彼女たちの静かなる蹄跡   作:シカジカ三丁目

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パチパチで、もふもふな冬の尻尾について

二月、東京の空は憎らしいほどに青く、そして乾ききっていた。

 吸い込んだだけで喉の奥が張りつくような大気は、ここ数日、気象庁が発表する黄色い乾燥注意報そのままの色を帯びて、街全体に居座っている。

 トレセン学園の広大な敷地を吹き抜ける空っ風は容赦がない。生徒たちの肌を刺し、手入れの行き届いたターフの芝すらも茶色く枯らせ、そして何より、彼女たちの誇り高き「尻尾」にとって最悪の天敵となっていた。

 

 ウマ娘にとっての尻尾は、単なる装飾器官ではない。

 疾走する際のバランサーであり、言葉よりも雄弁に感情を語る第二の表情であり、そして極めてデリケートな感覚器でもある。

 特に冬のこの時期、湿度計の針が三〇パーセントを下回る日が続くと、学園内のあちこちで小さな悲鳴と、バチッという不穏な放電音が聞こえるようになるのだ。

 

 トレーナー室の窓枠が、乾燥によって収縮し、時折ピシ、と乾いた悲鳴を上げる。

 私は加湿器のタンクに今日三度目となる水を補給し、湿度計の数値が「適湿」を示す緑色のゾーンにあと一歩届かないのを恨めしく眺めてから、愛用のマグカップを手に取った。

 熱いコーヒーから立ち昇る湯気が、白い筋となって天井へ吸い込まれ、瞬く間に霧散していく。

 その時、静寂を破るように、入り口の扉が控えめな音を立てて開いた。ノックはない。だが、無遠慮に押し入るような乱暴さは微塵もなく、むしろ躊躇いを含んだその気配だけで、訪問者が誰であるかを察することができた。

 

「……失礼するわ」

 

 入ってきたのは、担当ウマ娘であるアドマイヤベガ──アヤベだった。

 彼女は部屋に足を踏み入れるなり、すぐに扉を背にして立ち止まった。いつものように定位置のソファへ向かおうともせず、部屋の中央で縫い留められたように立ち尽くしている。その様子はどこかピリピリとした警戒心を帯びており、まるで目に見えない不可視の敵と対峙しているかのようだった。

 

「お疲れ、アヤベ。今日は早かったね」

「……ええ。自主練、少し早めに切り上げてきたから」

 

 返ってくる声は普段通り冷静で、耳に心地よい低めのアルトだ。しかし、私を見つめるその表情には、隠しきれない微かな憂色が滲んでいる。

 私はデスク越しに彼女をつぶさに観察した。

 漆黒の勝負服や制服ではなく、今日はラフなジャージ姿だ。その背後で、彼女の最大の特徴である豊かすぎるほどのボリュームを持った尻尾が、不自然なほどに硬直しているのが見て取れた。

 普段のアヤベの尻尾は、夜空に浮かぶ雲のように柔らかく、そして優雅に揺らいでいる。彼女の歩調に合わせてしなり、時には感情に合わせて小さく震えるその様は、アドマイヤベガというウマ娘を構成する美しさの、極めて重要な要素だ。

 

 だが今はどうだ。

 一本一本の毛が互いに反発し合うように四方八方へ広がり、全体的にボワッとした、一回り大きなシルエットへと変貌してしまっている。まるで驚いた猫のようだと言えば可愛げがあるが、美意識の高い本人にとっては深刻な事態なのだろう。

 

「……座らないのか?」

「座りたくないの」

「珍しいな。いつもなら真っ先にクッションを抱え込むのに」

「今日は無理」

 

 アヤベは短く言い捨てると、不機嫌そうに眉間に皺を寄せたまま、自身の尻尾を振り返った。

 彼女が動いた、その瞬間だった。

 ジャージの化学繊維と尻尾の毛先が擦れたあたりで、青白い火花が「パチッ」と鋭い音を立てて弾けた。

 

「っ……」

 

 アヤベが小さく肩を跳ねさせ、顔をしかめる。

 なるほど、理解した。

 今日の敵は、切磋琢磨するライバルたちでもタイムでもなく、無慈悲な物理現象──静電気だ。

 

「……酷い乾燥だもんな、今日は特に」

「最悪よ。歩くたびにパチパチ鳴って、集中できない。カレンが朝から加湿器をフル稼働させてるけど、寮の部屋全体が帯電してるみたいで……」

 

 彼女は深く重い溜息をつき、今度は極力摩擦を起こさないように、慎重に、まるで月面を歩く宇宙飛行士のような足取りでソファへと近づいた。しかし、化学繊維のクッションに触れようとした瞬間、再び見えない稲妻が彼女を襲う。

 バチッ、という痛みすら感じる音が響く。

 

「……もう、嫌」

 

