風が、豹変した。
さっきまで足跡の縁をなぞるだけだった流れが、一気に牙を剥く。
斜面の上から、下から、横から、あらゆる方向から雪を巻き上げて、二人ごとさらい上げようとした。
「っ……!」
板ごと足元が浮く感覚に、彩女はとっさにストックを突き立てる。
しかし、雪面の方が先に割れた。
ばき、と嫌な音がした。
風に削られて薄くなっていた雪の層が、音を立てて崩れ始める。
表面だけ、スローモーションの雪崩のようにずるずると滑り落ちていく。
足場が、どんどん消えていく。
「下だ。ロッジの灯り、見えるか」
青見の声に、彩女は必死で目を凝らした。
吹きすさぶ雪の幕の向こう。
谷の底の方に、小さく橙色の点が揺れている。
ロッジの明かりだ。
こんな状況でも、そこだけは、まっすぐに二人を目指していた。
――そこへ行かせない。
風がそう意思表示したみたいに、斜面の上の方から凶暴な突風が叩きつけてくる。
雪粒が横殴りに顔に刺さり、息がうまくできない。
耳の奥で、昨夜と同じ“にせものの声”が、再び膨らみかけた。
――ひとりで きえれば いい……
――あしあと なんか いらない……
その囁きを、彩女は舌で噛み殺した。
(違う)
喉が震える。
怖い。死にたくない。ここで足を滑らせれば、本当に終わるかもしれない。
それでも――
(あたしは、独りじゃない)
胸の内側に、昨夜のメロディが浮かんだ。
まだノートの外に出していなかった、歌の続き。
あのとき風に削られかけたフレーズを、今度は自分で掴みにいく。
喉が震える。
息が白くちぎれながら、それでも彩女は、歌い始めた。
「……独りじゃ、ないから――」
最初の一音は、風に呑まれた。
けれど、次の音は、ちゃんと自分で掴んだ。
「独りじゃないから!」
叫ぶように歌った声が、吹雪の中に飛び出していく。
さっきまで“ひとりだ”と鳴っていた風音が、一瞬だけつんのめるように止まった。
――ないから……ないから……
風の尾っぽが、後からついてくる。
さっきとは逆だ。風が、人の言葉を上書きするんじゃない。人の言葉に、風が追従している。
「どんな暗闇にいたって――」
肺が焼ける。
それでも、止めない。
「on your side!」
英語のフレーズが、白い世界に硬質な輪郭をつけた。
雪煙の幕に、うっすらと色が差す。
誰かの「味方でいる」と宣言した言葉が、この山の空気にはなかった異物として、くっきり浮かんだ。
「……あたしは、味方!」
自分の胸に向けて、矢のように撃ち込む。
――みかた……みかた……
風が、その言葉だけは真似ることができずに、ぎこちなく転げた。
イタカの影の輪郭が、吹雪の向こうでぶれる。
痩せた体躯の周りを巡っていた風の渦が、少しだけ力を失ったように見えた。
「彩女!」
叫ぶ青見の声が、耳元を貫く。
「歌いながらでいい。……下るぞ」
選択肢は、もともと多くない。
ここで風にさらわれるのを待つか。
それとも、自分たちの足でロッジまで辿り着くか。
そのどちらを選ぶのか、イタカは黙って見ている。
青見は迷わなかった。
彩女の腰をぐいっと引き寄せ、板ごと自分の前に抱え込む。
ほとんど抱きかかえるような形で、そのまま斜面の下へ向きを変えた。
「ちょ、ちょっと!」
「文句は下に着いてから聞く。掴まってろ!」
言うが早いか、板のエッジが雪を噛む。
重くなった雪面を、重力の方へ押し出す。
吹雪に逆らわない。
風が押す方向を、ほんの少しだけずらして、自分たちの行きたい方角に乗せていく。
歌声が、風を掴む手綱の代わりだった。
「辛さも――」
風が、前からぶつかってくる。
目を開けていられない。頬が痛い。
それでも、彩女は叫んだ。
「苦しみも――ふっ飛ばしていくんだ!」
歌詞のフレーズを、未来の宣言として投げつける。
――ふっとばして……いく……
風が、雪煙を持ち上げた。
正面からぶつかっていたはずの圧力が、一瞬だけ向きを変える。
真横からの突風が、二人の背を押した。
斜面を滑り降りる板の下に、見えないベルトコンベアが追加されたみたいに、速度が上がる。
さっきまで足場を削ろうとしていた風が、その瞬間だけ、“移動手段”として働いた。
イタカが意図した方向とは、きっと違う。
けれど、風そのものは、命令を聞くよりも“形ある願い”に引き寄せられる。
――繋げ 今。
バスの中で書きかけた、その一行が、胸の奥で勝手に光る。
今までの足跡と、今ここで選んだ一歩を。
過去の自分と、今この瞬間の自分を。
鬼としての血と、人としての願いを。
全部ひとつの線に“繋げ”と命じる言葉。
