ここからが、本当の「気合いを入れる時間」だった。
(……神様。いるなら今だけでいいから、先生の足をあと3センチ伸ばしてくれ)
もはや信仰に近い祈りを捧げているうちに、ようやく視界の先に開けた場所が見えてきた。
駐車場。
小さな売店と、公衆トイレと、「☆星の村へようこそ☆」の看板。
「――着きましたよー。第一チェックポイント、星の村です」
きゅ、とブレーキが踏まれ、ハイエースが止まった瞬間、東の全身の力が抜けた。
「……生きてる……」
シートベルトを外しながら、心からの実感が漏れる。
足に力が入らず、車から降りるときに一瞬よろめいた。
「大げさねぇ、青見」
後部座席から飛び降りた彩女が、ぐいっと伸びをする。
「普通に楽しかったじゃない。ね、玲子?」
「え? はい。景色、とても綺麗でした」
玲子は本当に“普通に”頷く。
窓の外の山並みを、ずっと食い入るように眺めていたのは知っている。
「ほらほら、東くん。顔色悪いから、これ飲んで」
愛香が、紙コップのスポーツドリンクを差し出してきた。
手際よく持参のジャグから注がれていて、氷まで浮いている。
「……ありがとな」
ごくごくと喉を鳴らして飲み干す。
冷たさが食道を通って、ようやく人心地がついた。
隣で、結先生が車のキーをぶんぶん振りながら言う。
「じゃあ、トイレ休憩と飲み物補給はここまでですよー。十分したらまた出発しますからねー」
「……先生」
「なんですか?」
「今なら、まだ引き返せます」
「前向きに生きましょう、東くん」
にっこり微笑みながら、容赦なくフラグを叩き折ってくる顧問である。
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休憩を終えて再び車に乗り込むと、道の様子はさらに“楽しく”なった。
舗装はされているが、先ほどよりも一回り狭い。
ガードレールの向こうの谷底は、さっきよりもさらに深い。
道路脇から伸びてくる木々の枝が、サイドミラーをかすめていく。
「先生。さっきより“なんか”狭くなってますけど」
「そうですね~。ここから先は林道扱いですから」
「言い切った!」
東の抗議をよそに、ハイエースはひたすら登る。
さっきより速度が落ちたぶん、エンジン音だけがやたらと大きく聞こえた。
「でも、星はきっと綺麗ですよ。ここまで街の灯りが少ない場所は、なかなか無いですからね」
結先生の声は、心底嬉しそうだった。
「今日のメインはペルセウス座流星群ですから。ね、三森さん」
「ええ。極大日をちょっと過ぎてますけど、条件は悪くないです」
玲子が、後部座席でメモを見ながら頷く。
「標高は約千メートル。南東方向の視界も開けていますし……」
「そこにたどり着ける保証が、今のところ無いんだよなぁ……」
東がぼそっとこぼした愚痴は、かき消されたのか、聞こえていないふりをされたのか、誰にも拾われなかった。
代わりに、背後から彩女の声が飛んでくる。
「ていうかさ。青見ってさ」
「なんだよ」
「怪異相手だと変に肝据わってるくせに、こういう“リアルな危険”には弱いよね」
「そりゃそうだろ。幽霊に突き落とされるより、ブレーキ踏み損ねた車の方が現実味あるからな」
「理屈は分かるけどさぁ……」
彩女は呆れたように笑う。
その笑い声が、少しだけ東の肩の力を抜いてくれた。
「大丈夫だよ、青見くん」
愛香が、またしても背もたれ越しに覗き込みながら言う。
「もし落ちそうになったら、わたしがそーくんに祈っとくから」
「何その遠距離祈祷……効力あるのか?」
「“なんか知らないけどギリギリ助かった”ってなるかもよ?」
「……お前、たまに怖いことさらっと言うよな」
愛香はにこにこ笑うだけだった。
悪意はない。悪意はないのだが、だからこそタチが悪い。
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どれくらい山道を登っただろうか。
体感時間では三時間、実際には三十分ほど。
ようやく、木立の切れ目から小さな開けた場所が見えてきた。
「着きましたよー。ここが今夜のキャンプ場です!」
結先生の宣言と同時に、ハイエースは広場の片隅に停まった。
見渡せば、山の斜面を切り開いた草地と、その端に並ぶ数棟の平屋ロッジ。
簡易式の炊事場と、水場。
遠くに、山の稜線と、その上に広がる青すぎる空。
振り返れば、山道は一本の細い線となって、さっきの星の村の方へと続いている。
風が、ひときわ強く吹き抜けた。
東は思わず、その場にしゃがみ込みかけ――その襟首を、後ろから彩女に掴まれた。
「ちょっと。地面にキスするのはやめなさいよ」
「いいだろ別に……文明世界の固い地面だぞ……」
「変なこと言ってる暇があったら、荷物降ろして。テント建てるんだから」
彩女が片手でスポーツバッグを肩に担ぎ、もう片方の手で東を引っ張り上げる。
「ほら、しっかり。あんた、今日の夜だって仕事あるでしょ」
「……ああ。観測機材の組み立てと、星図のチェックと、怪談の聞き役な」
「最後のは予定に入れてないんだけど」
そんなやり取りをしていると、少し離れたところで玲子が空を見上げて言った。
「――いい空です。これは、きっとよく見えますよ」
その横顔は、街の教室にいる時よりもずっと楽しそうで、どこか解き放たれたみたいに見えた。
東は、胸の奥の不安をほんの少しだけ押し込めて、大きく息を吸い込む。
山の匂い。
草の匂い。
夏の終わりの、少し乾いた風。
(……まあ、ここまで来ちまったしな)
背中で、まだエンジンの余熱が残るハイエースをちらりと振り返りながら、東は心の中で結論を出した。
(落ちるのを怖がってばっかりいても、星は見えない)
「よし。じゃあ、さっさと設営終わらせて、風呂と飯と星だ」
「それが一番青見らしいね」
彩女が、ふっと笑う。
遠く、山の向こうの空は、まだ真っ青だ。
けれど、そのずっと高いところには、もう見えない星々が、今夜の舞台の準備を始めているのかもしれない――
東はそんな、少しだけロマンチックな思考を、自分で自分にツッコミつつ打ち消して、荷物の山に向き直った。
――そのころハイエースの後部座席では、
惣一郎がひとり、何も知らずに、まだ気持ちよさそうに眠っていた。