なんちゃってクトゥルフ小説   作:ぶーく・ぶくぶく

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暗闇の中でも on your side

 

 

 午後のゲレンデは、本来なら一番の“遊びどき”のはずだった。

 

 午前中の初心者講習もそこそこに終わって、自由滑走の時間。

 惣一郎は「俺、もう一人で大丈夫だから!」と張り切っているし、愛香はそんな彼の後ろを、心配そうに追いかけていく。先生は広い中腹のコースを指さして、「この辺から上は行くなよー、雲も出てきたし」と念押ししていた。

 

 最初のうちは、ただの曇り空だった。

 

 山の上に、灰色の帯がゆっくりと延びてくる。

 風が少し冷たくなった気がしたが、誰もそれを“合図”だなんて思っていなかった。

 

「行くぞ、彩女」

 

「おー」

 

 青見に続いてリフトを降り、板を揃えて斜面に立つ。

 さっき練習したばかりのターンを頭の中でなぞりながら、彩女は軽く息を吐いた。

 

(大丈夫。これくらいの斜面なら)

 

 膝を柔らかく使って雪面を捉える感覚は、陸上のスタートとは違うけれど、嫌いじゃない。

 風を切って滑る感覚は、どこか懐かしい。

 

 その風が、突然、質を変えた。

 

 斜面の途中まで来たときだった。

 

 それまで頬を撫でる程度だった風が、急に横殴りになってぶつかってくる。

 雪面を削るように吹き上げたと思った瞬間、視界一面が白に塗り潰された。

 

「っ――なにこれ」

 

 目の前が、本当に何も見えない。

 

 さっきまで見えていたはずの他の生徒の背中も、リフトの支柱も、コース脇の林も、どこかへ消えてしまったみたいだ。

 

「彩女、止まれ!」

 

 前方から飛んできた青見の声に、反射的にボーゲンの形を作って減速する。

 足元だけはまだ見える。だが、一歩先は白い霧の中だ。

 

「うわ、ガチホワイトアウトじゃん……」

 

 息だけが妙に近くで聞こえる。

 音の距離感もおかしい。斜面を叩く風の音と、自分たちの吐く息と、遠くのどこかで鳴るリフトの機械音が、ぜんぶ一つに溶けたみたいになっている。

 

「大丈夫か?」

 

 すぐそばで、青見の声。

 どこにいるのか分からないのに、不思議と“距離”だけは分かる。

 

「い、今止まった。青見は?」

 

「俺も止まってる。動くな、その場でじっとしてろ」

 

 言いながら、雪を踏む音が近づいてきた。

 次の瞬間、白いもやの中から黒い影がぬっと現れる。

 

「っわ、出た」

 

「誰が出た、だ。……はい」

 

 青見が片手を伸ばしてくる。

 グローブ越しの手を握ると、その温度がじんわりと伝わってきた。現実感が戻る。

 

「惣一郎たちは?」

 

「さっき、下の方でコケてたから、たぶん先生と一緒にとっくに止まってる。ここまで上がって来てねぇよ。あいつなら」

 

「だよね」

 

 冗談を口にしながらも、胸の奥がざわついている。

 風の流れが、さっきから変だ。

 自然の吹きつけじゃない。どこか、意図を持って巻かれている気配。

 

(……やめろ)

 

 呼応しそうになる感覚を、彩女はきつく押し込めた。

 ここで“呼んだら”駄目だ、と身体が知っている。

 

「とりあえず、一回コース脇に寄ろう。避難小屋があったろ? 地図に乗ってた」

 

「うん」

 

 青見の声を頼りに、二人でゆっくりと横移動する。

 視界は相変わらず真っ白だ。ほんの数メートル先も見えない。

 

 ふいに、ぼすん、と板の先が盛り上がりに乗り上げた。

 

「っと――ここ、コース端の土手だな。乗り越えるぞ」

 

 青見に引っ張り上げられる形で、コースの外の平らなスペースに出る。

 そこだけ、少しだけ風が弱い。建物が風を遮っているのだと気づくまで、数秒かかった。

 

「……小屋?」

 

 白いベールの向こうに、四角い影が浮かんでいる。

 古びたトタン屋根と木壁。ペンキの剥げた非常用の避難小屋だ。

 

 ドアは固かった。雪と氷で半ば埋もれた取っ手を、二人で力を合わせて引く。

 

 ギギ、と嫌な音を立てて開いた隙間から、冷たい空気と一緒に、薄暗い室内の気配が流れ出した。

 

