トレセン学園の地下、窓のないトレーナー室。
乱雑に積み上げられた資料の山、空き缶の塔、モニターの明かりだけが頼りの薄暗い空間。その混沌とした海の中で、唯一、絶対的な質量を持って鎮座している物体がある。
それは、一つの蹄鉄だった。
だが、教科書に載っているような、美しいU字型のそれではない。
右側が極端に厚く、左側が薄い。爪先の部分は鋭角に尖り、全体が歪にねじれている。表面は黒ずみ、無数のハンマーで叩かれた痕跡が、火傷の痕のように残っている。
それはかつて、あるウマ娘が自らの足に合わせて叩き上げ、泥と芝を噛み締め、引退のその日まで使い続けた「鉄屑」だ。
今は、私のデスクの上で、膨大な「移籍申請書」や「担当ウマ娘関連の分析資料」が風で散らばらないための、ただのペーパーウェイトとしてそこに在る。
「……あの、トレーナーさん」
恐るおそるといった声が、部屋の静寂を揺らした。
私は視線を、歪んだ蹄鉄から入り口の方へと移した。
そこに立っていたのは、幽霊のように線の細いウマ娘だった。
透き通るような白銀の髪。色素の薄い肌。その容姿は「儚げ」という言葉を擬人化したようだが、瞳だけは神経質に細められ、怯えと諦めが入り混じった濁った光を宿している。
彼女の名前は、シリカ。
正式な登録名は『グラスワーク・シリカ』。
デビューからわずか半年。未勝利戦を三度走り、そのすべてで惨敗。そして三人のトレーナーを「方針の不一致」という名目で転々とし、最終処分場のような私のチームへと流れ着いた、硝子のような少女だ。
「……なんだ、シリカ」
「その、蹄鉄……。ずっと気になっていたんですけど」
彼女は部屋に入ろうともせず、入り口のドアノブを掴んだまま、私の手元を指差した。
「ずいぶんと、ひどい形ですね。……失敗作、ですか?」
失敗作。
その言葉に、私は苦笑した。
確かに、何も知らない者が見ればそう思うだろう。美しくない。規格外だ。蹄鉄工の試験に出せば、一発で不合格になる代物だ。
「いや。これは『完成品』だよ」
私は蹄鉄を手に取った。
ずっしりとした重み。冷たい鉄の感触。
だが、その歪みの一つ一つに、指の腹が吸い付くように馴染む。
「あるウマ娘が、自分の歪んだ走りに合わせるために、自分で叩いて作ったものだ。……彼女にとっては、これが正解だった」
「……自分で?」
シリカは眉をひそめた。
「信じられません。そんな、非効率的な」
「ああ、非効率だ。お前たちの世代の走りとは対極にある」
「……だから、その人は消えたんでしょうね」
シリカの言葉には、刺すような棘があった。
彼女は私のデスクの前のパイプ椅子に、音もなく座った。
彼女がここへ来た理由は、トレーニングの相談ではない。
彼女の手には、一枚の書類が握りしめられていた。
『引退届』。
まだインクも乾ききっていない、彼女自身の筆跡だ。
「私、もう辞めます」
シリカは淡々と言った。
「どこのチームに行っても、言われることは同じです。『軸がブレている』『着地の衝撃を逃がせていない』『このままだと壊れる』……。矯正用ギプスも、フォーム改造も、全部試しました。でも、直そうとすればするほど、タイムは落ちる。足は痛む。……私は、欠陥品なんです」
彼女は、自分の細い足を憎々しげに見下ろした。
シリカの走りを見たことはある。
確かに、危うい。
左足の蹴りが強く、右足の着地が浅い。まるで薄氷の上を爪先立ちで走るような、極端な前傾姿勢。
教科書通りの指導者なら、顔をしかめて矯正を命じるだろう。
「それでは怪我をする」「長く走れない」と。
だが。
「……なあ、シリカ」
「なんですか。引き止めないでくださいよ」
「お前のその走り方……『痛い』か?」
シリカは虚を突かれたような顔をした。
「え……?」
「矯正されたフォームじゃない。お前が一番走りやすいと感じる、あの無茶苦茶なフォームで走っている時だ。足は、痛いか?」
彼女は視線を彷徨わせ、しばらく沈黙した後、小さな声で答えた。
「……いいえ。痛くは、ありません」
「ただ、周りから『危ない』と言われるから、怖いのか?」
「……はい。それに、実際、コーナーで膨らみますし、スタミナも消耗します。……綺麗なフォームの子たちには、勝てません」
私はデスクの上の蹄鉄を、ゴトリと音を立てて置いた。
重たい音が、部屋の空気を震わせる。
「綺麗である必要が、どこにある?」
私は言った。
「この蹄鉄の持ち主も、そうだった。足は歪んでいた。走れば軸はブレた。教科書通りに走ろうとすれば、激痛が走った。……だから彼女は、教科書の方を捨てたんだ」
