なんちゃってクトゥルフ小説   作:ぶーく・ぶくぶく

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雨の中5

◆キャンプ場・夕方

 

 雨が上がったばかりのキャンプ場は、しっとりとした土と濡れた草の匂いに包まれていた。

 

 タープの端から、まだ細かな雫がぽたり、ぽたりと落ちている。

 その下で、青見は炊事場のかまどに火を起こし、彩女はテーブルの上に紙皿やカトラリーを並べていた。

 

「……こんなもんかな」

 

 鍋の中では、切っておいた野菜とルーがとろりと溶け始めている。

 薪の火は安定し、湯気と一緒にカレーの匂いが立ちのぼる。

 

「先生たち、ちゃんと避難小屋入れてるよね」

 

 テーブルにラップをかけながら、彩女がぽつりとつぶやいた。

 

「入れてるよ」

 

 そう答えながらも、青見も時々、登山道の方へ視線を向けてしまう。

 雨脚が弱まってから、もうしばらく経っている。

 

「俺たちのケルン、気づいてくれてるといいけど」

 

「結先生だもん、絶対気づくって」

 

 そう言ってみせるものの、彩女の指先にも、ほんの少しだけ落ち着きのない震えが混じっていた。

 

 ――そのときだった。

 

「――あっち、明るくない?」

 

 彩女が顔を上げる。

 林道の先、薄闇の向こうに、ヘッドランプの光がいくつも揺れていた。

 

「先生たちだ!」

 

 二人同時に、ほっとするより先に駆け出していた。

 

 濡れた砂利道を駆け下りてきたのは、レインウェア姿の四人――結先生、惣一郎、愛香、玲子だった。

 息を弾ませて足を止め、青見たちの姿を認めた瞬間、その表情が一気に緩む。

 

「二人とも――無事だった?」

 

 結先生の問いかけは簡潔だったが、声には安堵が滲んでいる。

 

「ケルン見て、無事なのはわかっていましたけど……姿を見て安心しました」

 

 愛香も胸に手を当てて、ほうっと息を吐いた。

 

「すみません。先に下りちゃって」

 

「ごめんなさい。心配かけて」

 

 青見と彩女が揃って頭を下げると、その横から惣一郎がずいっと顔を突っ込んでくる。

 

「で、“熱い時間”は……なんだ、なんもしなかったのか。

 お前にはがっかりだぜ、青見」

 

「お前なぁ……」

 

 いきなり変な方向から話題をぶん投げられ、青見は額を押さえた。

 

「遭難する一歩手前だったのに、そんなことするわけないだろ」

 

「真面目か!」

 

「真面目だよ」

 

 即答に、惣一郎は「ちぇっ」とわざとらしく肩を落とす。

 玲子が苦笑し、愛香が「もう……」と頬を赤くする横で、彩女は真っ赤になってそっぽを向いた。

 

「……そ、その話、広げないでよ」

 

「広げるほど中身もなかったようで、先生は安心しましたよ」

 

 結先生が、苦笑する。

 

「でも、無事にここまで戻ってこられたのは何よりです。

 あとは、風邪をひかないように温まりましょう」

 

「先に夕食の用意はしてたから」

 

 彩女が、少し誇らしげに胸を張る。

 

「先生たちも後から急いできたでしょうから、疲れたでしょう?