 天下のアドマイヤベガが、涙目になって立ち尽くしている。

 その姿は、レース場で見せる鬼気迫る走りからは想像もつかないほど無防備で、不謹慎ながらいじらしさと愛おしさを感じてしまった。もちろん、そんなことを口にすれば、次の併せ馬で地獄を見ることになるので黙っておくが。

 

「静電気防止スプレー、カレンチャンに借りなかったのか?」

「借りたわよ。朝一番に、顔面に吹きかけられそうになったから奪い取って使ったわ。でも、効果が切れたみたい」

 

 彼女の同室者であるカレンチャンは、SNSのフォロワー数三百万人を誇る「カワイイ」の伝道師だ。身だしなみに関してはプロフェッショナルであり、彼女の部屋には業務用の美容機器が揃っているという噂すらある。あのアヤベがカレンチャンの助言を受け入れているあたり、事態の深刻さが窺えた。

 

「ちょっと待っててくれ。確か、予備があったはずだ」

 

 私は椅子から立ち上がり、救急箱やケア用品が詰まった棚を漁った。

 ウマ娘のトレーナーにとって、担当ウマ娘のコンディション管理は最優先事項だ。それは筋肉の張りや蹄の状態だけでなく、毛並みの管理も含まれる。特に精神的なストレスに直結するこの手のトラブルは、早急に取り除く必要があった。

 棚の奥から、ウマ娘専用のグルーミングオイルと、静電気除去機能付きのブラシを取り出す。

 ついでに、先ほど淹れたばかりのコーヒーではなく、カフェインレスの温かいハーブティーを用意し直した。帯電体質になっている時は、利尿作用のあるコーヒーで水分を失うよりも、身体を中から潤す方がいい。

 

「アヤベ、こっちへ。処置をしよう」

「……処置って。大袈裟ね」

「放っておくと切れ毛の原因になる。それに、君がそんなにイライラしていたら、次のトレーニングに支障が出る」

 

 アヤベは不服そうに唇を尖らせたが、拒絶はしなかった。

 観念したように、私のデスクの近くにある丸椅子に腰を下ろす。その際も、尻尾が椅子の背もたれに触れないよう、器用に横へと流していた。

 私は彼女の背後に回り、まずは自分の手のひらを壁に押し当てて放電する。これから触れる相手に、追い打ちのショックを与えるわけにはいかない。

 そして、ふわりと広がってしまった彼女の尻尾へ、ゆっくりと手を伸ばした。

 近くで見ると、その惨状がよく分かる。

 普段は極上の絹糸のように滑らかな毛並みが、乾燥によって逆立ち、互いに絡まり合おうとしている。空気中の塵や埃も吸着してしまっており、本来の美しい光沢が失われていた。

 

「少し冷たいけど、我慢してくれ」

 

 専用のオイルを数滴、手のひらに垂らす。体温で温めながら両手を擦り合わせると、シダーウッドとベルガモットの、微かで落ち着いた香りが漂った。アヤベが好む香りを選んでおいたのは正解だったようだ。強張っていた彼女の肩から、ほんの少しだけ力が抜けるのが分かった。

 オイルを十分に馴染ませた指先で、まずは尻尾の毛先の方から優しく梳いていく。

 いきなりブラシを通すのは御法度だ。まずは手櫛で、大きな絡まりを解きほぐし、油分を行き渡らせることで静電気の発生を抑える。

 

「……ん」

 

 アヤベの喉から、小さな吐息が漏れた。

 心地よいのか、あるいはくすぐったいのか。どちらにせよ、先ほどまで彼女を覆っていた刺々しい空気は薄れている。

 私の指が彼女の尻尾の中ほどに差し掛かると、彼女の体温が伝わってきた。外気で冷やされた表面とは裏腹に、芯の部分は驚くほど温かい。たしかな生命力の塊だ。

 

「今日、食堂でオペラオーに会ったの」

 

 手櫛の動きに合わせて、アヤベがぽつりと話し始めた。

 沈黙を埋めるためというよりは、意識を静電気の不快感から逸らすための独り言のようだった。

 

「テイエムオペラオーか。あいつなら、静電気すら演出に変えそうだな」

「ええ、まさにその通りよ。あいつ、『ハーハッハッハ! 見たまえアヤベ君! 私の溢れ出る覇気が、大気中の電子すら魅了してスパークしているのだよ!』なんて言いながら、バチバチ火花を散らしてマントを翻していたわ」

 

 私は思わず吹き出しそうになった。容易に想像がつく。

 あの世紀末覇王は、物理法則すらも自身の舞台装置にしてしまうらしい。

 

「ドトウが泣きながら静電気除去スプレーを撒き散らしていたわ。……少しだけ、羨ましかったけど」

「オペラオーのメンタルがか?」

「いいえ。……何も気にせず、ああやって笑い飛ばせる強さが、よ」

 