かつての光景が脳裏をよぎる。
深夜の地下室。飛び散る火花。
『あたしの足は、もう真っ直ぐじゃないんだ』と笑いながら、ハンマーを振るっていた彼女の背中。
彼女は自分の歪みを「欠陥」ではなく「仕様」として受け入れた。そして、その歪みを活かすための道具を、自らの手で作り出した。
「シリカ。お前の走りは、硝子細工みたいに脆い。だが、鋭い」
私は立ち上がり、彼女の引退届を蹄鉄の下に滑り込ませた。
鉄塊の重みが、紙を机に押さえつける。
「一度だけ、試してみないか。お前のその『欠陥』を、武器に変える走り方を」
「……そんなこと、できるわけありません」
「できるさ。ここに良い見本がある」
シリカは歪んだ蹄鉄と、私の顔を交互に見た。
その瞳の奥の濁った光が、わずかに揺らいだ気がした。
翌日から、奇妙なトレーニングが始まった。
場所は、誰もいない早朝のダートコース。
シリカの細い体には、不釣り合いなほどの重りを背負わせた。
「姿勢を低くしろ! もっとだ! 倒れ込むギリギリまで前傾しろ!」
「そ、そんなことしたら、転びますっ!」
「転んでもいい! お前の爪先は、地面を刺すためにあるんだ! 撫でてどうする!」
私の指示は、これまでのトレーナーたちとは真逆だった。
バランスを取るな。左右対称を目指すな。
左足の強い蹴りを殺さず、その推進力を右足の「浅い着地」で鋭く流せ。
それは、走るというよりは、連続して「つんのめる」ような、見ていて不安になる動作の繰り返しだった。
当然、シリカは何度も砂の上に転がった。
白銀の髪は泥で汚れ、ジャージは擦り切れた。
彼女は涙目で私を睨みつけた。
「トレーナーさんの言ってること、めちゃくちゃです! こんなの、セオリー無視もいいところじゃないですか!」
「セオリー? そんなもんで勝てるなら、お前はとっくにG1ウマ娘だ」
私はタオルを放り投げた。
「いいか、シリカ。お前の足は、柔らかい芝の上を優雅に走るようには出来ていない。……お前のその鋭角な爪先は、硬い盤面や、重たい泥を『切り裂く』ためにあるんだ」
私はポケットから、あの蹄鉄を取り出した。
朝日に照らされ、黒ずんだ鉄が鈍く光る。
「こいつの持ち主はな、不格好なフォームで七年間走り続けた。……誰よりも泥臭く、誰よりも美しくな」
シリカは泥だらけの顔で、その蹄鉄を見つめた。
彼女の中で、何かが軋んでいる音がした。
それは、自分を縛り付けていた「常識」という名の硝子の檻に、ヒビが入る音だったのかもしれない。
一ヶ月が過ぎた。
シリカの走りは、劇的に変わったわけではない。
相変わらず軸はブレているし、危なっかしい。
だが、その速度は、見る者を戦慄させる「切れ味」を帯び始めていた。
そして迎えた、未勝利戦。
あいにくの天気だった。朝から降り続いた雨が、ターフを重たい湿地帯へと変えている。
「不良(おも)バ場」。
綺麗なフォームで走るエリートたちが、最も嫌うコンディションだ。
足を取られ、スタミナを削られ、バランスを崩す。
パドックに現れたシリカは、以前のように怯えてはいなかった。
かといって、自信満々というわけでもない。
ただ、静かに、覚悟を決めたような顔で、雨空を見上げていた。
「……トレーナーさん」
「なんだ」
「あの蹄鉄の人。……最後は、どうなったんですか?」
「勝てなかったよ」
私は正直に答えた。
嘘をつく必要はないと思ったからだ。
「最後のレース、掲示板にも載れなかった。……だが、彼女は誰よりも激しい火花を散らして、走り抜けた。それだけは事実だ」
シリカはふっと笑った。
それは、初めて見る、彼女の素の笑顔だったかもしれない。
「そうですか。……じゃあ、私はその先へ行かないとですね」
彼女はゲートへと向かった。
その背中は細く、頼りない。風が吹けば折れてしまいそうだ。
だが、その足取りには、迷いがなかった。
ファンファーレが鳴り響く。
ゲートが開く。
一斉に飛び出すウマ娘たち。
水飛沫が上がり、泥が舞う。
シリカは、最後方からのスタートだった。
出遅れたわけではない。彼女の「歪んだ」走法は、スタートダッシュには向かないのだ。
だが、それでいい。
レース中盤、泥に足を取られてペースを落とす先行集団。
綺麗なフォームの子たちが、ぬかるんだ地面に苦戦し、バランスを崩していく。
その中を。
一筋の閃光が、切り裂いていった。
シリカだ。
彼女の走りは、泥の上でも変わらなかった。