彩女がそれを心の中でなぞったとき、風の流れがもう一度変わった。
吹雪の幕の中に、一本の“道”が浮かび上がる。
視覚的に何かが見えたわけじゃない。
ただ、雪の抵抗が少ないラインが、斜面の上に一本だけ感じ取れた。
「あそこだ!」
青見は迷わず、その“道”に板を乗せた。
足裏から伝わる雪の感触が、ほんの少しだけ滑らかになる。
足場がなくなる縁をギリギリで避けながら、二人分の体重を乗せて、斜面を一直線に駆け下りる。
歌は、もう旋律というより、呪文だった。
「独りじゃないから――!」
息の続くかぎり、叫ぶ。
声が裏返っても、言葉さえ届けばいい。
「どんな暗闇にいたって――on your side!」
風が、また背中を押した。
斜面が緩くなるのが分かる。膝にかかっていた負担が少しずつ軽くなる。
距離が縮むにつれて、ロッジの灯りが、だんだん大きくなっていく。
最初は豆粒だった橙色が、次第に四角い窓の形を取り戻す。
「……見えてきた!」
「最後まで気抜くなよ!」
青見は歯を食いしばり、進行方向だけを見据えた。
技術も体力も、普段の練習で積み重ねてきたものだ。
ここに超常の力は介入しない。
イタカの風は、今この瞬間だけ“追い風”として利用する。
――それを許すかどうか。
最後に決めるのは、山の上に立つ痩せた影だ。
吹雪の幕の向こう。
イタカは、黙って二人を見送っていた。
奪うことも、足跡を消すこともできたはずだ。
その力は、昨夜証明済みだ。
それでも、二人が自分たちの足で選び取った“下り道”だけは、今この瞬間、乱さなかった。
風そのものとして存在する何かが、一瞬だけ、観客に徹する。
“人間側の選択”という、滅多に見られない光景を、興味深く見つめるように。
最後の斜面を抜けたとき、雪の抵抗がふっと消えた。
視界が開ける。
ロッジ前の緩斜面に飛び出した二人は、そのまま勢い余って転がり込んだ。
雪煙と一緒に、玄関前のスペースに突っ伏す。
「いっててててて……」
「お、お前、重……いや、なんでもない」
痛みと安堵が同時に押し寄せてきて、変な笑いが込み上げた。
ロッジの扉が乱暴に開く音がした。
「青見くん! 彩女さん!」
結先生の怒鳴り声と、ほとんど同時に駆け寄ってくる足音。
惣一郎が「マジで遭難かと思った!」と半泣きで叫び、愛香が「ああ……ほんとに良かった……」と涙目で何度も頷く。
「スキー場の人と救助隊、みんなで探してたんだぞ!」
先生にこっぴどく叱られながらも、その声の震えに、本気で心配してくれていたことが滲んでいる。
彩女は、へらっと笑って「すみません」と頭を下げた。
隣で青見も同じように頭を下げる。
ロッジの中に引き入れられ、温かい空気に包まれる。
ストーブの熱で顔がじんじんし始めて、ようやく「戻ってきたんだ」と実感した。
誰かが「足跡がすごかった」と言った。
窓の外を見れば、吹雪は嘘のように止んでいた。
さっきまでの凶暴さが嘘のように、風はただ冷たいだけの山の空気に戻っている。
それでも、雪面はほとんど真っさらにはなっていなかった。
ロッジから避難小屋の方角へ向かって、二人分の足跡が続いている。
いや、正確には、“戻ってきた”側の線だ。
不自然なくらい、しぶとく残っていた。
他の場所の踏み跡は、風にさらわれて輪郭を失っている。
なのに、その一筋だけは、誰かがかばうように守り続けたみたいに、はっきりと刻まれていた。
「……奇跡的に、風当たりの影になってたのかもな」
スキー場のスタッフは、そんな苦しい理屈をつけようとしていた。
けれど、彩女は知っている。
(これは――あたしと青見の“諦めなかった証”)
拙くても、危なっかしくても、選んで踏みしめた足跡。
それを、風に飲ませないと決めた瞬間から、その線はただの雪の跡ではなくなった。
ロッジの窓ガラスを、外からひと筋の風が撫でていく。
それは、昨夜の“連れていく風”とは違う。
「行け」と背中を押す、別れの挨拶のような、乾いたひと撫でだった。
(……さよなら、山の神様。イタカ)
心の中でだけ、小さくそう呟く。
答えは、当然、返ってこない。
ただ、遠く山頂の方で、雪煙がひとつだけ細長く立ち上っては、すぐに消えた。
その場にいた誰も、その意味を知らない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
この日、山の上で迷った二人分の足跡は――
風にさらわれなかった。
そしてその線の終点には、
「独りじゃない」と歌った少女と、その隣に立つ少年の姿が、確かに残っていた。