラ係なんですか? 私も走りたいです! この朝の空気、走ったら絶対気持ちいいのに!」

 ウィンディはその名の通り、風のように軽く、バネのある走りが持ち味だ。じっとしていることが何より苦手な性分である。

 トレーナーが答えた。

「今日はお前の『目』を鍛えるためだ。ウィンディ、お前は感覚で走るタイプだろ? 『なんとなく調子がいい』『なんとなく行けた』。それでは重賞クラスでは通用しない」

「む……」

「ノーブルエッジの走りは、教科書のように精緻だ。彼女のフォームをファインダー越しに追いかけ、そのメカニズムを脳に焼き付けろ。それが今日のメニューだ」

「……はぁい」

 ウィンディは不満げに頬を膨らませたが、尊敬する先輩の役に立てることは素直に嬉しかった。彼女は背負っていた三脚をコース脇の芝生に降ろした。

 

 場所は、ダートコースの直線が見渡せる監視塔の下。

 ウィンディはトレーナーの指導のもと、不慣れな手つきで三脚を設置し、カメラを据え付けた。

「いいか、ズームは使いすぎるな。全身がフレームに収まりつつ、足元の動きが見える画角をキープしろ。手ブレ補正は入っているが、お前の手が震えたら意味がないぞ」

「わかってますって! 私の手、スナイパーみたいに安定してますから!」

 そう言いながら、ウィンディの尻尾は緊張でブワッと膨らんでいる。

 コース上では、ノーブルエッジがアップを始めていた。

 軽いジョギングから、動的ストレッチへ。

 彼女が腿を高く上げるたびに、ジャージ越しにも分かる大腿四頭筋の美しい隆起が波打つ。

 ウィンディは液晶モニターを開き、録画ボタンに指を添えた。

 ファインダーを覗き込む。

 肉眼で見る景色とは違う、四角く切り取られた世界。

「……すごい」

 ウィンディは思わず息を飲んだ。

 肉眼で見ている時は、エッジの全体像──「速くてカッコいい先輩」という印象──しか入ってこない。

 だが、レンズを通すと、視覚情報が限定される分、細部が暴力的な解像度で目に飛び込んでくる。

 アップ中のエッジの、足首の柔軟性。

 地面を捉える瞬間、蹄鉄が砂を噛むグリップ感。

 そして何より、一切ブレない体幹の軸。

「頭の位置が、全然動かない……」

 ウィンディが呟く。

「そうだ」

 トレーナーが横からモニターを覗き込む。

「エッジの強みは、その『省エネ』にある。上下動によるエネルギーロスを極限までゼロに近づけている。だからラストの直線で、もう一段階ギアを上げる余力が残るんだ」

「私、結構ピョンピョン跳ねちゃいますもんね……」

「お前のバネは武器だが、長距離では仇になる。エッジの『地面を滑るような』走りを目に焼き付けろ」

 コース上のエッジが、こちらに向かって軽く手を挙げた。

 準備完了の合図だ。

「よし、ウィンディ、録画開始。……ノーブルエッジ、強めの併せ馬想定、六ハロン(約一二〇〇メートル)から!」

 トレーナーの指示が無線を通してエッジに飛ぶ。

 エッジが頷き、ゲート代わりの白線に爪先を合わせた。

 ウィンディはゴクリと喉を鳴らし、赤い録画ボタンを押した。

 画面上のタイムコードが動き出す。

 [REC 00:00:01]

「……行きます!」

 静寂が破られた。

 

 ノーブルエッジのスタートは、爆発というよりは「消失」に近かった。

 ドン! という踏み込み音と共に、彼女の体が弾丸のように射出される。

「は、速っ!?」

 ウィンディは慌ててカメラを振った。

 液晶モニターの中で、エッジの姿がブレる。

 油断していたわけではない。分かっていたはずなのに、初速の立ち上がりがウィンディの動体視力を超えていたのだ。

「追え! フレームから逃がすな!」

 トレーナーが怒鳴る。

「くっ、待って……!」

 ウィンディは三脚のハンドルを必死に操作する。

 流し撮りの要領で、エッジの速度に合わせてカメラを旋回させる。

 通常のビデオカメラマンなら追いつけない速度だが、そこはウマ娘の身体能力。ウィンディの反射神経が、ギリギリでエッジをフレームの中心に捉え直した。

 ズームレンズの向こうで、エッジが加速する。

 第一コーナーを回る。

 その姿は、美しいを通り越して、恐ろしかった。

 前傾姿勢から、徐々に上体が起きていく。

 だが、その移行があまりにも滑らかだ。

 腕の振りが、ピストンエンジンのように正確にリズムを刻む。

 そして何より、足音だ。

 タタタタタタタタッ──! 

