なんちゃってクトゥルフ小説   作:ぶーく・ぶくぶく

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続いていくダイアリー

 

 

 その夜の温泉は、いつもより少しだけ、ありがたみが違った。

 

 遭難騒ぎのあと、先生とスキー場の人たちにこってり絞られ、夕食をかき込んだあと。

 「身体をちゃんと温めてから寝ろよ」との指示で、クラスは順番に大浴場へ向かった。

 

 時間がずれて、最後に残ったのは、なぜか青見と彩女だけだった。

 

「じゃ、先に上がってるからな」

 

 男湯の戸口の前で、青見がタオルを肩にかけて言う。

 

「うん……溺れないでよ」

 

「風呂で溺れないよ」

 

 そんな他愛もないやり取りをして、それぞれ暖簾の向こうへ消える。

 

 

     ◇

 

 

 女湯の露天風呂は、木の塀に囲まれた小さな庭だった。

 

 湯気が白く立ちのぼり、頭上には薄くなった雲の切れ間から、夜空がのぞいている。

 雪の積もった岩の間を縫うように、源泉からの湯が、とぽとぽと流れ込んでいた。

 

「……生き返る……」

 

 肩まで湯に沈めて、彩女は思わず声を漏らした。

 山の冷気に凍りついた手足が、じわじわと解けていく。指先の感覚が戻るたび、さっきまでの恐怖が「過去のこと」に変わっていくのが分かった。

 

(のぼせないうちに、言わなきゃ)

 

 湯船の縁に置いてあるカゴの中には、ビニール袋にしっかり包んだノートが入っている。

 濡らしたくなかったけれど、どうしても「今」渡したかった。

 

 ざばり、と隣の塀の向こうから湯の音がした。

 

 男湯の露天とは、背中合わせの構造になっている。

 塀の上には空が一本だけ繋がっていて、湯気が互いの境界を越えていく。

 

「おーい、彩女」

 

 青見の声が、板一枚向こうから聞こえた。

 

「なに」

 

「生きてるか確認」

 

「今さら!? こんだけ温泉つかってて幽霊だったら怖いわ」

 

 思わず笑いながら返すと、向こう側でくつくつと笑い声がした。

 

 会話はそれだけだった。

 

 でも、その短いやり取りだけで、“いつもの距離感”が戻ってくる。

 鬼であろうが、人であろうが、今ここにいる自分は、自分だ。

 

 十分に温まってから、彩女はそっと立ち上がった。

 バスタオルを巻き、ノートの入ったビニール袋を抱えて脱衣所へ戻る。

 

 

     ◇

 

 

 湯上がり処の端のソファで、青見が牛乳の瓶を傾けていた。

 

 頬は湯あたりで赤く、髪はいつもより少しだけ乱れている。

 ペットボトルのスポーツドリンクを片手に、彩女が近づくのを見ると、彼は片眉を上げた。

 

「のぼせてないか?」

 

「それ、こっちのセリフ」

 

 応じながら、彩女は彼の隣――ではなく、一つ間を空けた席に腰を下ろした。

 心臓の音が、まだ吹雪の時みたいに速い。

 

 手の中のビニール袋が、かさりと鳴った。

 

「……ね」

 

「ん?」

 

 青見が瓶から口を離す。

 

「これ」

 

 ビニールをほどいて、ノートを取り出す。

 湯気でふにゃっとならないように、慎重に両手で持って、彩女はそれを青見の前に差し出した。

 

 表紙の隅には、ボールペンで小さく英語が書き足されている。

 

 ――on your side

 

「これ、ね」

 

 喉が乾く。スポーツドリンクを一口飲み込んでから、彩女は続けた。

 

「どんな暗闇でも、青見の味方でいるって歌。

 ……今日、やっと完成した」

 

 バスの中で書きかけたフレーズ。

 昨夜、吹雪の中で奪われかけた言葉。

 さっき、斜面を滑りながら叫んだ続き。

 

 それらを全部つなげて、一つの歌にしたページが、ノートの真ん中あたりにある。

 

 青見は、ノートと彩女の顔を交互に見て、それから「見てもいいか」と目で問いかけてきた。

 

「うん」

 

 小さく頷くと、彼はそっとページを開いた。

 

 走り書きと消し跡だらけの歌詞。

 ところどころインクが滲みかけている行。

 それでも、そこにははっきりと、“今日”の出来事をなぞるような言葉が並んでいた。

 

 ――独りじゃないから

 ――どんな暗闇にいたって on your side

 ――あたしは 味方

 

 黙って読み進めていた青見が、ふっと笑う気配がした。

 

「……らしいな」

 

「らしいって何よ」

 

「彩女らしいって意味だよ」

 

 ノートを閉じて、彼は真っ直ぐこちらを見る。

 

「じゃあ、俺も約束する」

 

 その言い方があまりにも真面目だったので、彩女は思わず姿勢を正した。

 

「どんな吹雪でも、彩女をひとりにはしない」

 

 さっきの斜面の感覚が、背中に蘇る。

 抱えられて、一緒に滑り降りたときの重さと、心臓の鼓動。

 

「……うん」

 

 短く返事をした瞬間、胸の奥がじわっと熱くなった。

 

 約束してほしかったのは、自分の方だ。

 鬼の血がどうであれ、怪異に近い存在であろうと、隣にいてくれるかどうか。

 

 青見はそれを、吹雪の中でも、湯上がりのこの場所でも、同じ言葉で答えてくれる。

 

 窓の外から、夜風がそっと入り込んだ。

 

 さっきまでの殺意じみた冷気ではない。

 頬を撫でても、骨まで刺さらない、乾いた冷たさ。

 

 「もう行け」と背中を押すみたいな、どこか見守るような気配が、窓ガラス越しに伝わってきた。

 

(ありがとう。もう、帰るね)

 

 心の中でだけ、山の風に向かって呟く。

 

 

     ◇

 

 

 部屋に戻ったあと、彩女はベッドの上でノートを開いた。

 

 今日の出来事を、走り書きで書き足していく。

 吹雪のこと。避難小屋のこと。折れた石碑と、途切れた足跡。

 そして、歌を歌いながら滑り降りた斜面の感覚。

 

 文字は拙くて、ところどころ誤字もある。

 それでも、ページは確かに、今日の自分の足跡だった。

 

(拙くても、真っ直ぐに重ねてきた日々は――)

 

 歌詞の一節が、頭の中で自然と続く。

 

 ――果てしなく続いたダイアリー。

 

 振り返れば、そこには整った舗装路なんてない。

 近道でもないし、綺麗な道ばかりでもない。

 膝を擦りむいたり、迷子になったり、吹雪に巻き込まれたりしながら、それでも進んできた跡。

 

 それは、どんな外なる神の冬よりも、

 “色ある世界”を証明するストーリーだ。

 

 ページの端に、小さく日付と場所を書き込む。

 

 ――一年三月 冬山スキー旅行。

 

 そして、その下にもう一行。

 

 ――on your side。

 

 彩女はペンを置き、そっと目を閉じた。

 

 窓の外で、山から下りてきた風が、一度だけカーテンを揺らす。

 それはもう、「人をさらう安達ケ原の鬼の風」でも、「歩く影を連れていく外なる神の風」でもない。

 

 ただ、眠りにつこうとしている高校生たちの夜に、少しだけ冷たさを添えていくだけの、普通の山の風だった。

 

 

 

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