なんちゃってクトゥルフ小説   作:ぶーく・ぶくぶく

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蛇水鍾乳洞4

 

 

 蛇水鍾乳洞の「予約コース」に足を踏み入れてから、どれくらい歩いただろう。

 

 さっきまでの観光用の通路よりも、明らかに暗い。

 壁にはロープも手すりもなく、頼りになるのはヘルメットのライトと、足元でちゃぷちゃぷ鳴る水音だけだ。

 

「……誰も、来てないんだな、ここ」

 

 青見がぼそりと言うと、前を歩く彩女が、小さくうなずいた。

 

「うん。空気が違う」

 

 湿った冷気が肌にまとわりつく感覚は同じなのに、どこか、さっきまでの「安全な探検」とは違う緊張がある。

 呼吸の音さえ、やけに大きく響いた。

 

 その時だった。

 

「――待って!」

 

 彩女が、ぴたりと足を止めた。

 

「うお、急に止まるなって……」

「青見、ここ」

 

 そう言って、彼女は右側の壁を指さした。

 

 青見もライトを向けてみる。ざらついた岩肌、黒く濡れた水の筋。

 どこからどう見ても、ただの「影」にしか見えない。

 

「……何もないぞ? ただの壁だろ」

「違う」

 

 彩女は首を振る。

 その横顔は真剣で、ほんの少しだけ強ばっていた。

 

「ここだけ、風が通ってる」

 

「風?」

 

 青見も、そっと目を閉じてみる。

 耳を澄ませると、確かに――正面から吹いてくる冷気とは別に、右側から、細くて冷たい空気の流れが、頬を撫でていくのが分かった。

 

 でも、ライトを当てても、やっぱりそこには何もない。

 濃い影が落ちているだけだ。

 

「見た目通りじゃない」

 

 彩女は、自分に言い聞かせるように呟いた。

 指先が、かすかに震えている。

 

 それでも、一歩、壁に近づいた。

 

「おい、彩女」

「大丈夫。……多分」

 

 全然大丈夫そうな声じゃない。

 青見が思わずツッコミかけた時、彩女はそっと手袋越しの指先を、岩の影に伸ばした。

 

 ――ずぶり。

 

「っ!?」

 

 岩に触れるはずの指が、あっさりと“飲み込まれた”。

 

 そこは固い壁ではなく、真っ黒な水面か、あるいは張られた布の裏側みたいに、ひやりとした抵抗だけを残して、彩女の手を受け入れていく。

 

「ちょ、ちょっと待て! 抜けるか、それ!?」

「だ、だいじょ……」

 

 彩女は引き抜こうとしたが、逆に、向こう側からそっと引かれるような感覚があった。

 彼女の肩が、ぐいっと影の中へ引き寄せられる。

 

 青見は反射的に、彩女の手首を掴んだ。

 

「うおっ……!」

 

 瞬間、冷たい感触が腕にまで伝わる。

 影が、水面から溢れ出したインクみたいに、二人の腕を包み込んでくる。

 

「ちょ、ちょっと青見。離したら置いてくよ!?」

「誰が離すか!」

 

 冗談半分のいつもの調子で言い返そうとして――うまく声にならなかった。

 喉まで冷たさが這い上がってくるような、妙な圧迫感。

 

 視界の端で、影が揺れた気がした。

 

 ――通れる?

