◆キャンプ場・夕方
雨が上がったばかりのキャンプ場は、しっとりとした土と濡れた草の匂いに包まれていた。
タープの端から、まだ細かな雫がぽたり、ぽたりと落ちている。
その下で、青見は炊事場のかまどに火を起こし、彩女はテーブルの上に紙皿やカトラリーを並べていた。
「……こんなもんかな」
鍋の中では、切っておいた野菜とルーがとろりと溶け始めている。
薪の火は安定し、湯気と一緒にカレーの匂いが立ちのぼる。
「先生たち、ちゃんと避難小屋入れてるよね」
テーブルにラップをかけながら、彩女がぽつりとつぶやいた。
「入れてるよ」
そう答えながらも、青見も時々、登山道の方へ視線を向けてしまう。
雨脚が弱まってから、もうしばらく経っている。
「俺たちのケルン、気づいてくれてるといいけど」
「結先生だもん、絶対気づくって」
そう言ってみせるものの、彩女の指先にも、ほんの少しだけ落ち着きのない震えが混じっていた。
――そのときだった。
「――あっち、明るくない?」
彩女が顔を上げる。
林道の先、薄闇の向こうに、ヘッドランプの光がいくつも揺れていた。
「先生たちだ!」
二人同時に、ほっとするより先に駆け出していた。
濡れた砂利道を駆け下りてきたのは、レインウェア姿の四人――結先生、惣一郎、愛香、玲子だった。
息を弾ませて足を止め、青見たちの姿を認めた瞬間、その表情が一気に緩む。
「二人とも――無事だった?」
結先生の問いかけは簡潔だったが、声には安堵が滲んでいる。
「ケルン見て、無事なのはわかっていましたけど……姿を見て安心しました」
愛香も胸に手を当てて、ほうっと息を吐いた。
「すみません。先に下りちゃって」
「ごめんなさい。心配かけて」
青見と彩女が揃って頭を下げると、その横から惣一郎がずいっと顔を突っ込んでくる。
「で、“熱い時間”は……なんだ、なんもしなかったのか。
お前にはがっかりだぜ、青見」
「お前なぁ……」
いきなり変な方向から話題をぶん投げられ、青見は額を押さえた。
「遭難する一歩手前だったのに、そんなことするわけないだろ」
「真面目か!」
「真面目だよ」
即答に、惣一郎は「ちぇっ」とわざとらしく肩を落とす。
玲子が苦笑し、愛香が「もう……」と頬を赤くする横で、彩女は真っ赤になってそっぽを向いた。
「……そ、その話、広げないでよ」
「広げるほど中身もなかったようで、先生は安心しましたよ」
結先生が、苦笑する。
「でも、無事にここまで戻ってこられたのは何よりです。
あとは、風邪をひかないように温まりましょう」
「先に夕食の用意はしてたから」
彩女が、少し誇らしげに胸を張る。
「先生たちも後から急いできたでしょうから、疲れたでしょう?
すぐ食べられるようにしておいたから、荷物置いて、手洗ってきて」
「……ありがとうございます」
結先生は素直に頭を下げた。
タープの下では、カレーの湯気と焚き火の煙が混じり合い、濡れた空気を少しずつあたためていく。
さっきまで山の中で張り詰めていた緊張は、四人の到着と、六人分の笑い声に溶かされていった。
雨上がりのキャンプ場に、ようやく「無事に帰ってきた一行」の空気が満ち始めていた。
/*/
惣一郎が言う。
「まーでも、彩女も青見の準備が大袈裟ってバカにしてただろ? “修学旅行じゃないんだから~”とか言ってさ」
「ちょ、なんでそこでそれ言うのよ!?」
図星を突かれて、彩女の声が一オクターブ跳ね上がる。
さっきまでのしおらしさはどこへやら、頬を真っ赤にして惣一郎を睨みつけた。
「だって事実だろ? 出発前さ、バックパックひったくってハイエースに放り投げてたの、俺見てたし」
「見てなくていいとこ見てんじゃないわよあんたは!」
拳が飛ぶ前に、愛香が慌てて割って入る。
「ま、待って待って彩女ちゃん! ここで殴るのはやめよう!? せっかく無事に帰ってきたんだし!」
「そうだぞ、殴るなら明日の自由時間にだな――いてっ!」
玲子のチョップが惣一郎の後頭部にクリーンヒットした。
「いい加減にして下さい。反省会してるんだから、煽らない」
「反省会ってほどのもんでもないけどさ」
青見は苦笑しながら、焚き火の火を少しだけいじる。
パチッと弾けた火の粉が、暗くなりかけた空に上っていった。
「準備が大袈裟だったのは、まあ事実だし」
「お、やっと自覚を――」
「でも、あのエマージェンシーブランケットなかったら、わりと本気でヤバかったよ」
その一言に、惣一郎の口が「へ」の字で止まった。
「……あ、マジで?」
「マジだよ。服びしょ濡れで、体温どんどん持ってかれてさ。
あれ一枚でだいぶ違った」
青見が淡々と言うたび、彩女の肩が小さく跳ねる。
「……ごめん」
ぽつりとこぼれた言葉に、みんなの視線が集まった。
「そもそも荷物取り上げたの、わたしだし。
“そんなに要らないでしょ”とか“オタク登山グッズ”とか、好き勝手言って……ごめん」
「オタク登山グッズって言ってたのかお前」
