夏の濃い緑。
木々は枝葉を伸ばし、太陽の恵みを貪欲に掻き集めている。
絡み合い、折り重なって生い茂る山々は、雹まじりの豪雨に叩かれながらも、しなやかに翠の光を保っていた。
真っ黒な雲が空を覆い隠し、山の頂さえ飲み込んでしまう。世界は薄闇に沈み、森の小道は真夜中さながらの暗さに閉ざされる。ときおり腹の底まで振るわせる雷鳴が轟き、そのたびに稲光が山々と木々を一瞬だけ白々と照らし出した。
「きゃっ!」
「もう少しだから、頑張って」
昼の中に落とし込まれた夜の道を、少年少女が足早に進んでいた。
長いポニーテールがよく似合う、目鼻立ちのはっきりした少女。
ハイティーンの平均よりも背が高く、雨に濡れた姿は、まだ若い鹿を思わせる。Tシャツはずぶ濡れで肌に張り付き、細身ながら瑞々しい曲線をあらわにし、Gパンはぐっしょりと重くなって脚にまとわりつき、一歩ごとに歩みを阻んでいた。
先導する少年も同じくハイティーンで、やはり平均より背が高い。分厚いソールのトレッキングシューズに、化繊と綿を混紡したゆったりめのズボン、吸汗速乾のシャツという山歩き仕様の格好だ。
腰のポーチから取り出したライトと、ビニールでカバーした地図とコンパスを片手で器用に扱いながら、もう一方の左手で少女の手をしっかりと握り、暗い山道を迷いなく進んでいく。
その横顔には「彼女を守らなければ」という決意が、まだ少年の線の細さを残しながらも、確かな頼もしさとして刻まれていた。
「ねぇ、おみ……少し、休もう」
少女――彩女が、少年の名を呼ぶ。
雨に打たれ、鍛えられた背中のラインをシャツ越しに浮かび上がらせる少年――青見は、振り返りもせず、握る手に力をこめる。
「ごめん。でも、もう少しだけ頑張って。避難小屋まで行けば、ゆっくり休めるから」
青見だって、本音を言えばどこかで雨をやり過ごしたかった。
自分ひとりなら、あるいは装備が十分にあれば、迷わずそうしていただろう。
だが、天文部の登山に出発する際、彩女に奪われてハイエースの荷台へ放り込まれてしまったバックパックと上着は、今ここにはない。
この装備のままでは、多少無茶をしてでも避難小屋まで辿り着かなければ、二人とも無事に下山できる自信が持てなかった。
そのことに、彩女も気づいていたのかもしれない。
一言も自分を責めず、振り返りもせず、それでも強く自分の手を握り続ける青見の背中を見つめ、やがて視線を落として、その掌を握り返す。ぐっしょりと濡れたGパンはごわついて歩きづらく、雨に晒された身体からは容赦なく熱が奪われていく。
夏の昼だというのに、彩女の肩は寒さに震えていた。
青見から装備を取り上げたことを後悔しながら――それでも自分を責めず、庇ってくれる青見に対して、嬉しさと愛しさと罪悪感がないまぜの感情となって胸の奥に渦巻く。
それがいつの間にか、微かな熱となって身体の内側から自分を温めてくれていることに、気づかずにはいられなかった。
青見の足取りは揺るがない。
迷うことなく、力強く、真っ直ぐに――昼の中の夜を、前へ前へと進んでいく。
やがて、森の中。止む気配のない雷雨の帳の向こうに、黒く、なお黒く、闇の中から浮かび上がるように山小屋の影が現れた。
二人はようやく、避難場所へと辿り着く。
きぃ――。
彩女の想像よりもずっと滑らかな音を立てて、避難小屋の扉は二人を迎え入れるように開いた。
窓から差し込む薄明かりは心許なく、室内もまだ暗い。しかし、青見のライトに照らし出された板張りの床は意外なほど綺麗で、二重ガラスの窓も頑丈そうに見える。
入口脇には「靴を脱げ」と書かれた看板。
二人はそれに従い、濡れた靴を脱いで小屋の中へ上がる。握り合った手が、寒さでこわばって思うように動かず、うまく離れないことに気づき、顔を見合わせて照れくさそうに笑った。
小屋の中央には薪ストーブが置かれている。冬場に使うのだろう。
残念ながら薪は見当たらないが、簡易トイレも設置されていて、避難小屋としては設備の整った方だろう。
「……さむ……」
室内を物珍しげに見回していた彩女は、ようやく自分の震えに気づき、奪われた体温を取り戻そうとするように、自分の身体を両腕で抱きしめた。
「青見、これから……どう……す……る……」
“の?”と続けようとした言葉は、そこで途切れる。