 

 そんな声が、外からなのか中からなのか分からない場所で、ふっと囁いたような気がした。

 

 次の瞬間。

 

 足元の感覚が、すとん、と消えた。

 

「うわ――」

「きゃっ!」

 

 落ちる、というより「滑り落とされる」感覚だった。

 冷たい布の内側を、全身でずり落ちていくような、どこに上と下があるのか分からない奇妙な浮遊感。

 

 ライトの光が、ぐにゃりと曲がって視界の隅に流れていく。

 水の音とも風の音ともつかないざわめきが、耳のすぐそばを通り過ぎた。

 

 そして――唐突に。

 

「っ……!」

 

 膝に、固い岩の感触が戻ってきた。

 同時に、足首まで冷たい水に浸かる感触。

 

 青見と彩女は、ほとんど同時に、前のめりに倒れ込むようにして、“どこか別の通路”の水たまりに着地していた。

 

 背中越しに、さっきまでいた通路を振り返る。

 ――そこには、もう「影の穴」はなかった。

 

 ただの、不自然に影の濃い岩壁があるだけだ。

 

「……マジかよ」

「通れちゃった、ね」

 

 彩女は、震える息をどうにか整えながら、立ち上がった。

 青見の腕を掴んだまま、周囲を見回す。

 

 さっきまでのコースよりも、さらに暗い。

 ライトの輪の外側は、すぐに闇に溶けて見えなくなる。

 

 それでも、どこかから――

 

 水音とは違う、ざらり、と何かが岩を這うような音。

 そして、遠くで誰かが、必死に何かを訴えるような、かすれた声が、微かに届いていた。

 

「……行こう、彩女」

 

 青見が低く言う。

「きっと、この先に――先生たちがいる」

 

「うん」

 

 二人は短くうなずき合い、影に飲み込まれて辿り着いた“人の目には映らない脇道”の奥へと、足を踏み出した。

 

 

/*/

 

 

 暗闇は、さっきよりも濃くなっていた。

 

 水音だけが、一定のリズムで足元から立ち上がってくる。

 ライトの輪から一歩外れれば、そこはもう世界の終端みたいに真っ黒だ。

 

「……この先で、なんか、声がしたよな」

 

 青見が低く言う。

 彩女は、黙ってうなずいた。

 

「うん。……たぶん、人間の」

 

 その一言に、歩調が自然と早まる。

 壁伝いに進んでいくと、やがて視界がふっと開けた。

 

 広場だ。

 

 さっきまで、結先生と玲子が囲まれていた、あの空間。

 その真ん中に――

 

「先生! 玲子!」

 

 水を蹴って駆け出す。

 ランタンの光に照らされて、結先生が振り返った。

 

「青見くん!? それに、安達さんも」

「青見先輩!」

 

 三森玲子も、ほっとしたように顔を輝かせる。

 

 次の瞬間。

 

 ――ざわっ。

 

 広場の空気が、目に見えない何かで一斉に震えた。

 

 水の中、岩の陰、壁に張り付いていた零落したヘビ人間たちが。

 青見と彩女の姿を認めた、その瞬間――特に、彩女を見た瞬間に。

 

「シ……シィィイッ!!」

 

 悲鳴にも似た声が、一斉に上がった。

 

 さっきまでは必死に身振り手振りをしていた彼らが、今度は蜘蛛の子を散らすように、洞窟のさらに奥へ、上へ、狭い割れ目の中へと逃げ込んでいく。

 

 長い首を縮め、尾を巻き込み、互いにぶつかり合いながら。

 中には、鍾乳石によじ登って天井近くの闇に消えるものまでいた。

 

「ちょ、ちょっと!? 何!?」

「ひっ……!」

 

 玲子が思わず結先生の背中に隠れる。

 結先生も驚いたように目を見開いたが、すぐに青見と彩女の方へ視線を向けた。

 

 唯一、その場に残っている“人間側”の二人。

 

「……完全に、引いてますね」

 

 玲子がぽつりと呟いた。

 目を凝らすと、ヘビ人間たちは決して攻撃態勢ではない。

 むしろ、怯えきった野良猫みたいに、身体をすぼめている。

 

 彼らが特に目をそらしているのは――

 

 彩女だった。

 

 ライトの光の中に立つ彼女の周囲だけ、なぜか闇が濃い。

 水面に映る影が、ほんの少しだけ他の誰よりも“深い”色をしている。

 

 彩女本人に自覚はない。

 