 アヤベの声が少し沈む。

 彼女はいつだって、背負いすぎている。過去を、妹を、そして自分自身の強さを。

 繊細すぎる感受性は、レースにおいては研ぎ澄まされた刃となるが、日常においてはこうして彼女自身を傷つける棘にもなる。静電気ごときで、と思うかもしれないが、彼女にとっては「制御できない自分」への苛立ちと同義なのかもしれない。

 私はオイルを追加し、いよいよブラシを手に取った。

 豚毛と特殊な導電性繊維を組み合わせた、プロ仕様の高級ブラシだ。

 根元からではなく、中間から毛先へ。

 一定のリズムで、優しく、しかし確実に。

 ザッ、ザッ、というブラシの音が、静かなトレーナー室に響く。

 その単調なリズムは、次第にメトロノームのように部屋の時間を整えていく。

 

 ブラッシングは、信頼の証だ。

 背中を預け、最も無防備な部位の一つである尻尾を委ねる。

 野生動物であればあり得ないその行為を、彼女は許してくれている。

 一撫でするごとに、逆立っていた毛が大人しくなり、本来のしっとりとした重みを取り戻していく。絡まりが解け、一本一本が独立しながらも、全体として美しい束になっていく感触が手に伝わる。

 

「……ナリタトップロードも、大変そうだった」

「トップロードが?」

「ええ。あの子、走るとすぐに汗をかくでしょう? その汗が乾いた後の塩分と乾燥で、髪がバリバリになってた。『わぁーん、トレーナーさーん! 髪の毛が爆発してますぅ!』って」

 

 ふふ、とアヤベが小さく笑った。

 ライバルたちのドタバタ劇を思い出すことで、彼女の中の緊張も完全に解れてきたようだ。

 アヤベの尻尾は、ブラシを通すたびに艶を増していく。窓から差し込む夕日が、琥珀色の光沢となって反射し、部屋の空気を柔らかく染めていた。

 

「綺麗な色だ」

「……お世辞はいいわ」

「お世辞じゃない。冬の空気は澄んでいるから、夏よりも毛並みが綺麗に見えるんだ。手入れさえすればな」

 

 私は最後の仕上げとして、手のひらで全体を包み込むように撫で下ろした。

 もう、パチパチという音はしない。

 指先に吸い付くような、極上の手触りだけが残った。

 

「よし、完了だ。触ってみてくれ」

 

 アヤベはおずおずと自分の尻尾に手を伸ばした。

 恐る恐る触れ、電撃が走らないことを確認すると、彼女の指が深く毛並みの中に沈んでいく。

 

「……ん。悪くないわ」

「だろう?」

「……軽くなった気がする。重りは取れたみたい」

 

 彼女は立ち上がり、軽くその場でステップを踏んだ。

 豊満な尻尾が、ふわりと舞い上がり、そして音もなく元の位置に収まる。その動きは流体的で、先ほどまでの硬さは微塵もない。

 

「ありがとう。……トレーナー」

 

 アヤベは背を向けたまま、小さく呟いた。

 その耳が、照れくさそうに少しだけ後ろに倒れている。

 

「礼には及ばないさ。君のメンテナンスは私の仕事だ」

「……仕事、ね。まあいいわ。そういうことにしておいてあげる」

 

 彼女は振り返り、ハーブティーのカップを手に取った。

 湯気を吸い込み、一口飲む。

 その表情は、入室した時とは別人のように穏やかだった。

 

「ねえ、トレーナー」

「ん?」

「……寮に帰る前に、もう少しだけここにいていいかしら」

「もちろん構わないが。何かあるのか?」

「別に。……ただ、カレンが帰ってくるまで、部屋がまだ乾燥してると思うから。ここは湿度が管理されてて、その……快適だから」

 

 それは不器用な言い訳だ。

 カレンチャンほどの完璧主義者が、部屋の湿度管理を怠るはずがない。

 彼女はただ、この静かで、誰にも邪魔されず、静電気にも怯えなくていい時間を、もう少しだけ味わっていたいのだろう。あるいは、丁寧にブラッシングされた余韻に浸っていたいのかもしれない。

 私は何も言わず、ただ頷いて自分のデスクに戻った。

 パソコンのキーボードを叩く音と、アヤベがカップを置く小さな音だけが、部屋に満ちる。

 

 窓の外では、夕闇が濃くなり始めていた。

 冷たく乾いた風が窓ガラスを叩いているが、この部屋の中だけは、柔らかく湿った空気が守っている。

 アヤベの尻尾が、ソファの上でゆったりと弧を描いているのが視界の端に見えた。

 それはまるで、安息の地を見つけた猫のように、穏やかに眠っているように見える。

 明日の天気予報も、また乾燥注意報だ。

 けれど、このフワフワの尻尾を守る術を、私たちは知っている。

 冬の厳しさも、静電気の不快さも、二人でなら、静かなお茶の時間に変えていけるだろう。

 私はキーボードを打つ手を少しだけ休め、琥珀色に輝く彼女の背中を、もう一度だけそっと見守った。

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