 ダートコースなのに、音が軽い。

 深く踏み込んでいるはずなのに、砂煙が必要以上に舞い上がらない。それは、力が分散せずに、全て推進力に変換されている証拠だ。

「これ……本当に同じ生き物?」

 ウィンディは呻いた。

 ファインダー越しに見るエッジの表情は、能面のように静かだった。

 苦悶の色も、焦りもない。

 ただ淡々と、最適解のフォームを繰り返す精密機械。

 だが、その瞳だけは、遥か彼方のゴール板──あるいは、まだ見ぬGⅠの栄光──を射抜くように燃えている。

「ラスト三ハロン! ペース上げろ!」

 トレーナーの指示が飛ぶ。

 エッジの走りが変わった。

 ストライドが一気に広がる。

 今まで温存していた筋肉が、一斉に咆哮を上げるように収縮と弛緩を繰り返す。

 ウィンディのカメラワークが限界に近づく。

「う、わ、わわっ! 速すぎるってば!」

 画面の中のエッジが大きくなる。

 第四コーナーを回り、直線に入ってこちらに向かってくる。

 望遠(テレ)から広角(ワイド)へ、ズームリングを回しながら、フォーカスを合わせ続ける。

 指がつりそうだ。

 ド迫力の映像。

 飛び散る汗。

 風圧で形を変えるジャージの皺。

 食いしばる歯。

 ファインダー越しに、エッジと目が合った気がした。

 その瞬間、ウィンディの背筋に電流が走った。

(──殺される)

 動物としてのウマ娘の本能が、捕食者を前にしたように震え上がる。

 だが同時に、ウィンディの魂の奥底で、何かが熱く疼いた。

(綺麗……)

 速さは、力だ。

 力は、美しさだ。

 その単純な真理が、レンズというフィルターを通して、直接脳髄に流し込まれてくる。

 エッジが目の前を通過する。

 突風がウィンディの前髪を巻き上げ、三脚がガタガタと揺れた。

「ゴール!」

 トレーナーがストップウォッチを押す。

 ウィンディもまた、震える指で録画停止ボタンを押した。

 [REC 00:01:12]

 たった一分少々の出来事。

 だがウィンディには、一本の長編映画を見終えたような疲労感と、充足感があった。

 

「……タイム、七二秒フラット。上がり三ハロン三六秒二。……悪くない。休養明けにしては仕上がっている」

 トレーナーが満足げに頷き、コースから戻ってきたエッジにタオルを投げ渡した。

 エッジは汗だくになりながらも、呼吸は乱れていなかった。タオルで顔を拭い、静かにこちらへ歩いてくる。

「どうだった、ウィンディ。ちゃんと撮れていたか?」

 エッジが問う。走った直後だというのに、声に揺らぎがない。

「は、はい! 多分! ていうか先輩、凄すぎます! カメラ越しだと迫力が倍増というか、もう、怪獣映画みたいでした!」

「怪獣か。……まあ、褒め言葉として受け取っておこう」

 エッジは微かに口元を緩め、トレーナーの持つタブレット端末を覗き込んだ。ウィンディが撮影したデータが転送されている。

「再生するぞ。反省会だ」

 三人がタブレットを囲む。

 画面の中に、先ほどの走りが映し出された。

 ウィンディは固唾を飲んで見守った。

 手ブレは……ある。特に加速した瞬間や、コーナーワークの追従で画面が揺れている。

 だが、肝心のエッジのフォームは、しっかりとフレームに収まっていた。

「……うん。カメラワークは六〇点だが、肝心なところは抑えているな」

 トレーナーが評した。

「見てみろ、ここだ。ラスト二〇〇メートル地点」

 トレーナーが映像をスロー再生にする。

 画面の中のエッジが、右足で地面を蹴り出す瞬間。

「右の蹴り出しの際、骨盤が僅かに左へ逃げている。コンマ数ミリのズレだが、これがトップスピードでの直進性を阻害しているな」

 エッジが眉をひそめて画面を凝視する。

「……本当だ。自分では真っ直ぐ踏み込んでいるつもりだったが、左の臀筋の張りが影響しているのか」

「ああ。肉眼では見逃すレベルだが、ハイスピードカメラは誤魔化せない。次の一本は、左の内転筋も意識して修正してみろ」

「了解した」

 二人の高度な技術的会話を聞きながら、ウィンディは別のことに衝撃を受けていた。

(こんな細かいところまで見てるんだ……)

 自分なら、「速かった」「凄かった」で終わってしまう。

 だが、彼らはその「速さ」を分解し、解剖し、理屈で再構築している。

 感覚だけで走っていた自分の浅はかさを、ウィンディは痛感した。

「ウィンディ」

 エッジが不意に名を呼んだ。

「は、はい!」

「ここの映像、見てみろ」

 エッジが指差したのは、スタート直後の加速局面だった。

「私の腕の振りだ。肘の角度が鋭角に固定されているだろう? これがお前の走りとは違う点だ」

「え?」

「お前はストライドが大きい分、腕を振り回してバランスを取ろうとする癖がある。だが、それでは上半身の力が分散してしまう。この映像のように、肘を引く時は『肋骨を擦る』イメージで、コンパクトに振ってみろ。そうすれば、お前の爆発力はもっと前へ向くはずだ」

