翌朝、嘘みたいに、音が変わっていた。
夜通し小屋を揺らしていた風の唸りは、いつの間にか遠のいている。
まだ雪は舞っているが、視界を奪っていた白い壁は、少しずつ薄くなっていた。
「……止んだ、ってほどじゃないけど」
ドアの隙間から外を覗きながら、彩女が呟く。
昨日は一歩踏み出すのも怖かった外の世界が、今日は輪郭だけでも見える。
「今のうちに周り、確認しとくか。避難小屋の位置もちゃんと覚えておきたいし」
青見の提案にうなずいて、二人はスキー板を外してブーツのまま雪の上に立った。
足を踏み出すたび、ぎゅっ、ぎゅっと雪が鳴る。風はまだ冷たいが、昨夜の“噛みついてくる”感じは薄れている。
小屋から少し離れると、木立の切れ目に、小さな高まりが見えた。
「……祠?」
雪をかき分けて近づくと、そこにはしめ縄の残骸が巻きついた石の台座と、その隣に倒れた石碑があった。
台座には、かつて何かを祀っていたらしい空洞。石碑は途中からぽっきりと折れ、欠けた断面には重機か何かで押し倒されたような傷が残っている。
表面についた雪を手袋で払うと、掠れた文字が現れた。
――風雪守護……山ノ……
ところどころ、肝心な部分が削れて読めない。
「昨日の“風の守り神”の木像と、同じ系統かな」
青見が、ロッジ前にあったトーテムを思い出したように言う。
「観光開発のときに、邪魔って倒されたのかもね……」
彩女は折れた石碑を見下ろした。
ただの迷信、ただの石。そう言い切れれば楽なのに、胸の奥がざわつく。
後になって、ロッジの古いノートの片隅に、「某年、祠の移設工事以降、遭難事故が増えた」というメモ書きを見つけるのだが――その時の彩女は、まだそれを知らない。
ただ、風の流れだけは、はっきりと変わっていた。
折れた石碑のあたりだけ、風が落ち着かない。
山の上から流れてくるはずの冷気が、そこに引っかかって、ぐるりと渦を巻いている。
まるで、何かを探しているみたいに。
「そろそろ、下りないと」
時計を見た青見が言う。
どれくらい時間が経ったのか、感覚が曖昧だ。先生たちも、きっと必死に探しているはずだ。
「うん。……ありがとうね、昨日」
何気なくそう言ってから、彩女は自分でも、何に対しての礼なのか分からなくなった。
悪夢から引き戻してくれたことか。手を握っていてくれたことか。それとも――
「また、あとでちゃんと聞かせろよ」
「え?」
「その“落書き”。歌詞」
さらっと付け加えられた言葉に、彩女は顔をそむけた。
「……考えとく」
毛布代わりのダウンを着込み直し、二人は板を履き、コースへ戻る。
天候は“回復傾向”と呼べる程度にはなっていた。
昨日のホワイトアウトのような完全な白い壁はなく、斜面の起伏も、リフトの支柱も、ぼんやりとは見える。
「先生たちも、そろそろ上がってきてるかもな」
「遭難してきた二人組、ってクラスで一生言われるやつだ……」
軽口を交わしながら、慎重にターンを重ねて斜面を下る。
雪質は重く、ところどころ風で削れて硬い。だが、昨日よりはずっとマシだ。
――その途中で、風が、また変わった。
前から吹いていたはずの風が、急に横から、そして下からも巻き上がる。
視界の端で、雪煙が一本の柱のように立ち上がった。
「……止まれ」
青見の声が低くなる。
二人はほぼ同時に減速し、その場に止まった。
斜面の少し先、まだ白さの残る霧の向こうに、何かが立っていた。
最初は木かと思った。
細く、高い。
人としてはありえないほど腕と脚が長く、頭の先だけが異様に尖っている。
昨夜ロッジの前で見た木像が、雪の中から抜け出して、そのまま大きくなったようなシルエット。
風が、その影の周りだけ、妙に静かだった。
他の場所では雪を叩いているのに、そこだけは、音が吸い込まれている。
「……見えてるよな、アレ」
「うん。見えてる」
見間違いじゃない、と複数人で確認した瞬間、余計に現実味を帯びる。
影の足元に、巨大な足跡が残っていた。
人間のスキー靴どころではない。
一本の脚で歩いたような、ひとふみごとに深く抉られた窪み。その隣に、ごく普通の大きさの、人間の足跡が細かく続いている。
それは、ある一点まで並んでいたが、そこから突然、消えていた。
人の足跡だけが、ぷつりと途切れている。
巨大な足跡は、その先にもなお続いていた。
(……日記と同じじゃん)
彩女の喉が、ごくりと鳴った。
避難小屋で読んだ、あの震える文字。
『足跡だけが続いている』
今目の前にあるのは、それよりも悪い。
“続いていた足跡”が、途中で消えている。
その消失点から、冷たい何かの視線が、こちらを撫でた。
影は口を動かしていない。
それなのに、耳の奥で、言葉の形をした“風の集まり”が鳴った。
「守りきれなかった過去を――」
雪面を滑る風音が、自然な流れを無視して、意味を持つ。
「もう二度と、繰り返したくないか?」
