彼女たちの静かなる蹄跡   作:シカジカ三丁目

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5km/h制限の散歩道

 右足首の靭帯に、微細な炎症が見つかったのは三日前のことだった。

「全治二週間。その間、ランニングは一切禁止。移動は徒歩のみ。速度制限は時速五キロメートル以下」

 トレーナーの宣告は、死刑判決のように無機質で、しかし医師の診断書という絶対的な裏付けを持っていた。

 ウマ娘にとって、二週間という時間は永遠に近い。

 秋のGⅠ戦線が佳境を迎え、ターフの上が最も熱を帯びるこの時期に、グレイヘイズの世界だけが急停止した。

 彼女はベッドの上で、自身の右足を眺めた。

 テーピングで固定された足首は、そこだけ時間が止まったように静かだった。痛みはもうほとんどない。それが余計に、彼女の焦燥感を煽った。

 血管の中を巡る血液は、ガソリンのように発火点を探して循環しているのに、エンジンである脚部が点火を拒否している。

 窓の外では、秋風がイチョウの葉を揺らしていた。

 他のウマ娘たちがトレーニングコースを駆け抜ける音が、遠い雷鳴のように響いてくる。

 タタタタッという蹄鉄の打撃音。

 かつては自分の一部だったその環境音が、今はガラス一枚隔てた向こう側の、別世界の出来事のように感じられた。

(走りたい)

 本能が脊髄を駆け上がる。

 だが、ここで無理をすれば、選手生命に関わる故障に繋がることを知っている。

 彼女は深く息を吐き、読みかけの文庫本に視線を落とした。活字を目で追うが、内容は頭に入ってこない。文字の列が、まるでスタートゲートに並ぶ枠番のように見えた。

 コンコン。

 控えめな、しかしリズミカルなノックの音がした。

 返事をする前に、ドアが数センチだけ開く。隙間から覗いたのは、燃えるような緋色の髪と、悪戯っぽい琥珀色の瞳だった。

「ヘイズ。生きてる?」

 同室の友人であり、最大のライバルでもあるスカーレットビートだった。

 彼女はジャージ姿ではなく、珍しく私服のニットとロングスカートを身に纏っていた。

「……光合成をする植物程度には生きているわ」

 ヘイズは本を閉じて答えた。

「ならよかった。ちょっと外の空気、吸いに行かない?」

 ビートは部屋に入り込むと、窓際に掛かっていたヘイズのカーディガンを手に取った。

「今日は風が気持ちいいよ。それに、今のあんたに必要なのは『安静』じゃなくて『換気』だと思うけど」

「速度制限中よ。亀の方がマシなレベルの」

「知ってる。だから、付き合うよ。」

 ビートは悪戯っぽく笑い、カーディガンをヘイズに放り投げた。

 その笑顔には、拒否権など最初から存在しないという、強引だが心地よい響きが含まれていた。

 

