不気味に、背筋を指でなぞられたみたいな感覚だった。
(……誰かに見られてる?)
青見は立ち止まりかけて、すぐ前を歩く彩女の背中にぶつかりそうになって慌ててブレーキをかけた。
「ちょ、ちょっと青見?」
「あ、ごめん」
ヘッドライト代わりのヘルメットのライトが、彩女の濡れたショートパンツとふくらはぎを照らして、白い肌に水滴がきらりと光る。
足首まで浸かった地下水は、夏だというのに冷たくて、じわじわと体温を奪ってくる。
「おー……探検って感じだなぁ」
前の方で惣一郎が感嘆の声を上げる。
「ゲームだったら、ここで絶対イベント発生するよね。ボス出るとかさ」
「やめてください、惣くん。そういうこと言うとほんとに出そうなんですけど」
愛香が苦笑しながら、胸の前にランタンを抱え直した。揺れる灯りが、天井の鍾乳石を不気味な影に変えていく。
「蛇水鍾乳洞にはですねー」
結先生が、わざとらしく声のトーンを落として振り返る。
「昔から“蛇水さま”っていう水の神様が住んでるって言い伝えがありまして。悪いことしてる子が来ると――」
「先生、そういうのは外で言ってくださーい!」
玲子が即座に抗議の声を上げた。小柄な身体で水をちゃぱちゃぱ蹴りながら、必死に結先生の背中にくっついている。
「こわいの苦手?」
「べ、別に……得意でもない、くらいです!」
わっと笑いが起きて、さっきまでの妙な気配が少し薄れた気がした。
けれど――どこか、青見の中では引っかかっている。
(……やっぱり、誰かに見られてる)
後ろを振り返る。ライトに照らされるのは、入口の方へ続くゆるやかな闇と、時おり天井から落ちる水滴だけだ。
人の気配はない。最後尾は自分だ。
「青見、どうしたの?」
すぐ後ろについていた彩女が、心配そうに顔を覗き込んでくる。
「いや……なんでもない」
言いながら、足下の水を蹴ってごまかす。
ちゃぷん、と音が洞窟に響いて、少しだけ自分を落ち着かせた。
やがて、先頭の結先生が立ち止まる。
「はーい、ここからが“胎内くぐり”ですよー。狭いので、一人ずつ順番にね。荷物は体の前に抱えるか、押していってくださーい」
岩の隙間が、まるで誰かの体の中へと続いているかのように、ぐにゃりと曲がって空いている。
腰をかがめて覗き込むと、先は膝立ち、ところによってはほふく前進になりそうだ。
「わ、ほんとに狭い……」
彩女がごくりと唾を飲む。
「楽しそうじゃん。玲子、先行くか?」
「え、えええ……部長、先行ってくださいよ! なんでそこで私を盾にしようとしてるんですか!?」
「いやほら、小柄だから通りやすいかなって」
「そういう問題じゃないです!」
結局、順番は――結先生を先頭に、惣一郎、玲子、彩女、愛香、最後尾が青見、という形になった。
「一番大きい青見くんは後ろからね。もし引っかかっても、引っ張り出しやすいから」
「了解です……」
順番に狭い入口へと吸い込まれていく。
前の惣一郎のライトが岩肌を照らし、そのさらに先で結先生の灯りが揺れている。
「よいしょ、よいしょ……あ、思ったほどいける」
惣一郎の声が、岩のトンネルの中を反響してくる。
「ほら、玲子も大丈夫」
「わ、わかってるもん……!」
玲子も続き、その背中が闇の向こうへ消えた。
彩女が振り返る。
「……行ってくる」
「おう。頭、ぶつけんなよ」
「子供扱いしないで」
そう言いつつ、彩女はヘルメットに手をやり、慎重に身を滑り込ませていった。
愛香が小さく息を吐く。
「じゃ、行こっか、青見くん」
