雷鳴がひときわ大きく響いたあと、ふっと小屋の中が静かになった気がした。
振り返らなくてもわかる。
エマージェンシーブランケットに包まった彩女は、その場で座ったまま、こくりこくりと舟を漕ぎ、いつの間にか寝息を立て始めていた。
(……よく、その体勢で寝られるよな)
壁にもたれているとはいえ、膝を抱えたような恰好で、ぐらりとも倒れない。
体育館でいつも当たり前みたいにバランス技をこなしている姿を思い出し、青見は妙なところで感心した。
ライトの灯りを少しだけ向けて、そっと寝顔を盗み見る。
濡れた前髪が頬に張りつき、唇がわずかに開いている。いつも強気で振り回してくるくせに、眠っている時だけは年相応――いや、それより少し幼く見える。
じっと見つめているうちに、胸の奥がじんわりと温かくなっていく。
「…………」
その瞬間、ぱちり、と彩女のまつげが震えた。
「……なに、人の顔じっと見てんのよ」
目が合った。
低く掠れた声に、青見は慌ててライトをそらす。
「いや、その……ちゃんと起きてるかなって確認しただけ」
「ふーん? ……むにゃ……」
疑わしげに睨んだあと、眠気には勝てないのか、彩女はあくびを噛み殺してブランケットの中で小さく丸くなる。
その頬が、ほんの少し紅くなっているように見えて、今度は青見の方が視線のやり場に困った。
「ほら、起きたついでに。少しは温まれそうだぞ」
話題を変えるようにして、青見はコッヘルから湯気の立つ液体をブリキのカップに注いだ。
ふわりと立ちのぼる甘い匂いに、彩女の目がかすかに見開かれる。
「……コンポタ?」
「うん。インスタントだけどな。こういうときのための文明の利器」
一口、そっと口に運ぶ。
とろりとしたスープが舌の上を滑り、冷えきった胃の底にじんわりと落ちていく。
「……あったか……」
思わず漏れた自分の声が子どもっぽくて、青見は苦笑した。
彩女もカップを両手で包み込むように持ち、慎重に一口すする。肩から少し力が抜けて、ほうっと長い息を吐いた。
「……あ、駄目。なんか、寒さ思い出してきた」
スープで神経が戻った分、逆に身体の芯の冷えをはっきり自覚してしまったのだろう。
彩女はぶるりと身を震わせ、ブランケットをきゅっと首元まで引き寄せた。
そんな彩女の前で、青見はコンポタを飲み干して空のカップを置き、また掌を合わせて押したり引いたりと動かし始める。
「……ねぇ、青見」
「ん?」
「寒くないの?」
「大丈夫。ほら、こうして動いてれば――」
言いかけて、手がわずかに震えていることに自分で気づき、青見は慌てて指を組み直した。
その様子を、彩女がじっと見ている。
「……ウソ。唇、紫になってる」
「気のせいだって」
「気のせいじゃない」
じり、と床板が鳴る。
彩女が寝ていた場所から少し身を乗り出し、ブランケットの端をぎゅっと握りしめたまま、こちらを見上げてくる。
「……こっち、来れば?」
「は?」
「一枚しかないんだから、シェアするの。山の本にもそう書いてあるでしょ。『体温を分け合って――』」
そこまで言って、彩女は自分で真っ赤になった。
「~~~っ、あーもう! 言わせないでよ、バカ!」
ブランケットがばさりと持ち上げられ、中がちらりと見えかけて、青見は慌てて視線をそらした。
「いや、その……彩女が寒くないなら、それで――」
「寒いわよ。でも、それ以上に……」
そこで言葉を切り、彩女は一度唇を噛んでから、正面から青見を見上げた。
「……他の男の子とだったら、こんなこと、絶対しない。
風邪引いて熱出して倒れた方がマシ。――あんたじゃなきゃ、嫌」
一拍遅れて、雷鳴が山を揺らした。
しかし、小屋の中では、二人分の鼓動の方がずっと大きく聞こえていた。
「青見は?」
問われて、青見は一瞬、言葉を失う。
「……オレ?」
「そう。あんた。他の子だったら、どうするの?」
少し考えてから、彼は静かに首を振った。
「……他の子とだったら、きっと、意地張って我慢する。
『平気だ』って言い張って、震えてても誤魔化して……たぶん、最後までカッコつけようとする」