 寮の玄関を出ると、冷ややかな秋の空気が頬を刺した。

 アスファルトの匂い。遠くで焼かれる落ち葉の香ばしさ。

 普段なら一瞬で後方に置き去りにしてしまうそれらの気配が、今日はやけに濃密に感じられた。

 二人は並んで歩き出した。

 学園の正門から続く、なだらかな並木道。

 いつもなら、朝のトレーニングでアップ代わりに駆け抜ける場所だ。

 時速一五キロ程度の軽いジョギングでさえ、風景は流れる帯のように知覚される。

 だが、今の速度は時速四・八キロ。人間の歩く速さだ。

「……変な感じ」

 ヘイズが呟いた。

「ん?」

 隣を歩くビートが、ポケットに手を突っ込んだまま小首をかしげる。

「地面が、近すぎるのよ。それに、硬い」

 ウマ娘の動体視力は、速度が上がるほどに焦点が遠くへ、一点へと絞られていくようにできている。

 高速走行中、足元の路面状況は「視覚」ではなく「足裏の触覚」で処理される。

 しかし、歩行という行為においては、視界が広角レンズのように広がり、足元のアスファルトの粒子の粗さまでが鮮明に見えてしまう。

 一歩踏み出すたびに、踵から爪先へと重心が移動する。

 その緩慢なプロセスが、ヘイズにはひどくもどかしかった。

 右足首を庇うように歩くため、どうしても左側に重心が乗る。その不均衡さが、彼女の完璧主義的な神経を逆撫でする。

「焦ってるねえ、ヘイズ」

 ビートが見透かしたように言った。

「……私の歩行リズム、そんなに悪い?」

「ううん。重心移動は綺麗だよ。ただ、背中から『走らせろ』ってオーラが出てる。排気音が聞こえてきそう」

「幻聴よ」

 ヘイズはため息をついた。

 隣を歩くビートは、現役トップクラスのスプリンターだ。彼女のバネのある脚は、本来なら歩くことなど退屈で仕方がないはずだ。

 それなのに、彼女はヘイズの不自由なペースに、呼吸をするように自然に合わせていた。

 歩幅を狭め、腕の振りを抑え、完全に同期している。

 それはそれで、凄まじい身体制御能力の証明だった。

「見て、あそこ」

 ビートが指差した。

 道の脇、古びたレンガ造りの塀の隙間に、小さな紫色の花が群生していた。

 何度も通ったはずの道だ。

 だが、ヘイズの記憶の中に、その花が存在したことは一度もなかった。

「……スミレ?」

「多分ね。コンクリートの割れ目から咲いてる。私たち、いつもあそこを通過する時って、もう時速三〇キロくらい出てるでしょ? 見えるわけないんだよね」

 ビートはしゃがみ込み、花を指先でつついた。

 ヘイズも釣られて足を止める。

 視線の高さが変わると、世界がまた違って見えた。

 風に揺れる花弁の頼りなさと、コンクリートを割って根を張る強かさ。

 走っている時には「風景の一部」でしかなかったものが、止まってみると「生命」として迫ってくる。

「知らなかったわ」

 ヘイズは素直に認めた。

「この道に、こんな色があったなんて」

「でしょ? いつもの風景って、速度によって変わるんだよ」

 ビートが立ち上がり、再び歩き出す。

 その背中は、レースの時のような張り詰めた緊張感はなく、どこまでも柔らかだった。

 

 商店街に入ると、情報の洪水が押し寄せてきた。

 八百屋の軒先に並ぶ柿の艶やかな橙色。

 自転車のブレーキ音。

 下校途中の学生たちの笑い声。

 ウマ娘の聴覚は鋭敏だ。

 レース中は、風切り音と心臓の鼓動、そしてライバルの足音だけを抽出するために、脳が自動的にノイズキャンセリングを行っている。

 だが、散歩モードの今は、フィルターが解除され、全ての音が等価に入ってくる。

 それは少しうるさく、しかし不思議と不快ではなかった。世界が生きている音がする。

「ここ、ここ」

 ビートが足を止めたのは、路地裏にある小さなパン屋の前だった。

 目立たない店構えだが、換気ダクトからは暴力的なまでに芳醇なバターと小麦の香りが噴き出している。

「ここの匂い、いつもトレーニングの帰りに気になってたんだよね。でも、走り終わった直後だと息が上がってて、うまく嗅げないじゃない?」

「……だから、歩いて嗅ぎに来たと?」

「正解。深呼吸してみて」

 ヘイズは言われるままに、肺いっぱいに空気を吸い込んだ。

 焼きたてのクロワッサンの甘い脂の匂い。酵母の酸味を含んだ温かい香り。

 それは、空腹中枢を直接殴りつけてくるような、強烈な誘惑だった。

「……いい匂い」

 こわばっていた肩の力が、ふっと抜けた気がした。

「でしょ? 走ってるとさ、こういう『幸せ』を置き去りにしちゃうんだよね。たまには立ち止まって、回収してあげないと」

 ビートは店に入り、焼きたてのメロンパンを二つ買ってきた。

 二人は近くの公園のベンチに腰掛けた。

「はい、これでお昼ご飯」

 渡されたメロンパンは、まだ温かかった。

 一口かじると、サクッという軽快な音と共に、中のふんわりとした生地が口の中で溶ける。

 砂糖の甘さが、運動不足で停滞していた脳に染み渡っていく。

「美味しい……」

「んー! 最高!」

 ビートは足をぶらぶらさせながら、豪快に頬張っている。

 公園には、鳩を追いかける幼い子供と、それを見守る母親の姿があった。

 子供の足取りは危なっかしく、遅い。

 ウマ娘の基準からすれば、それは静止しているに等しい速度だ。

 だが、子供にとっては、それが全力の疾走なのだろう。

「ねえ、ヘイズ」

 ビートがパン屑を払いながら言った。

「私たちってさ、速く走るために生まれてきたじゃない?」

「ええ。そうね」

「だから、止まることとか、ゆっくり進むことに、罪悪感を感じちゃうんだよね。本能が『サボるな』って急かしてくる」

 ヘイズは自分の右足首をそっと撫でた。

 その通りだった。

 怪我をしてからの三日間、彼女を苛んでいたのは、痛みではなく罪悪感だった。

 ライバルたちが進化している間に、自分だけが後退しているという焦り。

「でもさ」

 ビートは空を見上げた。秋晴れの空には、うろこ雲がゆっくりと流れている。

「あの雲、止まってるように見えるけど、実際はすごいスピードで動いてるんだよね。遠くにあるから、ゆっくりに見えるだけで」

「……何が言いたいの?」

「あんたの怪我も、そういうもんじゃないかなって。今は止まってるように見えるけど、これは長いレースの中での『溜め』の時間なんじゃない? 五キロ制限でしか見えない景色とか、筋肉の使い方とか、そういうのを拾い集めるためのピットイン」

