彼女たちの静かなる蹄跡   作:シカジカ三丁目

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独自設定ありなので注意です。


パチパチ予報のち、極上のしっとり

 栗東寮の二〇四号室は、今夜もカレンが構築した完璧な湿度管理システムによって守られていた。

 部屋の隅に鎮座するハイエンドモデルの加湿器が、シュウシュウと音もなく白煙を吐き出し続けている。デジタル表示された湿度は「五五%」。肌にも喉にも、そしてウマ娘の命である髪や尻尾にも最適な数値だ。

 廊下を一歩出れば、そこはサハラ砂漠も裸足で逃げ出すほどの乾燥地帯が広がっているけれど、この聖域だけは違う。

 カレンはスマホの画面をスクロールしながら、チラリと壁時計に視線をやった。

 もうすぐ、門限の時間だ。

 そして、この部屋のもう一人の住人──アドマイヤベガさんが帰ってくる頃合いでもある。

 

 普段の彼女なら、ドアノブに手をかけた時点でその不機嫌さが伝わってくる。

 乾燥した空気と摩擦に苛立ち、全身の毛を逆立て、まるで歩く避雷針のようなピリピリとしたオーラを纏って帰還するのが、ここ数日の常だった。朝、カレンが善意で提案した静電気防止策も、「顔にかかるのは嫌」という理由で無愛想に却下されたばかりだ。

 けれど、今夜は違った。

 

 カチャリ、と鍵が開く音がする。

 続いてドアが開く音。

 そこに、いつものような『拒絶の気配』は微塵もなかった。

 

「……ただいま」

「あら、おかえりなさい、アヤベさん」

 

 カレンはスマホを置いて、ベッドの上からとびきりの笑顔で出迎えた。

 入ってきたアヤベさんは、どこか憑き物が落ちたような顔をしていた。

 何より、カレンの視線は一点に釘付けになる。

 彼女の背後で揺れる、あの漆黒の尻尾だ。

 

 今朝送り出した時は、静電気で爆発して松ぼっくりのようになっていたそれが、今はどうだ。

 驚くほどしっとりとまとまり、重力に従って優美な弧を描いている。

 一本一本の毛が互いに喧嘩することなく、まるで一つの大きな黒い宝石のように、部屋の照明を吸い込んで艶やかに輝いていた。

 歩くたびに、ふわり、ふわりと揺れるその様は、重たすぎず、軽すぎず。完璧なエアリー感を保っている。

 

(……なるほどね。そう来なくっちゃ)

 

 カレンは心の中で小さく口笛を吹いた。

 その変化の理由は、火を見るよりも明らかだ。

 アヤベさんがコートを脱いでハンガーにかける際、部屋の空気がわずかに動く。ふわりと漂ってきたのは、いつもの柔軟剤の香りではない。

 深く、落ち着きのあるシダーウッドと、爽やかなベルガモットの香り。

 それは、高級なグルーミングオイル特有の、洗練された残り香だった。

 

「随分と遅かったのね、アヤベさん。自主練にしては長くない?」

「……別に。トレーナー室で、少し打ち合わせをしていただけよ」

 

 アヤベさんはカレンの方を見ずに、淡々と答える。

 けれど、その耳は正直だ。わずかにパタパタと揺れ、雄弁に「あまり深く聞かないで」と語っている。

 嘘は言っていないのだろう。ただ、その「打ち合わせ」の内容が、レース戦略の話ではなく、もっと親密で物理的なケアの時間だったことは明白だ。

 

「ふーん、打ち合わせ、ねえ」

 

 カレンはベッドから降りると、とんとん、と軽い足音を立ててアヤベさんに近づいた。

 彼女は一瞬身構えたが、バチッという放電音は鳴らない。

 カレンは遠慮なく、その美しく整えられた尻尾に手を伸ばした。

 

「ちょっと触らせて」

「っ、なによ急に」

「いいからいいから」

 

 拒否される前に、カレンの指先が黒い毛並みに触れる。

 ──すごい。

 カレンの指が、抵抗なく吸い込まれていく。

 表面は滑らかなシルクの手触りなのに、奥に行けば行くほど、ふかふかとした弾力がある。

 ただブラシを通しただけではない。丁寧に、時間をかけて、手櫛とブラシを使い分けながら、愛情という名の油分をたっぷりと染み込ませた感触だ。

 プロのスタイリスト顔負けの美意識を持つカレンですら、他人の手入れでここまで完璧に仕上げられた尻尾を見るのは稀だった。

 

「んー、完璧! 天使の輪ができてるよ」

「……大袈裟よ。ただ、静電気を取ってもらっただけ」

「それだけで、こんなにトロトロにはならないよぉ。トレーナーさん、随分と丁寧にやってくれたんだね」

 

 カレンが意地悪く微笑むと、アヤベさんはバッと尻尾を抱き寄せて、カレンの手から逃れた。

 その頬が、ほんのりと朱に染まっているのが見て取れる。

 乾燥による赤みではない。内側から滲み出る、血行の良さと気恥ずかしさの色だ。

 

「……うるさいわね。もう寝るわよ」

「あれ? お風呂は?」

「入らない。……せっかく馴染んだオイルが落ちちゃうから」

 

 ボソリと呟かれたその言葉は、あまりにも可愛らしくて、カレンは危うく「カワイイ!」と叫び出すのを必死で堪えなければならなかった。

 あのアヤベさんが、自分の身だしなみやお風呂よりも、トレーナーに施された処置の方を優先しようとしているのだ。

 それはつまり、この「もふもふ」の状態が、彼女にとって何よりも心地よく、手放したくない安心感を与えているという証拠だった。

「そっか。じゃあ、明日の朝のブラッシングも楽そうだね」

「……そうね。明日は、静電気も起きないと思うわ」

 アヤベさんは逃げるように自分のベッドへ潜り込み、布団を頭まで被ってしまった。

 けれど、布団の裾からこぼれ出た尻尾の先だけが、隠しきれない本音のようにゆらゆらと揺れている。

 

 カレンは自室の照明をナイトモードに切り替えた。

 薄暗くなった部屋に、加湿器の稼働音だけが優しく響く。

 湿度は相変わらず適正値を保っているけれど、今のこの部屋には、それ以上に温かくて柔らかい成分が満ちているような気がした。

 カレン・ミーツ・カワイイ。

 今日のカワイイ収穫は、不器用なルームメイトの、完璧に手入れされた尻尾と、それを守りたがる乙女心。

 

(まあ、今日のアヤベさんの機嫌がいいのは、私にとってもプラスだしね)

 

 カレンはクスクスと笑いながら、自分の尻尾を抱き寄せてベッドに入った。

 明日の朝は、いつもより少しだけ優しい「おはよう」が聞けるかもしれない。

 そんな予感と共に、カレンは満ち足りた静寂の中に身を沈めた。

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