蛇水鍾乳洞の「予約コース」に足を踏み入れてから、どれくらい歩いただろう。
さっきまでの観光用の通路よりも、明らかに暗い。
壁にはロープも手すりもなく、頼りになるのはヘルメットのライトと、足元でちゃぷちゃぷ鳴る水音だけだ。
「……誰も、来てないんだな、ここ」
青見がぼそりと言うと、前を歩く彩女が、小さくうなずいた。
「うん。空気が違う」
湿った冷気が肌にまとわりつく感覚は同じなのに、どこか、さっきまでの「安全な探検」とは違う緊張がある。
呼吸の音さえ、やけに大きく響いた。
その時だった。
「――待って!」
彩女が、ぴたりと足を止めた。
「うお、急に止まるなって……」
「青見、ここ」
そう言って、彼女は右側の壁を指さした。
青見もライトを向けてみる。ざらついた岩肌、黒く濡れた水の筋。
どこからどう見ても、ただの「影」にしか見えない。
「……何もないぞ? ただの壁だろ」
「違う」
彩女は首を振る。
その横顔は真剣で、ほんの少しだけ強ばっていた。
「ここだけ、風が通ってる」
「風?」
青見も、そっと目を閉じてみる。
耳を澄ませると、確かに――正面から吹いてくる冷気とは別に、右側から、細くて冷たい空気の流れが、頬を撫でていくのが分かった。
でも、ライトを当てても、やっぱりそこには何もない。
濃い影が落ちているだけだ。
「見た目通りじゃない」
彩女は、自分に言い聞かせるように呟いた。
指先が、かすかに震えている。
それでも、一歩、壁に近づいた。
「おい、彩女」
「大丈夫。……多分」
全然大丈夫そうな声じゃない。
青見が思わずツッコミかけた時、彩女はそっと手袋越しの指先を、岩の影に伸ばした。
――ずぶり。
「っ!?」
岩に触れるはずの指が、あっさりと“飲み込まれた”。
そこは固い壁ではなく、真っ黒な水面か、あるいは張られた布の裏側みたいに、ひやりとした抵抗だけを残して、彩女の手を受け入れていく。
「ちょ、ちょっと待て! 抜けるか、それ!?」
「だ、だいじょ……」
彩女は引き抜こうとしたが、逆に、向こう側からそっと引かれるような感覚があった。
彼女の肩が、ぐいっと影の中へ引き寄せられる。
青見は反射的に、彩女の手首を掴んだ。
「うおっ……!」
瞬間、冷たい感触が腕にまで伝わる。
影が、水面から溢れ出したインクみたいに、二人の腕を包み込んでくる。
「ちょ、ちょっと青見。離したら置いてくよ!?」
「誰が離すか!」
冗談半分のいつもの調子で言い返そうとして――うまく声にならなかった。
喉まで冷たさが這い上がってくるような、妙な圧迫感。
視界の端で、影が揺れた気がした。
――通れる?
そんな声が、外からなのか中からなのか分からない場所で、ふっと囁いたような気がした。
次の瞬間。
足元の感覚が、すとん、と消えた。
「うわ――」
「きゃっ!」
落ちる、というより「滑り落とされる」感覚だった。
冷たい布の内側を、全身でずり落ちていくような、どこに上と下があるのか分からない奇妙な浮遊感。
ライトの光が、ぐにゃりと曲がって視界の隅に流れていく。
水の音とも風の音ともつかないざわめきが、耳のすぐそばを通り過ぎた。
そして――唐突に。
「っ……!」
膝に、固い岩の感触が戻ってきた。
同時に、足首まで冷たい水に浸かる感触。
青見と彩女は、ほとんど同時に、前のめりに倒れ込むようにして、“どこか別の通路”の水たまりに着地していた。
背中越しに、さっきまでいた通路を振り返る。
――そこには、もう「影の穴」はなかった。
ただの、不自然に影の濃い岩壁があるだけだ。
「……マジかよ」
「通れちゃった、ね」
彩女は、震える息をどうにか整えながら、立ち上がった。
青見の腕を掴んだまま、周囲を見回す。
さっきまでのコースよりも、さらに暗い。
ライトの輪の外側は、すぐに闇に溶けて見えなくなる。
それでも、どこかから――
水音とは違う、ざらり、と何かが岩を這うような音。
そして、遠くで誰かが、必死に何かを訴えるような、かすれた声が、微かに届いていた。
「……行こう、彩女」
青見が低く言う。
「きっと、この先に――先生たちがいる」
「うん」
二人は短くうなずき合い、影に飲み込まれて辿り着いた“人の目には映らない脇道”の奥へと、足を踏み出した。
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暗闇は、さっきよりも濃くなっていた。
水音だけが、一定のリズムで足元から立ち上がってくる。
ライトの輪から一歩外れれば、そこはもう世界の終端みたいに真っ黒だ。
「……この先で、なんか、声がしたよな」
青見が低く言う。
彩女は、黙ってうなずいた。
「うん。……たぶん、人間の」