 すぐ食べられるようにしておいたから、荷物置いて、手洗ってきて」

 

「……ありがとうございます」

 

 結先生は素直に頭を下げた。

 

 タープの下では、カレーの湯気と焚き火の煙が混じり合い、濡れた空気を少しずつあたためていく。

 さっきまで山の中で張り詰めていた緊張は、四人の到着と、六人分の笑い声に溶かされていった。

 

 雨上がりのキャンプ場に、ようやく「無事に帰ってきた一行」の空気が満ち始めていた。

 

 

/*/

 

 

 惣一郎が言う。

「まーでも、彩女も青見の準備が大袈裟ってバカにしてただろ? “修学旅行じゃないんだから~”とか言ってさ」

 

「ちょ、なんでそこでそれ言うのよ!?」

 

 図星を突かれて、彩女の声が一オクターブ跳ね上がる。

 さっきまでのしおらしさはどこへやら、頬を真っ赤にして惣一郎を睨みつけた。

 

「だって事実だろ? 出発前さ、バックパックひったくってハイエースに放り投げてたの、俺見てたし」

 

「見てなくていいとこ見てんじゃないわよあんたは!」

 

 拳が飛ぶ前に、愛香が慌てて割って入る。

 

「ま、待って待って彩女ちゃん! ここで殴るのはやめよう!? せっかく無事に帰ってきたんだし!」

 

「そうだぞ、殴るなら明日の自由時間にだな――いてっ!」

 

 玲子のチョップが惣一郎の後頭部にクリーンヒットした。

 

「いい加減にして下さい。反省会してるんだから、煽らない」

 

「反省会ってほどのもんでもないけどさ」

 

 青見は苦笑しながら、焚き火の火を少しだけいじる。

 パチッと弾けた火の粉が、暗くなりかけた空に上っていった。

 

「準備が大袈裟だったのは、まあ事実だし」

 

「お、やっと自覚を――」

 

「でも、あのエマージェンシーブランケットなかったら、わりと本気でヤバかったよ」

 

 その一言に、惣一郎の口が「へ」の字で止まった。

 

「……あ、マジで?」

 

「マジだよ。服びしょ濡れで、体温どんどん持ってかれてさ。

 あれ一枚でだいぶ違った」

 

 青見が淡々と言うたび、彩女の肩が小さく跳ねる。

 

「……ごめん」

 

 ぽつりとこぼれた言葉に、みんなの視線が集まった。

 

「そもそも荷物取り上げたの、わたしだし。

 “そんなに要らないでしょ”とか“オタク登山グッズ”とか、好き勝手言って……ごめん」

 

「オタク登山グッズって言ってたのかお前」

 

「部長、黙って」

 

 玲子の視線がナイフのように鋭くなり、惣一郎は即座に口をつぐむ。

 

 青見は、しばらく焚き火を見つめたあと、肩をすくめた。

 

「彩女だけのせいじゃないよ。

 あの時、俺も“まあいいか”って譲っちゃったし。山で“まあいいか”はダメだって、わかってたはずなのにな」

 

「青見くん……」

 

「だから、次からはさ」

 

 顔を上げて、青見は彩女を見る。

 

「準備が大袈裟かどうかは、山じゃなくて下で議論しよう」

 

「……なにそれ」

 

「山に入ったら、もう文句言わない。文句言う前に、ちゃんと使う」

 

 一瞬、彩女はきょとんとした表情になり――やがて、ふっと口元を緩めた。

 

「……わかった。

 今度から、青見が“必要”って言ったものには、文句言わない。たぶん。……なるべく」

 

「“なるべく”が長いな」

 

 惣一郎がぼそっと突っ込むと、今度は本当にパンチが飛びそうになり、愛香と玲子が両側から彩女を抑え込んだ。

 

「はいはい、そこまで」

 

 結先生が、パン、と手を叩く。

 

「原因は、今ので十分わかりました。

 『山をなめたらダメ』『準備は大事』『エマージェンシーブランケットは神』――この三つでよろしいですね?」

 

「最後だけ雑じゃないですか先生」

 

「でも反論はできないですね……」

 

 玲子が苦笑し、彩女も小さく頷いた。

 

「その代わり」と、結先生は続ける。

 

「今回はちゃんと退避して、無理な行動も取らず、ケルンで無事のサインも残してくれました。

 そこはしっかり、合格点です。――よく頑張りました」

 

 その言葉に、青見と彩女は顔を見合わせ、同時に「はい」と返事をした。

 

