贈るメロディの予感
窓ガラスを、白い息がふわりと曇らせた。
学年末の三月。まだ朝の冷気が残る時間帯に出発した観光バスは、郡山の街を抜けて、山の方へとじわじわ標高を上げていく。
路肩の雪はずいぶん痩せて、アスファルトがところどころ顔を出しているのに、窓の外の空気は妙に刺さるように冷たかった。
その二列目のシートで、彩女はひとり、イヤホンを片耳だけ差し込んで、スマホから流れるオケ音源を聞きながらノートを開いていた。
ページの上には、ぐしゃぐしゃ消された線と、書きかけのフレーズがいくつも並んでいる。
――君は独りじゃないから
――あたしは、味方
鉛筆の先で、その言葉をなぞる。
胸の奥が、こそばゆくて、少しだけ痛い。
(“君は独りじゃない”ってさ……)
窓の外に視線を外しながら、彩女は小さくため息をつく。
(それ歌ってるあたしが、一番、人間じゃないんだよね)
冗談みたいな独り言を心の中でつぶやくと、胸の奥で、何かがきゅっと縮こまった。
風が、好きだった。
子どもの頃から、怒られないギリギリのところで、何度も何度もこっそり呼んだ。
空気の流れをつかんで、向きを変え、木々の枝を鳴らし、洗濯物を揺らし、誰にも分からないくらい少しだけ、“世界の手触り”をいじる。
それができてしまう自分が、「怖い」と教え込まれたのも、同じくらい昔の話だ。
『安達ケ原の鬼はね、人をさらって帰ってこない風を呼んだのよ』
幼い頃、祖母が半分笑いながら、半分だけ本気の目で言った言葉を思い出す。
『だから彩女。風と遊ぶ時は、人のいる場所で使っちゃだめ。
あんたは、普通の子のふりをして生きるの』
普通の子の、ふり。
そういう意味では、今このバスの中は、かなり“普通”に見えているはずだ。
前のシートでは惣一郎が騒ぎながらゲームの画面を見せつけていて、その隣で愛香が呆れたように笑っている。通路側では愛香が惣一郎とスキー場のコース図を眺めて、「上級コース行けるかな」と目を輝かせている。
ごく普通の、1年生のレクの車内。
そのすぐ隣で、彩女はノートに、そっと新しい行を足した。
――忘れられない 君がくれたもの
――あたしを導いてくれた
そこまで書いて、手が止まる。
次の言葉が出てこない。
何を書いても、安っぽくて、嘘っぽく感じてしまう。
ため息を吐いて、鉛筆を噛みそうになった、その時だった。
「……新しい曲?」
すぐ隣から、聞き慣れた声。
「うわっ」
反射的にノートを閉じてしまい、バサッと音がした。
彩女は慌てて押さえ込み、横を睨む。
「ちょ、のぞかないでよ!」
「いや、覗いたつもりはないけど」
苦笑いしながら、青見が肩をすくめる。
通路側の席から少し身を乗り出して、さっきまで彩女がペンを走らせていたページをちらりと見ていたらしい。
「また歌詞書いてんのかなって思ってさ。
さっきから、ずっと真剣な顔してたから」
「……ただの、落書き」
視線をそらしながら、彩女はノートを抱き込む。
(“これは、いつか青見に贈るメロディ”とか、言えるわけないでしょ)
頬が熱い。
イヤホンから流れているメロディが、やけに大きく感じられる。
「そ。じゃあ、その“落書き”完成したら、また聞かせてよ」
「べ、別に、青見に聞かせるために作ってる訳じゃ――」
言いかけて、喉の奥で言葉が絡まった。
図星だったからだ。
青見は「はいはい」といなすように笑って、窓の外に顎をしゃくる。
「ほら、見てよ。下の方、もうほとんど雪ないのにさ。
今日の天気予報、山の方だけ真っ青だったろ。
山の神様、冬終わらせたくないんじゃね?」
冗談めかした調子で言いながら、窓の外を指す。
街から離れるにつれて、道路脇の雪はむしろ増えている。
その中に、ところどころ吹き上がった白い砂煙みたいなものが見えた。
地吹雪――にしては、少し、形がおかしい。
風の柱みたいに、ひょろ長く伸びては千切れて、また伸びて。
彩女は思わず、そちらに意識を向けてしまう。
風の流れが、耳鳴りみたいに、頭の奥でざわついた。
そこに、知らない何かの気配が、かすかに混じっている。
――誰?