その問いかけは、青見の胸の奥を、正確に突いてきた。
両親を失った夜。
血の匂いと、警察の青いライト。
何も出来なかった自分の手。
あの時と同じ冬の空気が、肺の奥にひやりと戻ってくる。
「風を支配すれば――」
誰の声でもない。
風が、その形を選んで鳴っているだけだ。
「誰も失わない。君は、そんな力を持てる」
脳裏に、一瞬だけ映るイメージがあった。
暴れる怪異を、一瞬で吹き飛ばす突風。
崩れかけた橋の上から、落ちかけた人を支える上昇気流。
火災から、事故から、暴力から、全てを守る透明な盾としての風。
……その中心に、自分が立っている未来図。
(そんなの――できるなら、とっくに)
喉が、勝手に言い訳を探し始める。
力があれば、あの時の結末は違っていた。
彩女やクラスメイトたちを、もっと安全な場所に置いておけた。
そこに、別の風が重なった。
「君は、誰かの“期待”に応え続けるのが辛いだろう?」
今度のそれは、彩女の耳元に絡みつく。
声の色は、どこか自分自身に似ていた。
明るい調子を無理に作ったときの、自分の声。
「すべてを投げ出し、ひとりで空を歩けばいい」
斜面を吹き上げる風が、ふっと重力の向きを変えたように感じた。
足元の雪が軽くなり、身体がふわりと浮く感触。
足跡が必要ない世界。
誰の隣も歩かず、誰にも触れず、ただ風と同化していく未来。
「足跡は風が消してくれる。悩みも、恥も、全部」
バスの中で隠したノート。
ぐしゃぐしゃに消したフレーズ。
上手く書けない、届けられない、自分の歌。
(結局あたしの歌なんて、青見の役に立ってるのかな)
期待されるのは、好きだ。
「彩女ならできる」「彩女だから頼む」と言われれば、嬉しい。
でも、約束を守れなかったとき、期待に届かなかったとき。
胸のど真ん中に、冷たい穴が開く。
(綺麗な道じゃなくてもいい、って書いたけど)
本当は、誰よりも楽な道を選びたくて。
本当は、早く褒められて、安心したくて。
認められて、「それでいいよ」と言ってもらえる場所だけ歩いていたいだけなんじゃないか――
そんな自己嫌悪が、じわじわと足元から這い上がってくる。
影の周りで、風が満足そうにうねった。
「……彩女」
そこで、別の声が割り込んだ。
今度は、本物の人間の声。
耳馴染みのある、体温の乗った響き。
青見が、一歩前に出た。
風に押されぬよう、板のエッジを深く雪に噛ませて、影と彩女の間に立つ。
「そいつの言うことなんか、聞かなくていい」
唇だけを動かして、低く言う。
その目は、影を睨みながらも、ほんの一瞬だけ彩女を見た。
迷いが、そこにはなかった。
「彩女が書いてる歌、俺、好きだぞ」
「は?」
思わず、間抜けな声が出た。
こんなタイミングで何を、と言いかけて、言葉が喉の奥で止まる。
「うまく言えなくても、拙くてもさ」
雪が、ひとひら、二人の間を通り過ぎた。
風が、その音をかき消さずに、ちゃんと運んでいく。
「……それでも残るだろ? お前が諦めないで書き続けた証だろ」
「拙い足跡だって それでも残る/諦めなかった証」
ノートの片隅に、自分で書いたフレーズが、まるで他人の言葉みたいに胸に落ちる。
あの日、指に力を込めて、何度も何度も書き直した行。
“どんな道でもいい。諦めなかったこと自体が、足跡になるはずだ”と、震えながら信じたかった意味。
それを、青見が、ちゃんと覚えてくれていた。
(……見てたんだ)
恥ずかしくて、嬉しくて、苦しくなる。
風の音が、一瞬だけ、息を呑んだように止んだ。
彩女の胸の奥で、そのフレーズが形を変える。
ただの歌詞でも、ただの自己慰めでもない。
――これは、あたしが“人として”ありたいと願った証。
それを、隣にいる誰かが「好きだ」と言ってくれた事実。
「拙い足跡だって、それでも残る」
彩女は、半ば無意識に、口にしていた。
言葉にした瞬間、周囲の空気がきしむ。
雪面をさらっていた風が、足跡の縁を削ろうとして、弾かれたように跳ねる。
今までは触れたそばから形を崩していたのに、その一列だけ、妙に輪郭がはっきりと残った。
「諦めなかった証」
続けて落とした言葉が、雪に刻印のように染み込んでいく。
足跡が消えない。
風がいくら吹きつけても、その線だけは輪郭を保ち続ける。
影――イタカの周りで、風がざわめいた。
人を惑わせていた囁きのトーンが、わずかに変わる。
興味を持った何かが、こちらを改めて見定め直しているような、そんな気配。
彩女は、スキー板の上で、ぐっと膝に力を込めた。
(綺麗な道じゃなくてもいい。近道じゃなくてもいい)
荒れた斜面だろうと、吹雪の中だろうと。
自分で選んで踏みしめた足跡は、風になんか消させない。
青見の言葉が、その決意に形を与えた。
歌詞のフレーズは、もはやノートの中の文字ではない。
――ここから先、風と渡り合うための、本当の“呪文”になった。