「じゃあ、あとは――」

 

 惣一郎の鼻が、鍋の匂いを追ってひくひくと動く。

 

「反省より先に飯だろ! なぁ先生!」

 

「……まったく。

 ――では、夕食にしましょうか。今日は“無事に帰ってこられたこと”に感謝して、いただきます」

 

「「「「いただきます!」」」」

 

 焚き火のそばで、みんなの声が重なる。

 

 雨に打たれて冷えた身体を、あたたかいカレーと笑い声が、ゆっくりと内側から溶かしていった。

 

 

/*/

 

 

夕食も片づけを終え、あとはテントで寝るだけ――という頃。

 

タープの外では、結先生がハイエースの鍵をくるくると指で回しながら、明日の下山と帰路の段取りを確認していた。

 

「じゃあ、明日は天気を見て、予定どおり午前中に撤収して……」

 

「結先生」

 

 青見が、少し遠慮がちに声をかける。

 

(……来るときの恐怖体験、再びかもしれないけど)

 

 結先生は小柄だ。

 ハイエースの運転席に座ると、アクセルとブレーキに足が“ぎりぎり届いてます”感がすごい。

 思い出しただけで、青見は遠い目になった。

 

「帰り、山の下までは俺、運転しますよ」

 

「……はい?」

 

 結先生が、思わずまばたきをする。

 

 その横で、会話を聞いていた惣一郎の口元がニヤリと吊り上がった。

 

「出たよ、“頼れる男アピール”」

 

「うるさい」

 

 青見は軽く肘でつつき返し、改めて結先生と向き合う。

 

「いや、その……先生、今日はずっと気を張ってたでしょうし。

 運転も長いですし、少しでも楽になればと思って」

 

 真面目な申し出に、結先生は一瞬だけ表情を和らげ――それから、きっちりと“教師の顔”に戻った。

 

「ダメですよ、東くん」

 

「え」

 

「日本では、普通自動車を運転できる年齢は“18歳以上”って決まっています。

 ちゃんと知ってますよね?」

 

「……はい」

 

 即答できず、青見はほんの少しだけ目をそらした。

 

「それに、国際条約でも、自動車を運転するための最低年齢は基本的に18歳以上って定められているんです。

 ジュネーブ条約――教科書で、見たことくらいはあるでしょう?」

 

「教科書で……ちょっとだけ」

 

「その“ちょっとだけ”を、もう少しちゃんと覚えておきましょう」

 

 結先生は、軽くため息をつきながらも、どこか楽しげな口調で続ける。

 

「気持ちはありがたいです。でも、東くんは“無事に生徒として家まで帰る”ところまでが仕事。

 運転は、大人である私の仕事です。――これは譲れません」

 

「……はい」

 

 青見は、素直に頭を下げた。

 

「真面目か」と惣一郎が囁きかけてきたが、今回はさすがに小声だった。

 

「でも、先生」

 

 今度は彩女が口を挟む。

 

「青見がそういうこと言うようになったの、ちょっとわかる気がします。

 今日も、だいぶ助けられましたし」

 

「……そうね」

 

 結先生は、しばし二人の顔を見比べ、それからふっと笑った。

 

「じゃあ、こうしましょう」

 

「こう?」

 

「東くんが18歳になって、ちゃんと免許を取ったら――そのときは、どこかの合宿で“先生の送迎役”を任せてあげます」

 

「マジですか」

 

「約束したわよ?」

 

「……頑張ります」

 

 本気の顔でそう答える青見に、惣一郎が肩を揺らして笑う。

 

「いやそこ、“頑張る”ポイントそこなの?」

 

「うるさいって」

 

 焚き火が、ぱちんと小さく弾ける。

 

 まだ少し湿り気の残る夏の夜の空気の中で、笑い声と火の粉だけが、静かに明日の晴れ間へ向かって昇っていった。

 

 

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