「じゃあ、どうしてわたしには、隠さないの」
その問いに、答えはすぐに見つかった。
「彩女はさ」
言いながら、自分でも驚くほど自然に言葉が出てきた。
「楽しいときも、嬉しいときも、寂しいときも、悲しいときも――
いつだって、オレのそばにいてくれたろ。
姉さんぶって、意地張ってさ。それでも、手ぇ離さないでいてくれた」
掌のぬくもりを、何度も思い出す。
喧嘩も、泣き顔も、笑い声も。
「オレは、一人じゃないって。人を想うって、こんなに温かいんだって、教えてくれたのは彩女だから。
だから、彩女の前でだけは、意地張りたくないんだ。
嘘つきたくない。――寒いって聞かれて、頷いたのは、そういうこと」
「……寒かったから?」
「寒かったよ。けど……」
そこで一度言い淀み、青見は逃げずに彩女の瞳を見つめ返した。
「本当は、彩女のそばに行きたかったから。
触れて、抱きしめて、彩女をちゃんと感じたかったから。
……誰でもない、彩女が欲しいって、思ったから」
言ってしまったあと、静寂が落ちる。
雷鳴さえ、一瞬遠くなったように感じられた。
彩女の肩が、わずかに震えた。
「……バカ」
ぽつりと漏れた声は、責める響きよりもずっと、弱くて震えていた。
「わたしは……わたしは、あんたに何もしてやれなかったのに。
あんたが辛いときも、泣きたいときも、何にもしてやれなかったのに」
「そんなこと――」
「ある!」
食い気味の否定に、青見の言葉が止まる。
「手、握っててくれた。
声をかけてくれた。
喧嘩の相手もしてくれた。
わたしがわたしでいられるように、いつも一緒にいてくれた。
――信じてて、くれた」
ぽつり、ぽつりと、言葉と一緒に何かが零れているのがわかった。
ライトに照らされた彩女の頬が、ほんの少し濡れている。
「これ以上、何を望むのよ。
バカ……どうしてそんなに優しいの。
辛いのはあんたの方で、泣きたいのだってあんたの方なのに……どうして、人に優しく出来るのよ」
答えは、もうとっくに自分の中にあった。
「オレが辛い分、彩女がオレに優しくしてくれたからだよ。
オレが泣かない分、彩女が泣いてくれるから。
それが、オレには、すごく嬉しかったから――
だから、多分、オレも人に優しく出来るんだと思う」
彩女は、ぐっと唇を噛んだ。
そのまま、ブランケットの裾をぎゅっと握りしめ、ちらりと青見を見上げる。
そして、ほんの少しだけ身を乗り出し――
「……バカ」
さっきよりも近い距離で、もう一度、同じ言葉を落とす。
そのままそっと瞳を閉じた。
合図などなくても、十分すぎる答えだった。
青見は、ごくりと喉を鳴らし、ゆっくりと顔を近づける。
雨音も、雷鳴も、何も聞こえなくなる。聞こえるのは、自分と彩女の心臓の音だけだ。
触れるか触れないかのところで、一瞬だけ迷い――
意を決して、そっと唇を重ねた。
短く、けれど確かな口づけだった。
唇が離れたあと、彩女は息を整えながら、震える声で言う。
「こんな……こんなドキドキすること、はじめてなんだから、ね」
「……知ってるよ」
自然と、笑みがこみ上げる。
「彩女のことは、ずっと見てたから」
「……スケベ」
拗ねたように、でもどこか嬉しそうに、彩女は視線をそらした。
その表情がどうしようもなく愛しくて、青見は衝動のまま、もう一度そっと彩女を抱き寄せる。
ブランケットの中で、二人の身体が寄り添う。
彩女の肩が触れ、腕が触れ、わずかに脇腹に柔らかな感触が押し当てられ――それでも、青見はぎゅっと奥歯を噛みしめ、ただその温もりを全身で受け止めた。
「……一緒なら、どんな寒さでも我慢できそうだな」
「なによ、それ」
「本音」
「……そ。なら、ちゃんと温めなさいよ、青見」
そう言って、彩女は少しだけ身を預けてきた。
青見はその体温を、まるで宝物のように大事に抱きしめる。
外では、まだ雷雨が山を叩き続けている。
けれど、一枚のブランケットの下で寄り添う二人の世界は、確かに少しずつあたたかくなっていた。