いや、むしろ水を得た魚のように、その鋭さを増していた。
極端な前傾姿勢。左右非対称のストライド。
左足で泥を爆発させ、右足の爪先が、カミソリのように地面を捉える。
「直そう」としなかった歪みが、この悪条件の中で、最適なグリップを生み出していた。
彼女は、泥を避けない。
真っ直ぐに、最短距離を、歪んだまま突っ走る。
その姿は、まるで嵐の中で砕け散る硝子の破片のように、危険で、美しかった。
「行け……ッ!」
私は傘も差さずに、柵を握りしめて叫んだ。
脳裏に、あの地下室の音が蘇る。
カーン、カーンという、鉄を打つ音。
あれは、ただ鉄を叩いていたんじゃない。
「正解」を押し付けてくる世界そのものを、叩き潰していた音だったんだ。
シリカが第四コーナーを回る。
先頭を行く一番人気のエリートが、泥に滑って一瞬たじろいだ。
その隙を、彼女は見逃さなかった。
内ラチ沿いの、最も泥が深い場所。
誰もが避けるその場所を、シリカは疾走した。
そこには、道などなかった。
彼女が走った後に、道ができていく。
歪んだ足跡。不揃いなリズム。
けれど、それは誰よりも速い。
ゴール板まで、あと五十メートル。
シリカの白銀の髪は、泥水で灰色に染まっていた。
その色は、かつて私が知っていた、あの「灰色の鉄屑」の色に似ていた。
彼女は吠えなかった。
表情を変えず、ただひたすらに、地面を切り刻むように足を回転させる。
並ぶ。
かわす。
突き放す。
一着で、ゴールイン。
歓声は、遅れてやってきた。
誰も予想していなかった、最低人気の大逆転劇。
シリカはゴールを駆け抜けた後もしばらく止まれず、泥の中に無様に転がり込んだ。
泥だらけになりながら、彼女は空を見上げていた。
雨は、上がり始めていた。
レース後、トレーナー室にて。
シリカは、泥を落として着替えてきたものの、髪の毛先にはまだ少し土の色が残っていた。
彼女は、私のデスクの前に立っていた。
その視線は、再びあの蹄鉄に注がれている。
「……勝ちました」
彼女は静かに言った。
「不格好で、泥だらけで、全然スマートじゃない勝ち方でしたけど」
「ああ。ひどいフォームだったよ」
私はコーヒーを啜りながら言った。
安い缶コーヒーだが、今日だけは最高級の豆のような香りがした。
「でも、誰よりも速かった」
シリカは少しだけはにかみ、そして、デスクの上の引退届に手を伸ばした。
蹄鉄の下から、紙を引き抜く。
シュッ、という小さな音がした。
「これ、返してもらいますね」
「ああ。ここではもう、ゴミ以下の紙切れだ」
シリカは引退届をくしゃりと丸め、ゴミ箱へと放り投げた。
美しい放物線を描いて、それは空き缶の山の中に消えた。
「トレーナーさん」
「ん?」
「私、決めました。……私、もっと歪みます」
彼女の瞳には、もう濁りはなかった。
あるのは、硬質で、透明な、強い光。
「誰に何を言われても、この足を直したりしません。この歪んだ足で、どこまで行けるか……私だけの形を、叩き上げてみます」
彼女は、デスクの上の蹄鉄に、そっと触れた。
冷たい鉄。
かつて、一人の少女が魂を込めて打ち続けた、歪みの結晶。
シリカの指先が、その鉄の凸凹を確かめるように撫でる。
「……先輩」
彼女は蹄鉄に向かって、小さく呟いた。
「道を示してくれて、ありがとうございました」
彼女は私に向かって深く一礼すると、軽やかな足取りで部屋を出て行った。
パタン、と扉が閉まる。
部屋には再び、静寂と、書類の山と、そして鉄の匂いが残された。
私は、蹄鉄を手に取った。
ずっしりとした重み。
それは、私の罪の重さであり、同時に、私の誇りの重さでもある。
七年間、この鉄の持ち主と共に歩んだ日々は、決して無駄ではなかった。
彼女が残した火花は、こうして次の世代へと飛び火し、新たな炎を灯したのだから。
私は心の中で、あの灰色の少女に語りかけた。
(お前の後輩は、なかなか骨のある奴だぞ。……いや、硝子のある奴、か)
蹄鉄は何も答えない。
ただ、黒ずんだ鉄の表面が、モニターの明かりを反射して、ニヤリと笑ったように見えた気がした。
私は蹄鉄を、デスクの元の位置に戻した。
書類の山の、一番上に。
それはこれからも、ここに在り続けるだろう。
歪んだ才能たちが、風に飛ばされないように。
その重みで、しっかりと大地に繋ぎ止めておくために。
窓のない部屋に、微かに風が吹いた気がした。
それはきっと、泥だらけの硝子の靴が、次のレースへと向かう足音の響きだった。