振り返った彩女の視界に飛び込んできたのは――服をすべて脱ぎ(パンツだけは穿いたまま)、小屋の中に張られた物干しロープに濡れた服を掛けている青見の姿だった。
「ちょ、なにいきなり裸になってんのよ!!」
「風邪ひく前に、乾かさないと。ね」
平然と言いながら、青見は腰に括りつけていた大ぶりのウェストポーチからスリーピングマットを取り出し、空気を入れて床に広げる。続けて乾いたタオルと銀色のエマージェンシーブランケットを取り出し、彩女へと差し出した。
「彩女も服脱いで、身体を拭いて、これに包まってて――」
言い終える前に、彩女の拳が青見の頬にめり込む。
「な、なに合法的に人ハダカに剥こうとしてんのよ!!」
頭ではわかっていても、羞恥が先に立った彩女の暴走だった。
それでも青見は、この年頃の少年とは思えないほどの忍耐力で言葉を飲み込み、静かに繰り返す。
「風邪……ひくから。……彩女、お願い」
ただそれだけの、真摯な気遣い。
その声音に、彩女は怯む。顔を真っ赤にしたまま、掠れた小さな声でつぶやいた。
「……あっち、向いてて……」
青見がこくりと頷き、床に腰を下ろす。
ガス缶とマウンテンストーブ、コッヘルを取り出し、水筒から水を注いで火にかける。湯気が立ち上り始めるころには、もう振り返るそぶりさえ見せない。
(……見ないのは、わかってるけどさ)
理不尽な苛立ちが胸の奥でふつふつと湧く。
だが、これ以上感情をぶつけて青見を責めるのは、自分でも耐えられないほどの罪悪感を呼び起こしそうで、彩女は黙って服を脱ぎ、手近な乾いたタオルで身体を拭き始めた。
Tシャツを脱ぎ、ズボンも脱いで、青見の真似をしてロープに掛けていく。
青見のそれが手慣れた動きで綺麗に並んでいるのに比べると、彩女の方はどうにもたどたどしく、きちんと干せているとは言い難い。
靴下も脱いで、とうとう下着姿になる。
そこで、彩女の手は止まった。
濡れた下着を身に着け続けるのが、決して気持ちのいいものではないことはよくわかっている。できることなら、全部脱いでしまいたい。
――別に、青見に見られるのは構わないんだけど……って、なに考えてんのわたしは!?
自分の思考に自分でツッコミを入れつつ、もう一度だけ青見の背中を盗み見る。
相変わらずこちらを見る気配はなく、コッヘルの中で温まっていくお湯をじっと見つめている……ようにしか見えない。
(……なんか、だんだん腹立ってきた)
たしかに、自分は平均的な男子よりも背が高くなりそうな勢いだ。胸が思うように育ってくれないのは悩みの種だが、だからといってスタイルに自信がないわけではない。脚線美には、むしろ自信がある。実際、部活中に青見がじっと見ていることだってあるのだ。
幼なじみで、小さい頃からずっと一緒にいた相手。
だけどこの状況で、こいつはわたしが裸になっても(なってないが)何も感じないのか――?
いつの間にか、ブラジャーのホックへ後ろ手で指をかけたところで、彩女はふと動きを止める。
(……頭にくる。けど、なんか、ちょっと悲しい)
自分が考えすぎなのかもしれない。
ため息をひとつ、らしくもなく吐き出してから、彩女は思考を切り替える。
(……まぁ、いいや。青見だし)
何がどう「いい」のかは、自分でもよくわからない。
それでも、そう決めてしまえば少しだけ肩の力が抜けた。
ごそごそとブラのホックを外し、右腕で胸元を隠しながら、左手でブラジャーをするりと抜き取り、ロープに掛ける。
濡れた肌を乾いたタオルで拭うと、じわりと広がる解放感にほっと息がこぼれた。
(この気持ち悪さと、この解放感……青見には、一生わからなくていい)
そんなことを心の中でぶつぶつ言いながら、彩女はアルミ蒸着のエマージェンシーブランケットを広げ、音を立てながら身体をすっぽりと包み込む。
スリーピングマットの上に腰を下ろすと、頼りないほど薄いそのシートは、それでも「体温保持率90%以上」を謳うだけあって、少しずつ身体の芯へと温もりを戻してくれるように感じられた。
思っていた以上に体力を消耗していたのだろう。
ほっと一息ついた途端、まぶたが重くなり、彩女の意識はゆっくりと揺らぎ始める。
外では、なおも雷鳴が山々を震わせていた。
雷雨は、まだ止む気配を見せない。