 ウィンディは目を見開いた。

 自分の走りに対するアドバイス。

 しかも、憧れの先輩が、自分の撮影した映像を使って教えてくれている。

「……肋骨を、擦るイメージ……」

 ウィンディはその場で腕を振ってみた。

 シュッ、シュッ。

 今までよりも窮屈だが、確かに体の軸がブレにくい気がする。

「ありがとうございます、エッジ先輩! やってみます!」

「うむ。いい映像だったぞ、ウィンディ。お前が必死に食らいついて撮ってくれたおかげで、私の課題も見つかった。……良い『目』を持っているな」

 エッジが、汗ばんだ手でウィンディの頭をポンと撫でた。

 その手は熱く、そして大きかった。

 ウィンディの顔が、茹でダコのように真っ赤になる。

「えへ、えへへ……。そ、そうですか? やだなぁ、もっと褒めてくださいよぅ~」

「調子に乗るな。次は私がお前を撮ってやる番だ。準備運動は済んでいるな?」

 エッジがニヤリと笑った。

「えっ!?」

 トレーナーが時計を見ながら告げた。

「よし、次はウィンディ、お前の番だ。ダートコース、四ハロン。ノーブルエッジが併走しながらフォームチェックをしてくれるそうだ。贅沢なメニューだぞ」

「うひょー! マジですか!?」

「ただし」

 エッジがタオルを置き、再びジャージのジッパーを上げた。

「私のチェックを受けるなら、半端な走りは許さない。最後まで付いてこいよ、ウィンディ」

 その瞳は、先ほどファインダー越しに見た、あの「捕食者」の目に戻っていた。

 ウィンディは一瞬怯んだが、すぐに自身の頬を両手でパンッ! と叩いた。

「望むところです! 私の『バネ』、見せつけてやりますよ!」

 

 一時間後。

 トレーニングを終えた三人は、カフェテリアのテラス席にいた。

 ウィンディの前には、山盛りのパンケーキとプロテイン入りスムージー。

 エッジの前には、バランスの取れた和定食。

 トレーナーは二杯目のコーヒーだ。

「はぁ~、生き返るぅ~」

 ウィンディはパンケーキを頬張りながら、幸せそうに尻尾を揺らしている。

 その顔には泥ハネを拭いた跡があり、激しいトレーニングの痕跡を残していたが、表情は晴れやかだった。

「結構走れたじゃないか、ウィンディ。ラスト一ハロンでバテたが、瞬発力はチームでも随一だ」

 エッジが焼き魚をほぐしながら評する。

「へへ、エッジ先輩に引っ張ってもらったおかげです。なんかこう、横に並ばれると『負けたくない!』って本能がビシビシ反応しちゃって」

「それが大事だ。ライバルがいれば、記録は伸びる。……まあ、お前が私のライバルになるには、あと一万年は早いがな」

「一万年は言い過ぎですよ~! せめて三年くらいにしてください!」

 二人のやり取りを見ながら、トレーナーは目を細めた。

 ファインダー越しに先輩を見つめた後輩。

 そして、その後輩の視線を受け止め、背中で語った先輩。

 技術の継承は、言葉だけではない。こうして同じ時間を共有し、同じ景色を見ることで、魂の深い部分で受け渡されていくものだ。

「さて、午後からはミーティングだ。ウィンディが撮った映像を、他のスタッフとも共有して解析を進める」

 トレーナーが言うと、ウィンディが姿勢を正した。

「あの、トレーナーさん。明日も……カメラ係、やってもいいですか?」

「ん? 走りたいんじゃないのか?」

「走りたいです! でも……」

 ウィンディは、隣のエッジをチラリと見た。

「もっと見たいんです。エッジ先輩の走りも、自分の走りも。レンズを通して見ると、今まで見えなかった『速さの秘密』が見える気がして。……それが分かれば、私、もっと速くなれると思うんです」

 その瞳には、今までのような能天気な光ではなく、探究者としての小さな火が灯っていた。

 エッジが箸を止め、優しく微笑んだ。

「……頼もしい後輩を持ったな、トレーナー」

「ああ。カメラマンとしての才能が開花して、選手を辞められても困るがな」

「辞めませんよ! 両方やります! 走れるカメラマン、最強じゃないですか!」

 ウィンディが高らかに宣言し、三人の笑い声が朝のテラスに響いた。

 空は完全に明け、青空が広がっている。

 その澄み渡る青の向こうに、彼女たちが目指すGⅠの栄光が待っている。

 今はまだ遠いその場所へ、ピントを合わせ続ける限り、彼女たちの足が止まることはない。

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