 中は、人の気配が薄れて久しい“空き家”の匂いがした。

 

 木製のベンチが二つと、壁際に古い棚。

 埃をかぶったランタン。濡れたまま干されて、そのまま忘れられたような登山用のレインジャケット。

 隅の方に、ボロボロのザックが一つ、うずくまっている。

 

「お邪魔します……」

 

 思わず小声で呟いてから、自分で苦笑する。

 

「とりあえず、風はしのげるな。先生たちが気づくまで、ここで待とう」

 

 青見がドアを閉め、内側から閂をおろす。

 外からの音が、少しだけ遠くなった。

 

 息を吐き、ゴーグルとニット帽を外す。じっとりと汗ばんだ前髪が額に張り付いた。

 

「……思ったより、本格的に遭難しかけてる感じだね」

 

「まあ、すぐ見つかるだろ。吹雪さえ落ち着きゃ」

 

 楽観的な声に、彩女は「だといいけど」と笑ってみせる。

 

 ふと、隅のザックが気になった。

 

 近づいてしゃがみ込むと、チャックが半分開いている。

 中には、色あせたタオル、錆びたコンパス、そして、ぐしゃっと折れ曲がったノート。

 

「……これ」

 

 手に取って開くと、中はびっしりと手書きの文字で埋まっていた。

 何年も前のものなのか、紙は湿気を吸って少し波打っている。

 

「日記か?」

 

 青見が覗き込んでくる。彩女はページをめくり、ところどころの文章を追った。

 

『今日は天気が崩れる予報だったが、山頂だけ晴れ間が出ているというので、欲を出した』

 

『風が強くなってきた。Kは引き返そうと言ったが、私は大丈夫だと言った。判断ミスだった』

 

 筆圧の強い文字が、途中から乱れ始める。

 

『風の中に、何かがいる。歩くような影。あれは――』

 

 そこから数行、紙が滲んでいて読めない。

 最後の方、震える文字で、こう書いてあった。

 

『一人、消えた。足跡だけが続いている。

 風が、足跡をなぞって笑っている』

 

 ページの端に、固まった泥のような茶色い痕がついていた。

 血かもしれないし、ただの汚れかもしれない。どちらにしても、笑える代物ではない。

 

「……趣味わる」

 

 思わず口にすると、青見が小さく息を吐いた。

 

「いつのだろな、これ」

 

「さあ……でも、ここしばらく使われてない感じはあるよね」

 

 視線をページから外すと、窓の外が薄暗くなり始めていた。

 吹雪で昼と夜の境目が曖昧になっていく。

 

 しばらくして、吹雪の勢いが一瞬だけ弱まった。

 青見と相談して、せめて周りの様子だけ見ておこうと、小屋のドアを少しだけ開ける。

 

 外の世界は、相変わらず真っ白だった。

 ただ、小屋のすぐそばだけ、雪面が風に削られて、前に誰かが歩いた痕が見えている。

 

「あれ……」

 

 彩女は思わず息を呑んだ。

 

 小屋へ向かって伸びている足跡が、途中でぷつりと途切れている。

 雪に埋もれたのではない。最後の一歩の先に、もう何も続いていないのだ。

 

 足跡の形は、しっかりと残っている。

 その先だけ、まるで、誰かが空中にさらわれたみたいに、ぽっかりと空白になっていた。

 

 少し離れたところにも、同じような途切れ方をした跡が、いくつも、いくつも。

 

「見なきゃよかった……」

 

 ぞわっと背筋が冷える。

 さっき読んだ日記の一文が、脳裏に浮かぶ。

 

『足跡だけが続いている』

 

「中、入るぞ」

 

 青見が彩女の肩を押し、小屋の中へ戻った。

 ドアを閉めると、外の白と、途切れた足跡は、視界から切り離される。

 

 だが、胸の奥のざわつきは消えなかった。

 

     ◇

 

 夜になっても、吹雪はやまなかった。

 

 先生とスキー場のスタッフが捜索しているはずだと分かっていても、この音の中で見つけてもらえるのか、不安が胸の底に積もっていく。

 

 小屋には非常用の毛布が何枚かあり、それを羽織って、二人で体温を逃がさないように寄り添って座っていた。

 床は冷たく、壁の隙間から細かい粉雪が時折忍び込んでくる。

 

「眠れない?」

 

 隣から、青見の声。

 

「……ちょっと」

 

 本当は、瞼はとっくに重い。

 でも、目を閉じるのが怖かった。

 