「部長、黙って」
玲子の視線がナイフのように鋭くなり、惣一郎は即座に口をつぐむ。
青見は、しばらく焚き火を見つめたあと、肩をすくめた。
「彩女だけのせいじゃないよ。
あの時、俺も“まあいいか”って譲っちゃったし。山で“まあいいか”はダメだって、わかってたはずなのにな」
「青見くん……」
「だから、次からはさ」
顔を上げて、青見は彩女を見る。
「準備が大袈裟かどうかは、山じゃなくて下で議論しよう」
「……なにそれ」
「山に入ったら、もう文句言わない。文句言う前に、ちゃんと使う」
一瞬、彩女はきょとんとした表情になり――やがて、ふっと口元を緩めた。
「……わかった。
今度から、青見が“必要”って言ったものには、文句言わない。たぶん。……なるべく」
「“なるべく”が長いな」
惣一郎がぼそっと突っ込むと、今度は本当にパンチが飛びそうになり、愛香と玲子が両側から彩女を抑え込んだ。
「はいはい、そこまで」
結先生が、パン、と手を叩く。
「原因は、今ので十分わかりました。
『山をなめたらダメ』『準備は大事』『エマージェンシーブランケットは神』――この三つでよろしいですね?」
「最後だけ雑じゃないですか先生」
「でも反論はできないですね……」
玲子が苦笑し、彩女も小さく頷いた。
「その代わり」と、結先生は続ける。
「今回はちゃんと退避して、無理な行動も取らず、ケルンで無事のサインも残してくれました。
そこはしっかり、合格点です。――よく頑張りました」
その言葉に、青見と彩女は顔を見合わせ、同時に「はい」と返事をした。
「じゃあ、あとは――」
惣一郎の鼻が、鍋の匂いを追ってひくひくと動く。
「反省より先に飯だろ! なぁ先生!」
「……まったく。
――では、夕食にしましょうか。今日は“無事に帰ってこられたこと”に感謝して、いただきます」
「「「「いただきます!」」」」
焚き火のそばで、みんなの声が重なる。
雨に打たれて冷えた身体を、あたたかいカレーと笑い声が、ゆっくりと内側から溶かしていった。
/*/
夕食も片づけを終え、あとはテントで寝るだけ――という頃。
タープの外では、結先生がハイエースの鍵をくるくると指で回しながら、明日の下山と帰路の段取りを確認していた。
「じゃあ、明日は天気を見て、予定どおり午前中に撤収して……」
「結先生」
青見が、少し遠慮がちに声をかける。
(……来るときの恐怖体験、再びかもしれないけど)
結先生は小柄だ。
ハイエースの運転席に座ると、アクセルとブレーキに足が“ぎりぎり届いてます”感がすごい。
思い出しただけで、青見は遠い目になった。
「帰り、山の下までは俺、運転しますよ」
「……はい?」
結先生が、思わずまばたきをする。
その横で、会話を聞いていた惣一郎の口元がニヤリと吊り上がった。
「出たよ、“頼れる男アピール”」
「うるさい」
青見は軽く肘でつつき返し、改めて結先生と向き合う。
「いや、その……先生、今日はずっと気を張ってたでしょうし。
運転も長いですし、少しでも楽になればと思って」
真面目な申し出に、結先生は一瞬だけ表情を和らげ――それから、きっちりと“教師の顔”に戻った。
「ダメですよ、東くん」
「え」
「日本では、普通自動車を運転できる年齢は“18歳以上”って決まっています。
ちゃんと知ってますよね?」
「……はい」
即答できず、青見はほんの少しだけ目をそらした。
「それに、国際条約でも、自動車を運転するための最低年齢は基本的に18歳以上って定められているんです。
ジュネーブ条約――教科書で、見たことくらいはあるでしょう?」
「教科書で……ちょっとだけ」
「その“ちょっとだけ”を、もう少しちゃんと覚えておきましょう」
結先生は、軽くため息をつきながらも、どこか楽しげな口調で続ける。
「気持ちはありがたいです。でも、東くんは“無事に生徒として家まで帰る”ところまでが仕事。
運転は、大人である私の仕事です。――これは譲れません」
「……はい」
青見は、素直に頭を下げた。
「真面目か」と惣一郎が囁きかけてきたが、今回はさすがに小声だった。
「でも、先生」
今度は彩女が口を挟む。
「青見がそういうこと言うようになったの、ちょっとわかる気がします。
今日も、だいぶ助けられましたし」
「……そうね」
結先生は、しばし二人の顔を見比べ、それからふっと笑った。
「じゃあ、こうしましょう」
「こう?」
「東くんが18歳になって、ちゃんと免許を取ったら――そのときは、どこかの合宿で“先生の送迎役”を任せてあげます」
「マジですか」
「約束したわよ?」
「……頑張ります」
本気の顔でそう答える青見に、惣一郎が肩を揺らして笑う。
「いやそこ、“頑張る”ポイントそこなの?」
「うるさいって」
焚き火が、ぱちんと小さく弾ける。
まだ少し湿り気の残る夏の夜の空気の中で、笑い声と火の粉だけが、静かに明日の晴れ間へ向かって昇っていった。