――引きずられる。
冷たい水の感触と、岩肌に擦れる膝の痛みで、玲子はようやく自分が「連れて行かれている」ことをはっきり自覚した。
「っ、せ、先生っ……!」
腰のあたりを巻きつく、ぬるりとした力。
細いのに、びくともしない腕――いや、これは腕と言っていいのかも分からない。
鱗と、ところどころただれたような皮膚が混じった、異様な触感。
隣では、結先生も同じように締め付けられていた。
先生の小柄な身体が、ひゅ、と水の中を滑るたび、ヘルメットのライトが天井の鍾乳石をちらちらと照らす。
「だ、大丈夫、大丈夫ですからね、三森さん……!」
「どこがですか先生ーっ!」
玲子が半泣きで叫ぶと、二人を抱えた“ヘビ人間”が、少しだけ身を竦めたように見えた。
だが速度は緩めない。普通の見学コースとは明らかに違う、壁の裂け目――人間の目には影にしか見えないほどの脇道へ、迷いなく滑り込んでいく。
岩と岩の隙間を、ぬらり、と通り抜ける。
ヘルメットが何度も擦れて、キィンと嫌な音が鳴った。
(狭い、暗い、冷たい、怖い怖い怖い――!)
心の中が「こわい」で埋め尽くされそうなところで、ふっと視界が開けた。
そこは、ぽっかりと空いた“広場”だった。
天井は高く、ライトの光が届かない。
足元の水はやや浅くなり、ところどころに乾いた岩の島のような場所が点在している。
何より、そこにいたのは――
「……っ!」
玲子の喉から、声にならない声が漏れた。
十……いや、二十。もしかしたら、それ以上。
水面から、岩の陰から、壁に張り付くようにして。
何十もの「零落したヘビ人間」が、ふたりを取り囲んでいた。
細く長い首。崩れかけた人の骨格に、無理やりヘビを貼り付けたような顔。
片側だけ鱗が残り、反対側は白くただれた皮膚が覗いている者。
腕が二本どころか、三本、四本に分岐してだらりと垂れ下がっている者。
逆に片腕しかなく、その分、尾が異様に太くなっている者。
どれも、同じ“種族”であることだけは分かるが、ひとりひとり、壊れ方が違う。
(こ……これ、ホラー映画なら「全滅確定」のやつじゃない……?)
玲子がぎゅっと目を閉じかけたその時、腰を掴んでいたヘビ人間が、そっと腕を緩めた。
ぽとん、と水の中に降ろされる。
すぐに、結先生の方にも同じようにしているのが分かった。
「い、痛っ……え?」
捕まえたまま離さないのではなく、ちゃんと「立てるように」してくれている。
玲子の膝が震えるのを見て、最初に掴んでいた個体が慌てたように、近くの岩の島へ促すように手招きした。
「……こっち、に……って、言ってる……のかな」
結先生が、息を整えながら呟く。
ヘビ人間は、先生が一歩動くたびに、びくっと身体を震わせて、それからほっとしたようにうなずいた。
――その瞬間。
広場にいる全てのヘビ人間たちが、一斉に動き出した。
「ひっ……!」
玲子は思わず結先生の腕を掴む。
だが、彼らは飛びかかってくるでも、締め上げてくるでもなかった。
それぞれが、勝手に、自分の持ち場へ散っていく。
ある者は、壁の一角へとにじり寄り、ぬれた岩肌を、細い指でこすりはじめる。
別の者は、水面に手を突っ込んで、石を取り出しては、先生たちの足元に並べていく。
また別の者は、天井近くへと身を伸ばし、ぶら下がっている鍾乳石をそっと撫でるように叩く。
キン……キン……と、澄んだ音が、洞窟の中に響いた。
「あの、その……」
結先生がおずおずと声をかける。
「わ、私たちのこと、食べる予定は……」
「せ、先生ストレート……!」
玲子が半泣きで突っ込むと、すぐ目の前にいたヘビ人間が、ぶんぶんと慌てて首を横に振った。
崩れかけた顔の片側だけで、必死に表情を作ろうとする。
片目しかないその目が、申し訳なさそうに上下する。
そして――
「シィィィ……シ、ィ……」
喉を震わせて、何かを言おうとした。
それに呼応するように、周囲のヘビ人間たちも、一斉に声を発する。
「シィ……シュー……シシャァ……」
「シィィ……ッ……シャアア……」
シュー、シシシ、シャアア――。
耳慣れない、けれどどこか必死な“音”の連なりが、重なり合って広場を満たす。
だが、日本語ではない。
英語でも、何語でもない。
ただ、彼らの喉と舌と、空気が作る「音」。
「ご、ごめんなさい。全然……分からないです」
結先生は、申し訳なさそうに微笑む。
その表情を見て、近くの個体が、はっとしたように身を引いた。
そして、再び。
今度は身振り手振りを交えて、訴え始める。
長い腕を広げて、自分たちの周囲――この広場をぐるりと指し示す。
それから、天井を指さし、ゆっくりと円を描くようにぐるぐると回す。
別の個体が、水面に指を突っ込み、なぞるように動かす。
残光のようにキラキラと水が光って、一瞬だけ、星座の線画みたいな模様が浮かんだ。
「……星?」
思わず、玲子が呟く。
途端に、彼らが一斉にそちらを振り向いた。
「シィ!」
「シィィ!」
わっと、歓声のようなものが上がる。
彼らは口々に「シィ」「シ」といった音を繰り返しながら、天井を、そしてまだライトの届かない“上”の方角を指差す。
玲子はごくり、と唾を飲んだ。
(え、なに……? 星、が……どうしたの?)
ヘビ人間たちは、さらに動きを大きくする。
一体が、自分の胸をどんどんと叩く。
次に、その手をずるりと引き下ろし、落ちていく様子を誇張して見せる。
零れ落ちる、落ちぶれる、墜ちていく――そんなイメージを、必死に“演じている”ようだった。
そして、胸を叩いた手を、今度は玲子と結先生の胸に、そっと触れさせる。
乱暴ではない。驚くほど、慎重に。
そのまま、彼らは二人の手を取り、天井――その向こうの空を、また指さす。
「……私たちに、星を――?」
玲子が言葉を紡ごうとした時。
ヘビ人間たちの中のひとりが、よろよろと歩み出て、胸に抱えていた石板のようなものを、そっと足元に置いた。
粗く削られた岩の表面に、何かが刻まれている。
人と、ヘビ。
そのふたつが、並んで、同じ方向――空に浮かぶ丸いものを見上げているような、つたない線画。
「……!」
玲子も、結先生も、思わず息を呑んだ。
ヘビ人間たちは、その絵を指さし、自分たちを指さし――そして、ふたりを指さす。
最後に、天井の向こう――地上の夜空があるはずの方向へ、そっと手を伸ばした。
「シィ……」
さっきよりも、ずっとか細い声で。
それは、今にも消えてしまいそうな、懇願の音に聞こえた。
「……ね、先生」
玲子は、袖を掴んだまま、小さな声で言う。
「この人たち……わたしたち、を食べに来たんじゃなくて」
「――助けを、求めてる……のかもしれませんね」
結先生は、震える膝をどうにか押さえ込みながら、広場を取り囲むヘビ人間たちをゆっくりと見回した。
彼らの目は、確かにおぞましい形をしている。
けれど、その底に揺れているのは――獰猛さよりも、もっと別のもの。
切迫と、焦燥と、かすかな希望。
洞窟の奥深く。
人には見えない脇道の果てのこの“広場”で、零落したヘビ人間たちは、壊れかけた身体を振り絞るようにして、なおもふたりに訴え続けていた。