 吹雪の音が、風のざわめきに変わっていく気がする。

 呼べば応えてしまいそうな“あちら側”の気配が、この小屋の周りを延々と歩き回っているのが分かる。

 

(呼ばない。絶対呼ばない)

 

 ぎゅっと毛布の端を握りしめる。

 

「大丈夫だ。明日になれば、天気もマシになるだろ」

 

 青見の声は、妙に落ち着いていた。

 昔、怪異に関わる騒ぎに巻き込まれた夜のことを、彩女はふと思い出す。

 

 あのときも、こんなふうに言ってくれた。

 “怖くても、隣にいるから”。

 

「……うん」

 

 小さく返事をして、彩女は壁にもたれかかった。

 揺れるランタンの灯りが、天井に不規則な影を踊らせている。

 

 まぶたが落ちる。

 意識が、ゆっくりと沈んでいく。

 

 

   ◇  ◇  ◇

 

 

 どこまでも白い世界だった。

 

 空も、地面も、境目が分からない。

 足元だけが、かろうじて自分のものだと分かる。

 

 そこには、踏みしめた足跡が一列に続いていた。

 

 振り返ると、自分が歩いてきた軌跡がずっと向こうまで伸びている。

 けれど、その先――もっと過去の足跡は、風に削られて霞んでいた。

 

 前を見る。

 果てしない白の中に、自分の足跡だけが延々と続いている。

 

 どこまで行っても、誰の足跡も並んでいない。

 

 ただ、自分一人分の痕跡だけ。

 

「……さむ」

 

 ぽつりとこぼした声が、白い空に吸い込まれていく。

 次の瞬間、耳元をかすめた風が、まるでその言葉を真似するように鳴った。

 

 ――……さむ……さ……む……ひとり……

 

 聞き間違いかと思う。

 だが、びゅう、と吹き抜けるたびに、風音の中に、どこか人の声のような揺らぎが混じる。

 

(気のせい。これは、ただの風)

 

 自分に言い聞かせながら、一歩、足を前に出す。

 ぎゅ、と雪が沈む音。新しい足跡が一つ増える。

 

 そのすぐ後ろを、何か細いものがなぞるように通り過ぎた。

 

 振り返ると、自分の足跡の横に、もうひと筋、筋の細い跡が残っている。

 人の靴の形とは違う。踏み幅もおかしい。

 けれど、さっきまでは、確かになかった。

 

 風が、また鳴った。

 

 ――……ひとり……だ……

 ――きみは……ひとり……

 

 今度は、はっきり「きみ」と聞こえた気がした。

 

 空を見上げても、誰もいない。

 口を開いているのは、空でもなく、雪でもなく。

 ただ、風だけだった。

 

(……あたしが、言った?)

 

 自分の声が、遅れて返ってきているような、奇妙な感覚。

 さっき頭の中でなぞったフレーズが、削られた形で、耳に戻ってくる。

 

 ――君は独りじゃないから。

 

 バスの中で、何度も心の中で繰り返した言葉。

 

 風は、その「じゃない」を、冷たい音で削り取った。

 

 ――きみは ひとり だから

 

 雪面に、ポタリと何か落ちた気がした。

 涙かもしれないし、ただの雪解けの滴かもしれない。

 

『誰も、君の足跡なんて見ていない』

 

 そう聞こえた気がした。

 

 はっきりした言葉ではない。

 雪を叩く音が連なって、たまたまそういう意味に聞こえただけ――

 そう思おうとするたび、別の方向から吹いてきた風が、同じニュアンスを繰り返してくる。

 

 ――だれも……

 ――みていない……

 ――あしあと……

 

 ぐるりと、見えない舌でなぞるみたいに、世界の周りを回り込んでくる。

 

 彩女は、足を止めた。

 

 前にも、後ろにも、足跡は続いている。

 それなのに、自分の他に気配はない。

 

 白無地の空間のどこかで、自分の声が反響している。

 その反響が、誰かにいじられて、別の意味に変えられている。

 

(独りじゃないって……あたし、歌おうとしたのに)

 

 胸の中で呟いたつもりの言葉が、少し遅れて耳に返ってくる。

 

 ――ひとり だって……あたし……

 ――あたし ひとり……

 

 自分の声色にそっくりだ。

 たどたどしく、でも確かにそう言っている。

 その“自分”が、雪面の向こうで、ひとりで笑っているイメージが、勝手に浮かんでくる。

 

(違う。そんなこと言ってない)

 

 否定しようとすると、その否定の言葉すら、風がさらっていく。

 

