彼女たちの静かなる蹄跡   作:シカジカ三丁目

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凪いだ海の沈黙

 夏の終わりの海は、祭りの後の静寂を無理やり引き延ばしたような、不思議な倦怠感に満ちていた。

 波打ち際まで降りると、潮の香りがねっとりと肌にまとわりつく。

 八月の終わり、猛威を振るった太陽はその牙を少しだけ隠し、海面を鈍い銀色に染める。風はぴたりと止んでいた。海面は鏡のように滑らかで、まるで時間が煮詰められて固まってしまったかのような、重苦しいまでの凪だった。

 

 そんな光景の真ん中に、彼女はいた。

 

 防波堤の先端。

 ゴールドシップが、コンクリートの縁に両足を投げ出して座っている。

 いつもなら耳を劈くような大声で笑い、意味不明な奇行を繰り返す彼女が、今は信じられないほど静かに、ただ一点を見つめていた。

 手元には使い古された釣り竿。緩んだ糸の先にあるウキは、波一つない水面に浮かび、ピクリとも動かない。

 

「……遅かったな」

 

 私が背後に立っても、彼女は振り返らなかった。

 声のトーンは驚くほど低く、穏やかだ。トレセン学園の喧騒の中で聞くそれとは、別人の声のように聞こえる。

 

「横、失礼するよ」

「好きにしろよ。ここはお前の部屋じゃねぇし、あたしの海でもねぇ」

 

 私は彼女から少し離れた場所に腰を下ろした。

 コンクリートは西日の熱を吸い込んで、ズボンの上からでもじんわりと温かい。

 視界を占めるのは、どこまでも平坦な灰色。水平線は霧に溶け、空と海の境界線が曖昧になっている。

 

 ザザ……。

 忘れた頃にやってくる、弱々しい波の音。

 それが砂利を噛む小さな摩擦音だけが、この世界の唯一の生存証明だった。

 時折、遠くで海鳥が鳴く声が聞こえるが、それすらも厚い空気の層に吸い込まれて、すぐに消えてしまう。

 

 ゴールドシップは、ただじっと海を見ている。

 普段の彼女が「動」の塊だとしたら、今の彼女は「虚」そのものだ。

 風に靡くはずの芦毛の髪も、無風のなかで肩に重く垂れ下がり、その端正な横顔を影で縁取っている。

 

 彼女が何を考えているのか、あるいは何も考えていないのか、私にはわからない。

 けれど、この圧倒的な沈黙の中に、彼女は完璧に馴染んでいた。

 奇想天外な言動で周囲を攪乱する「ゴールドシップ」という仮面を脱ぎ捨てて、ただの一個の生命として、凪いだ世界の一部になっている。

 

 ふと、彼女の釣り糸が、目に見えない水流に引かれてわずかに揺れた。

 ウキの周りに、小さな同心円状の波紋が広がる。

 

「……トレーナー」

「なんだ?」

「海ってのはさ、たまに黙り込むんだよ」

 

 彼女は視線を海に固定したまま、独り言のように続けた。

 

「騒がしい奴も、速い奴も、全部飲み込んで、ただ黙ってる。……こういう時はさ、変に動かねぇのが一番なんだ」

 

 彼女は釣り竿を軽く握り直した。

 指先が触れるリールのカチリという音さえ、この静寂の中では鋭い破裂音のように響く。

 

「あたしが黙ってんのがそんなに珍しいか?」

「正直に言えば、少しな」

「……ふん。あたしだって、たまには充電が必要なんだよ。」

 

 彼女は小さく鼻で笑うと、ようやくこちらを向いた。

 夕闇の予感を含んだ瞳が、一瞬だけ私を捉える。

 そこには、いつも人を食ったような悪戯心ではなく、底の見えない深い知性が静かに沈んでいた。

 

 太陽が水平線の彼方に落ちようとしている。

 空が濃い紫色に染まり始め、凪いだ海はいよいよ暗い闇の色を帯びてきた。

 

「さて、そろそろ帰るか。一匹も釣れなかったしな」

「……餌、つけてなかったのか?」

「馬鹿言え。最初から糸しか垂らしてねぇよ」

 

 彼女はひょいと立ち上がると、伸びきった身体を大きく反らせた。

 その瞬間、止まっていた空気が動いた。

 どこからか吹き始めた夜風が、彼女の髪をさらりと揺らし、潮の匂いをかき混ぜる。

 

「おい、置いていくぞ! 走れ走れ!」

 

 いつもの、嵐のような声。

 彼女は釣り竿を担いで、防波堤をタタタッと軽快な足取りで駆けていく。

 背後で揺れる尻尾は、先ほどまでの静寂が嘘だったかのように、力強く空を打っていた。

 

 私は立ち上がり、彼女の背中を追った。

 凪は終わり、世界は再び動き出す。

 けれど、先ほどまでの静かな沈黙の余韻は、耳の奥に微かな耳鳴りのように、いつまでも残っていた。

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