無意識に問いかけそうになって、ぐっと歯を食いしばる。
祖母の声が脳裏に刺さるように蘇った。
『あんたは、普通の子のふりをして生きるの』
「安達ケ原ってさ」
そのざわめきを振り払うように、青見の声が続いた。
「昔、鬼が出たんだろ? 有名じゃん。
“黒塚の鬼婆”だっけ。修学旅行でならうやつ」
「あー……」
耳慣れた伝説の名前に、彩女は乾いた声を漏らす。
安達家の居間には、こっそり古い巻物と、人が見たら絶対笑えないような絵が残されている。
それを見て育った自分にとって、“黒塚の鬼”は、教科書の中だけの怪談じゃない。
でも、それをそのまま言えるはずもなくて。
「その鬼の末裔かもよー? あたし」
わざと明るく、軽い調子で言ってみせる。
自分で口にした瞬間、胸の奥がズキッと刺された。
青見は一瞬、目を丸くして、それから笑った。
「だったら今日、頼りにしてるわ。
雪山で遭難しそうになったら、鬼パワーで風止めてくれ」
「はいはい、任せといて」
冗談に乗った声を出しながら、彩女は窓の外へ視線を逃がす。
(……冗談で済ませてくれてるから、楽なんだよね)
バスが峠道に差しかかる頃には、空の色はさらに白く濁っていた。
遠くの山並みは、もう雪煙に隠れて見えない。
やがて、目的地のスキー場に到着する。
駐車場に降り立った瞬間、頬を刺すような冷気と、横殴りの風が襲ってきた。
耳がちぎれそうな寒さなのに、空気はどこか、春の匂いを含んでいる。
「今年は雪解け早いはずなんだけどなあ……」
ロッジの玄関先で、スキー場兼宿のご主人が首をひねっていた。
年季の入ったダウンジャケットを着込み、ニット帽を深くかぶった小柄な男性だ。
「きょうだけ急に冷え込んじまってさ。
山の神様が、まだ冬を終わらせたくないらしい」
おどけたように肩をすくめる。その隣には、雪に半分埋もれた奇妙な木像が立っていた。
手足はやけに細長く、頭だけが異様に尖っている。
全体を冬の風が削ったせいか、表面はざらざらとささくれ立ち、人の影がそのまま固まったような不気味さがあった。
「それ、なんですか?」
愛香が興味津々で指さすと、ご主人は「んあ?」と振り向く。
「それか。昔ここらで祀ってた“風の守り神”だよ。
誰が言い出したか知らねぇけど、滑りに来る奴らが『インスタ映えする』とか言ってさ、捨てずに置いといてくれって」
はは、と笑い飛ばす声に、彩女はかすかな寒気を覚えた。
木像の背中側で、風が不自然に渦を巻いている。
山の上から吹きつけるはずの風が、まるでその細長い影に吸い寄せられ、絡みついているように見えた。
――誰かが、見てる。
そんな感覚が、一瞬、背筋を撫でていく。
振り返れば、そこにはクラスメイトたちの賑やかな声と、青見がキャリーバッグを引きながら「早く中入ろうぜ、凍る」と笑っている姿。
いつもどおりの“生活圏”の光景。
(……大丈夫。今日は、ただのスキーと温泉の一泊旅行)
自分に言い聞かせるように、彩女はノートをぎゅっと抱きしめた。
まだ完成していない歌詞の続きを、胸の中で呟く。
――独りじゃないから
――繋げ 今
風が、一瞬だけ優しく頬を撫でた気がした。
それが“山の神様”なのか、それとももっと別の何かなのか。
このときの彩女は、まだ知らない。