気を取り直して、本来の目的を思い出したオレは、四つん這いのまま応接間の扉をそっと開けた。
廊下は広い。
昼間にも一度歩いているが、改めて見ても本当に広い。
古い家の廊下といえば一間幅が普通だけど、この家は洋風建築のせいか幅がある。
……困ったな。
一間幅なら、手足を突っ張って天井に張り付くなんて芸当も出来るのに、この幅ではさすがに難しい。
うまく角が使えればいいんだけど。
立ち上がり、亀のようにのろのろと廊下の端を伝って階段へ向かう。
階段の前に立ち、そっと上をうかがった。
人間ってのは、意外と自分の「真上」と「真下」には注意を払わない。
後ろには敏感なくせに。
階段の両端に手をつき、再び四つん這いになって静かに登り始める。
古い階段が軋むのは仕方ないが、支点を左右の端に分散させてやれば、音はぐっと小さくなる。
実際、微かなきしみは感じるが、扉越しに気づかれるほどではないはずだ。
二階にたどり着いたところで、上下左右を念入りに確認し、ゆっくりと明かりの漏れていた部屋の扉へ向かう。
おあつらえ向きに、その扉は廊下の突き当たりにあった。
どきどきする。
緊張のあまり、心臓の鼓動がやかましいほど大きくなり、眩暈がする。
ドク、ドク、ドク、ドク――。
息が苦しい。
いや、呼吸すること自体を忘れているのかもしれない。
ドクドクドクドク、ドクドクドクドク――。
……うるさい。
少しは静かにしてくれ。
これじゃ落ち着けない。
これじゃ身体が動かない。
オレはポケットからカミソリを取り出し、手の甲を一筋、切った。
緊張で加減を誤ったのか、刃がスパッと通り、ピンク色の肉がのぞく。
数秒遅れて、じわりと血が滲み出した。
痛みをほとんど感じないのは、あまり良い兆候じゃない。
アドレナリンが完全に痛覚を麻痺させている証拠だ。
それでも、さっきまでより少しマシだ。
ポケットからガムを取り出し、音を立てないよう注意しながらゆっくり噛む。
ガムを噛むという行為は、心拍数を落ち着かせてくれる。
扉の前で、五分。
ようやく鼓動が落ち着き、身体が自分のものとして動かせる感覚が戻ってきた。
それを確かめると、スタンガンを口にくわえ、壁に手をついて扉の上の「死角」、廊下の角へと身を持ち上げる。
角に張り付く。
こればかりは慣れが要る。ちょっとだけ自慢の技だ。
鬼ごっこやかくれんぼでは、随分と重宝した。
惣一郎は「動ける方が早い」と言ってこういうのはやらないから出来ない。
オレはこういう、意表を突くアクションが結構好きだ。
張り付いたまま、足先で扉を「コン」とノックする。
……気づかない。
もう一度、少し強めにノック。
部屋の中で何かが動く気配。テレビの音量が絞られ、
「……先生?」
扉越しに、雅之の訝しげな声がした。
いいぞ。小西は留守。
二人同時がキツいとは言わないけれど、一人ずつの方が話は早い。
さあ、開けろ。
今すぐ開けろ。
がちゃり、と鍵の開く音。
扉がゆっくりと開いた。
「……先生?」
廊下をのぞき込む雅之。
真上にいるオレからは、やつの旋毛までよく見える。
オレの方は完全に死角。
その瞬間――
オレは天井から落ちた。
「――おまっ!!」
叫びかけた雅之が、声を出し終えるより早く、左手でやつの頭を押さえつけ、右手に持ち替えたスタンガンを首筋に押し当てる。
バチッ――!
絶縁体である空気をねじ伏せ、電流が走る音が廊下に短く響いた。
崩れ落ちる雅之を放置し、オレはスタンガンを構えたまま部屋へ飛び込む。
そこは、小さな書き物机の置かれた、さっぱりした来客用の部屋らしい。
床には、雅之が持ち込んだと思しきテレビ。
奥の扉を開けると寝室がある。
飛び込んで、上下左右を一気に確認。
誰もいない。
居間と寝室を結ぶ短い通路、その左右の扉も開ける。
片方はトイレ、もう片方はドレッサー。
やはり、誰もいない。
それだけ確認すると、オレは再び廊下に戻った。
首筋にスタンガンを食らった雅之は、床の上でまだ痙攣まじりにもだえている。
押し付けた部分の皮膚は火傷しているようだ。
……少し、やり過ぎたかもしれないが、人間を一発で気絶させるのは難しいんだ。
運が悪かったと思って諦めてくれ。
しばらくはまともに動けないだろうが、オレはウェストポーチからパラコードを取り出し、適当な長さに切って手足を縛り上げ、そのまま廊下に転がした。
縄抜けも、ガラスを拾って切ることも――(多分)不可能な縛り方だ。
こういう時、インターネットって本当に便利だと、しみじみ思う。
……まあ、我ながら間違った活用方法だってことくらいは分かってるけどさ。