 ――ちがう?……ちがわない……

 ――きみは おに だろう……

 

 今度のそれは、はっきりと意味を持っていた。

 

 背筋がぞわりと粟立つ。

 

(鬼、って……)

 

 安達ケ原。

 祖母の語った昔話。

 “人をさらって帰ってこない風”。

 

 さっきまで、思い出したくなくて、笑い話に変えていた単語が、風音に紛れて突き刺さってくる。

 

 足元の雪が、じわりと沈んだ。

 

 自分の靴の跡のすぐ横を、細長い何かの跡が、ぴたりと重なるように進んでいく。

 その“何か”に形はない。ただ、そこだけ雪の密度が違う。

 

 まるで、見えない誰かが、肩を寄せて歩いているように。

 

 風が雪面を叩く音が、笑い声に聞こえる。

 ポン、ポン、とリズムを刻むたびに、「こっちへ」と誘われているような気がした。

 

(行っちゃ駄目だ)

 

 身体は分かっているのに、足が勝手に前へ出そうになる。

 雪が足首を掴んで離さないのに、その雪ごと、ずるずると前へ引きずられていくような感覚。

 

 ――わたしが つれていく

 ――あしあとも きおくも なにもかも

 

 それもまた、自分の声で囁かれる。

 

 耳元で、唇が触れそうな距離感。

 けれど、振り返っても、誰もいない。

 

(あたし……そんなこと、言ってない)

 

 心の中で必死に否定する。

 だが、その否定すらも、少し遅れて、別の意味に捻じ曲げられて戻ってくる。

 

 ――いってない……いってない……

 ――だから いってしまおう……

 

 白い世界が、ゆっくりと傾いた。

 

 足跡も、空も、自分自身も、境目が溶けていく。

 鬼だ、人間だといった区別も、全部、粉々になって風に混ざる未来が、どこかですでに決まっているような感覚。

 

 そのとき。

 

「……彩女」

 

 微かに、別の声が差し込んできた。

 

 風の鳴き声と雪のざわめきを、乱暴に切り裂くような、生々しい音。

 

「彩女、聞こえるか。……大丈夫だ、ここにいる」

 

 聞き慣れた、あの声だった。

 

 白一色の世界の端で、やわらかな色がじんわりとにじむ。

 冷たい風の層の向こう側から、誰かの手が、指先を掴んでくる感覚がする。

 

(青見……)

 

 名前を思った瞬間、胸の奥で、別の音が弾けた。

 

 イヤホンから何度も繰り返し聞いた、自分のメロディ。

 未完成の歌詞に乗せたフレーズが、遠くの方で流れ始める。

 

 ――独りじゃないから

 ――あたしは、味方

 

 さっきまで風に削られていた言葉に、色が戻る。

 風のざわめきの中から、「じゃない」がちゃんと聞こえる。

 

 風の流れが、ほんの少しだけ、調子を変えた。

 嘲るようなリズムが薄れ、代わりに、どこか探るような沈黙が生まれる。

 

 雪を叩く音の合間に、先ほどまでの“彩女そっくりの声”が、途切れ途切れに何かを言いかけて、そこで言葉を失った。

 

 何かが、遠ざかっていく。

 白い世界の地平線の向こうへ、足跡ごと、ゆっくりと滲んで消えていく。

 

 

     ◇

 

 

「彩女!」

 

 現実の避難小屋の中で、青見は毛布の中の肩を揺さぶった。

 

 彩女の額には、冷や汗がにじんでいる。

 眉間に深いしわを刻み、喉の奥で押し殺したような声を漏らしていた。

 

 吹雪の音は、さっきよりもひどくなっている。

 小屋ごと持っていかれそうな風圧の中で、その寝言だけが妙に鮮明に聞こえた。

 

「……ひとり、じゃ……ない……」

 

 かすかな声。

 

 青見は、その手を強く握った。

 

「そうだよ。お前は独りじゃない」

 

 言葉に、自然と力が入る。

 

「ここにいる。俺がいる。……だから、戻ってこい、彩女」

 

 グローブを外した素手で、彩女の手を包み込む。

 指先は冷えていたが、その奥にはちゃんと体温があった。

 

 彼女の表情が、ほんの少しだけ緩む。

 固く閉じていた瞼の端に、血の気が戻ってくる。

 

 外では、まだ風が吠えている。

 その唸り声のどこか遠くで、さっきまで紛れ込んでいた“人のような響き”が、一歩分だけ離れたような気配を、青見はぼんやりと感じていた。

 

 

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