「おう」
二人も岩の口へと腰を落とす。
最初は四つん這い、すぐに腹ばいに近い姿勢にならないと前に進めないほど、天井が低くなる。
ごり、とヘルメットが岩に擦れた。
「ぐっ……」
「わっ、大丈夫?」
「だから言ったろ、一番デカいのが後ろって。……くそ、これ以上太れねぇな」
冗談めかして言いながらも、天井と床に挟まれる圧迫感に、知らず知らず呼吸が浅くなる。
前に進むたび、胸の下で冷たい水がじょりじょりと服を濡らしていく。
狭い。暗い。逃げ場がない。
(……こういうの、苦手なやつは、本気でパニックになるんだろうな)
そんなことを考えた瞬間――
また、あの視線を感じた。
今度は、背中ではなく足首のあたり。
水の中から、じっと睨まれているような、冷たい何か。
(……魚? じゃないよな)
ぞくり、として振り返ろうとしたが、この体勢では上半身を捻るのが難しい。
仕方なく、片脚だけ引いてみる。
ぬ、と水の中で、何か硬いものを踏んだ感触があった。
石にしては、妙に細長い。
「――っ」
反射的に足を引いた瞬間、その“何か”が、するりと足首に絡みつこうとした気がした。
同時に、背中にぺたりと柔らかいものが触れる。
「ごめんね、押しちゃった」
「うおっ!? あ、愛香か……」
「うん。あんまり止まってると詰まっちゃうから」
耳元に落ちてきた囁き声は、いつもの優しい愛香の声だ。
でも、ほんの一瞬だけ、青見の耳たぶのすぐそばで彼女が小さく呟いた。
「……大丈夫。もう、いないから」
「え?」
「んーん、なんでもない。ほら、前、動き始めたよ?」
前方から惣一郎たちの笑い声が聞こえてくる。
どうやら先に抜けたらしい。
青見は、わざと大きく息を吐いて前に這い進んだ。
さっき足首に絡みつきかけた“冷たい感触”は、もうない。
胎内くぐりの出口から這い出ると、眩しいほどのランタンの光と、立って歩ける空間が迎えてくれた。
「おかえりー。どうだった?」
彩女が、少し頬を赤くして待っていた。狭いところを抜けるので精一杯だったのか、額にうっすら汗を浮かべている。
「いやー、青見、最後のところで“産まれてくる子牛”みたいになってたぞ」
惣一郎が両手を広げてみせる。
「うるせぇ。お前らが細すぎんだよ」
「ふふ。みんな無事に通れてよかったね」
愛香も出口から立ち上がり、水気を払うようにスパッツを軽く叩いた。
結先生が人数を確認して、にっこり笑う。
「はい、全員生還。蛇水さまも、いい子たちだから見逃してくれたみたいですね」
「やめてくださいってば、そういうのー!」
玲子がまた抗議の声を上げて、みんなが笑った。
その輪の少し外で、愛香だけが、ふと振り返って暗いトンネルの入口を見つめる。
青見のライトが、何気なく同じ方向を照らした。
そこには、ただ、黒い岩と水の流れがあるだけだ。
けれど――ほんの一瞬だけ。
光の輪の、ぎりぎり外側。
水面から覗く、真っ白な細い指のようなものが、ゆっくりと沈んでいったように見えた。
(……気のせいだ)
そう自分に言い聞かせて、青見は肩をすくめる。
背中越しに、愛香の小さな声が聞こえた。
「……惣くんたちは、絶対に守るからね」
「なんか言ったか?」
「ううん。早く先行かないと、結先生に置いてかれちゃうよ?」
いつもの笑顔でそう言って、愛香は軽やかに水を蹴って歩き出した。
蛇水鍾乳洞の奥へと続く通路には、まだひんやりとした冷気と、水の流れる音――そして、どこか遠くで、誰かが笑ったような残響だけが、かすかに揺れていた。