それは、本当に一瞬のことだった。
「わぁ、ここ天井低い……」
結先生が、先頭でしゃがみ込みながら振り返ろうとした、その瞬間。
――ばしゃんっ。
足元の水が、何か巨大なものに蹴り上げられたみたいに跳ね上がった。
冷水の飛沫が一同の顔に降りかかる。
「きゃっ!?」
「うわっ!」
視界が水しぶきで白くなった、その一瞬の“目隠し”の間に。
細くて、やけに長い腕が、結先生と、そのすぐ後ろにいた玲子の腰を、ぬるりと巻き込んだ。
ライトの輪の端で、ぬめった鱗と土で汚れた白い肌、異様に細長い首と、崩れかけた仮面みたいな顔がちらりと見えた。
(――ヘビ? いや、人間……?)
正体を認識する前に、その「何か」は、ふたりを抱えたまま水の中へ沈み込むように、闇の奥へと滑り去っていった。
「結先生!?」
「玲子!!」
叫びと同時に、遅れて悲鳴が洞窟に反響する。
「いやっ、今のなに!? ちょっと、玲子!?」
「先生っ!!」
「待て!」
青見は反射的に一歩、闇へ踏み込んだが――足元の水が深くなっていることに気づいて、慌てて踏みとどまる。
そこだけ、不自然なほど黒く沈んでいる。
足音と、水音と、誰かの荒い息遣いがごちゃ混ぜになって、パニックになりかける。
「お、落ち着いて! い、今の見た?」
「見たけど、見てないことにしたい! あれ絶対、人じゃなかったって!」
「玲子、返してよ……!」
愛香がランタンを握る手を震わせ、彩女は顔色を失って唇を噛む。
惣一郎も冗談を言う余裕などなく、歯を食いしばって水面を睨みつけていた。
――その中で、青見だけが、意識的に大きく息を吸った。
(パニックになったら、それこそ全員やられる)
肺いっぱいに冷たい空気を入れて、頭を強制的に冷やす。
「……一回、落ち着け」
低く、押し殺すような声で言うと、三人の視線がこちらを向いた。
「この洞窟は、さっきまで一本道だった。分かれ道はひとつだけ――」
青見は、来た道を振り返る。
一般見学コースへと戻るロープと、「ここから先、予約コース」と書かれたプレート。
「……ってことは、逃げ道は“奥”しかない」
結先生たちを連れ去った“何か”が通った水の筋が、さらに奥の暗闇へと続いている。
そこにはロープで仕切られた先――予約必須、熟練ガイド同行じゃないと入れない探索コースの入口があった。
青見は迷わず、そのロープに手をかける。
「ちょ、ちょっと待って、青見くん」
愛香が慌てて呼び止めた。
「一旦、外に出て……貴也おじさんに連絡しよう? こういうのは、プロに任せた方が……」
貴也おじさん――愛香の言う“おじさん”は、ただの親戚じゃない。
奇妙な事件に何度も顔を突っ込んできた、あの人のことだ。
青見も、それが一番“正しい”判断だとは分かっている。
けれど。
「……三人はそうしてくれ」
ロープを跨ごうとした足を一度止め、青見は振り返る。
「オレは、二人を探してくる」
その目には、躊躇いはなかった。
今すぐ追わなければ、あの細い腕と長い首の“何か”に、ふたりがどこまで連れて行かれるか分からない。
「はぁ? お前一人で行かせるかよ」
惣一郎が鼻で笑う。
「しゃーねぇな、俺も付き合うぜ。ま、ゲームのエリア外バグに突っ込むよりは分かりやすい状況だしな」
「惣くんが残るなら、わたしも残る」
愛香が、即座にそう言った。
いつものおっとりした声なのに、その中に、ごく固い芯みたいなものが混ざっている。
「お前は外に出て、叔父さんに連絡してくれ」
「いや、惣くんが残るなら、わたしも残る」
珍しく、食い下がる。
その頑固さに、惣一郎も目を丸くした。
「お、おい愛香? ここ、マジで“ヤバい側”の案件だぞ。ホラーゲームの中なら、真っ先に死ぬポジションだぞ」
「だからこそ、惣くんだけ危ない目に遭わせるわけにいかないの」
愛香はきゅっと唇を結び、青見と惣一郎、両方を見る。
「わたしだって……惣くんも、結先生も、玲子ちゃんも、ぜったいに守りたい」
その言葉に、一瞬、洞窟のひんやりした空気が違う意味で重くなった気がした。
青見は、ちらりと彼女の横顔を覗き込む。
(……さっき、“もういないから”って囁いてきた時の顔だ)
あの時も今も、何かを“知っている”目だ。
それでも、ここで全員突っ込めば、戻れる保証はなくなる。
「――私が、青見についてるから」
そこで、静かな声が割って入った。
彩女だ。
震えかけていた指先をぎゅっと握りしめて、一歩前に出る。
「私がいる。だから、二人は外に出て、伊集院さんに連絡して」
「彩女?」
「伊集院さんなら、状況聞いてすぐ動いてくれるはずでしょ? 星の会の時も、変な人がいた時、すぐ対処してくれたじゃない」
彩女の瞳は、まっすぐだった。
怖くないわけがないのに、それでも自分の足でここに立っている。
「それに……」
少しだけ視線を落とし、照れ隠しみたいに笑う。
「青見のことは、私が一番、止められるから」
「勝手に決めんな」
「うるさい。どうせ行く気なんでしょ」
いつもの軽口のやりとりが、ほんのわずかだけ空気を緩ませる。
惣一郎が頭をがしがし掻きながら、ため息をついた。
「……チッ。万能ヒロインムーブしやがって」
「惣一郎」
「分かったよ。彩女がそこまで言うなら、俺と愛香で外に出る」
惣一郎は愛香の方を振り返る。
「外なら電波も入るだろうしな。ダッシュで戻って、貴也おじさんに連絡つける。いいか?」
「……うん」
愛香はまだ何か言いたげだったが、ぐっと飲み込んで頷いた。
「ほんとは、わたしが一緒に行きたいけど……外でやれること、ちゃんとやるから」
「ああ。頼んだ」
青見は短く答え、惣一郎には少しだけ口元を緩めてみせる。
「変なフラグ立てんなよ。戻ってきた時、“実はもう助っ人呼んでましたー”ってドヤ顔させてやるからな」
「それ、期待してる」
四人は、そこで一度だけ顔を見合わせた。
恐怖と不安と、それでも繋がったままの信頼が、狭い洞窟の空気の中で確かめ合われる。
「じゃあ――ここで別れよう」
青見が言う。
「惣一郎、愛香。二人は戻って外へ。状況を伝えられるだけ全部伝えてくれ」
「任せろ」
「気をつけて。絶対、無茶しないで」
「彩女」
「分かってる」
彩女はロープの向こう、予約コースの暗闇を見据えた。
その横顔は、さっきまでとは違う、どこか“覚悟を決めた顔”になっている。
「行こう、青見」
「ああ」
ロープがきしむ音がした。
青見と彩女は、それを跨ぎ――“零落したヘビ人間”の消えた、予約必須の禁忌コースへと足を踏み入れた。
背後で、水を蹴る音が遠ざかっていく。
惣一郎と愛香が、出口へ向かって走り出したのだ。
残された洞窟の奥には、冷たい水音と、岩肌に反射する心許ない灯り――そして、そのさらに奥で、ずるり、と何かが岩を這うような音が、確かに聞こえた。