 けれど、闇を呼ぶメロディとともに覚醒遺伝したその血は、すでに形を持たない「怪異」としてこの世界に立っている。

 

 ――安達ケ原の鬼。

 

 人の皮を着たまま、なお鬼である存在の気配に、零落したヘビ人間たちは本能で震え上がっていた。

 

「……彩女さんの気配に、驚いたみたいですね」

 

 玲子が、おそるおそる言う。

 昔から、見えないものの“温度”だけは人より少し敏感だった。

 

「え? 私?」

 

 彩女はきょとんとした。

 自分の胸のあたりを指で差す。

 

「ちょっと風が使えるくらいなのに? あとは……ちょっと耳がいいくらい」

「“ちょっと”の範囲を超えてるとは思いますけどね……」

 

 玲子は心の中だけでつっこみを入れた。

 

 結先生は、そんな三人を見回してから、息を整えるように一度目を閉じる。

 

「……ともあれ、今は、みんな無事に合流できたことを喜ぶべきですね」

 

 そして、現実的な教師の顔になる。

 

「外には、惣一郎くんたちもいますし――もしかしたら愛香さんの“貴也おじさん”も動いてくれるかもしれません。今のうちに、戻りましょうか」

 

 その提案に、青見がうなずく。

 

「そうですね。出口まで案内します」

 

 帰りのルートを頭の中で組み立てながら、振り返ろうとした――その時だった。

 

 すぐ側の岩壁の“影”が、びくっ、と震えた。

 

「……?」

 

 四人が同時にそちらを見る。

 

 暗がりの中から、ゆっくりと、細長い指が一本。

 それから、崩れかけた顔が、そろり、と出てきた。

 

 零落したヘビ人間の一体が、洞窟の影から恐る恐る顔を出している。

 

 さっきの仲間たちとは違い、今にも膝をつきそうなほど、身体を小さく丸めて。

 それでも、逃げずにそこにいる。

 

「シ、シィィ……!」

 

 喉を震わせながら、必死に声を絞り出す。

 さっきのような怒号ではない。

 どこか懇願めいた、かすれた音。

 

 それから、その個体は、ぶんぶんと首を横に振った。

 ――「行かないで」と言いたげに。

 

 長い腕を伸ばし、出口の方向と、自分たちの広場を交互に指さす。

 最後に、胸に手を当ててから、天井の向こう――地上の空の方角を、また指さした。

 

「シィ……シ……!」

 

 さっき玲子たちに見せていた石板の絵――

 人とヘビが並んで、同じ星を見上げる図が、ふと脳裏によみがえる。

 

「……引き留めてる、のかな」

 

 玲子が小さく呟いた。

 

「行っちゃダメ、って?」

「でも――」

 

 結先生は険しい顔になる。

 教師として、生徒たちを危険から遠ざけなければならない立場。

 

「ここは、やっぱり戻るべきです。今は。約束をしてから、戻る、という選択肢もあります」

 

 そう言って一歩前に出ると、ヘビ人間はびくっと身を震わせ、それでもその場から動かなかった。

 崩れた顔で、どうにか「お願い」の形を作ろうとしている。

 

 彩女は、その姿から目を離せなかった。

 

 どこか、胸の奥――暗い井戸の底みたいな場所で、微かなメロディが鳴っている気がした。

 子守唄とも、鎮魂歌ともつかない、低い旋律。

 

(……助けて、って、言ってる?)

 

 言葉は分からない。

 でも、感情の温度だけは、伝わってくる。

 

 青見が、横でそっと息を吐いた。

 

「……どうする、先生」

 

 その問いに、結先生は一度だけ目を閉じ、ヘビ人間の方を見た。

 

 シューシューと、必死に喉を鳴らし続けるその姿。

 洞窟の影から半身だけ出して、これ以上近づく勇気も、これ以上離れる勇気もない。

 

 零落したヘビ人間は、壊れた身体で、それでも懸命に四人を引き留めていた。

 

 

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