 ビートの言葉は、抽象的で、論理的ではなかった。

 普段のヘイズなら、「根性論ね」と鼻で笑っていたかもしれない。

 だが、甘いパンの香りと、穏やかな日差しの下では、その言葉が妙にすとんと胸に落ちた。

「……換気ダクトの匂いを回収するように?」

「そうそう。情報を食べて、エネルギーにするの」

 ビートはニカッと笑った。

 ヘイズは、自分の足元を見た。

 アスファルトの隙間から、アリの行列が歩いている。

 彼らもまた、彼らの速度で、懸命に生きている。

 速さだけが、正義ではない。

 速さを生み出すためには、土台となる「生活」が必要なのだ。

「貴方にしては、随分と哲学的なこと言うのね」

「伊達にスプリンターやってないよ。一瞬に命賭けるためには、それ以外の時間をどう過ごすかが大事なんだから」

 ビートは立ち上がり、大きく伸びをした。

「さ、行こうか。日が暮れる前に帰らないと、寮長に怒られる」

 ヘイズも立ち上がった。

 右足首に体重を乗せる。

 痛みはない。

 だが、先ほどまでの「走れない苛立ち」は消えていた。

 今は、この一歩一歩の感触を、地面の硬さを、筋肉の連動を、丁寧に味わいたいと思った。

 

 帰路は、川沿いの土手を選んだ。

 夕日が水面を染め、ススキの穂が黄金色に輝いている。

 風が強くなってきた。

 ビューッと風が吹き抜ける。

 その瞬間、ヘイズの前髪が激しく煽られた。

 条件反射だった。

 風に反応して、身体が前のめりになる。

(追いかけろ)

 本能が叫ぶ。風と競え。あの落ち葉よりも速く。

 グッと、右足の親指に力がこもる。

 ふくらはぎの筋肉が収縮し、バネのように弾けようとする。

「おっと」

 横から伸びてきた手が、ヘイズの肩を掴んだ。

 ビートだった。

 彼女は走ろうとしたわけではない。ただ、ヘイズの重心が「走行モード」に切り替わったのを察知して、制止したのだ。

「……スピード違反だよ、ヘイズ」

 ヘイズはハッとして、息を吐き出した。

 心臓が早鐘を打っている。

 わずか数センチ重心が移動しただけで、脳内物質が溢れ出していた。

「……ごめん。風が、呼んだ気がして」

「わかるよ。私も今、ちょっと背中がゾクッとした」

 ビートは苦笑いしながら、ヘイズの肩から手を離さなかった。

「でも今は、時速五キロ。それを楽しむんでしょ?」

「……ええ。そうだったわね」

 ヘイズは姿勢を戻した。

 風は、追いかけるものではなく、感じるものだ。

 今は、そういう時期なのだ。

 二人は再び歩き出した。

 夕闇が迫り、街灯がポツポツと灯り始める。

 影が長く伸びて、二つの影法師が土手の上で重なったり離れたりしていた。

「ねえ、ビート」

「ん?」

「ありがとう」

 短い言葉だった。

 だが、その中には、一人では耐えきれなかったであろう三日間の孤独と、連れ出してくれたことへの感謝と、そして何より、自分の速度に合わせてくれたことへの敬意が込められていた。

 ビートは何も言わず、ただヘイズの背中をバンと叩いた。

「治ったら、倍にして返してもらうからね。併せ馬、一〇本」

「……鬼ね」

「愛だよ、愛」

 寮の明かりが見えてきた。

 いつもの日常が、そこにある。

 だが、ヘイズにとっては、昨日までとは少し違う場所に見えた。

 ただ寝て、走るための場所ではない。

 生活を営み、力を蓄え、そしてまた走り出すための、大切な帰る場所。

「ただいま」

 門をくぐる時、ヘイズは小さく呟いた。

 その声は、いつもより少しだけ柔らかく、そして力強かった。

 制限速度、時速五キロメートル。

 それは決して「遅い」だけの時間ではなかった。

 彼女の魂は、静かに、しかし確かに、次の爆発に向けて熱を帯び始めていた。

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