その一言に、歩調が自然と早まる。
壁伝いに進んでいくと、やがて視界がふっと開けた。
広場だ。
さっきまで、結先生と玲子が囲まれていた、あの空間。
その真ん中に――
「先生! 玲子!」
水を蹴って駆け出す。
ランタンの光に照らされて、結先生が振り返った。
「青見くん!? それに、安達さんも」
「青見先輩!」
三森玲子も、ほっとしたように顔を輝かせる。
次の瞬間。
――ざわっ。
広場の空気が、目に見えない何かで一斉に震えた。
水の中、岩の陰、壁に張り付いていた零落したヘビ人間たちが。
青見と彩女の姿を認めた、その瞬間――特に、彩女を見た瞬間に。
「シ……シィィイッ!!」
悲鳴にも似た声が、一斉に上がった。
さっきまでは必死に身振り手振りをしていた彼らが、今度は蜘蛛の子を散らすように、洞窟のさらに奥へ、上へ、狭い割れ目の中へと逃げ込んでいく。
長い首を縮め、尾を巻き込み、互いにぶつかり合いながら。
中には、鍾乳石によじ登って天井近くの闇に消えるものまでいた。
「ちょ、ちょっと!? 何!?」
「ひっ……!」
玲子が思わず結先生の背中に隠れる。
結先生も驚いたように目を見開いたが、すぐに青見と彩女の方へ視線を向けた。
唯一、その場に残っている“人間側”の二人。
「……完全に、引いてますね」
玲子がぽつりと呟いた。
目を凝らすと、ヘビ人間たちは決して攻撃態勢ではない。
むしろ、怯えきった野良猫みたいに、身体をすぼめている。
彼らが特に目をそらしているのは――
彩女だった。
ライトの光の中に立つ彼女の周囲だけ、なぜか闇が濃い。
水面に映る影が、ほんの少しだけ他の誰よりも“深い”色をしている。
彩女本人に自覚はない。
けれど、闇を呼ぶメロディとともに覚醒遺伝したその血は、すでに形を持たない「怪異」としてこの世界に立っている。
――安達ケ原の鬼。
人の皮を着たまま、なお鬼である存在の気配に、零落したヘビ人間たちは本能で震え上がっていた。
「……彩女さんの気配に、驚いたみたいですね」
玲子が、おそるおそる言う。
昔から、見えないものの“温度”だけは人より少し敏感だった。
「え? 私?」
彩女はきょとんとした。
自分の胸のあたりを指で差す。
「ちょっと風が使えるくらいなのに? あとは……ちょっと耳がいいくらい」
「“ちょっと”の範囲を超えてるとは思いますけどね……」
玲子は心の中だけでつっこみを入れた。
結先生は、そんな三人を見回してから、息を整えるように一度目を閉じる。
「……ともあれ、今は、みんな無事に合流できたことを喜ぶべきですね」
そして、現実的な教師の顔になる。
「外には、惣一郎くんたちもいますし――もしかしたら愛香さんの“貴也おじさん”も動いてくれるかもしれません。今のうちに、戻りましょうか」
その提案に、青見がうなずく。
「そうですね。出口まで案内します」
帰りのルートを頭の中で組み立てながら、振り返ろうとした――その時だった。
すぐ側の岩壁の“影”が、びくっ、と震えた。
「……?」
四人が同時にそちらを見る。
暗がりの中から、ゆっくりと、細長い指が一本。
それから、崩れかけた顔が、そろり、と出てきた。
零落したヘビ人間の一体が、洞窟の影から恐る恐る顔を出している。
さっきの仲間たちとは違い、今にも膝をつきそうなほど、身体を小さく丸めて。
それでも、逃げずにそこにいる。
「シ、シィィ……!」
喉を震わせながら、必死に声を絞り出す。
さっきのような怒号ではない。
どこか懇願めいた、かすれた音。
それから、その個体は、ぶんぶんと首を横に振った。
――「行かないで」と言いたげに。
長い腕を伸ばし、出口の方向と、自分たちの広場を交互に指さす。
最後に、胸に手を当ててから、天井の向こう――地上の空の方角を、また指さした。
「シィ……シ……!」
さっき玲子たちに見せていた石板の絵――
人とヘビが並んで、同じ星を見上げる図が、ふと脳裏によみがえる。
「……引き留めてる、のかな」
玲子が小さく呟いた。
「行っちゃダメ、って?」
「でも――」
結先生は険しい顔になる。
教師として、生徒たちを危険から遠ざけなければならない立場。
「ここは、やっぱり戻るべきです。今は。約束をしてから、戻る、という選択肢もあります」
そう言って一歩前に出ると、ヘビ人間はびくっと身を震わせ、それでもその場から動かなかった。
崩れた顔で、どうにか「お願い」の形を作ろうとしている。
彩女は、その姿から目を離せなかった。
どこか、胸の奥――暗い井戸の底みたいな場所で、微かなメロディが鳴っている気がした。
子守唄とも、鎮魂歌ともつかない、低い旋律。
(……助けて、って、言ってる?)
言葉は分からない。
でも、感情の温度だけは、伝わってくる。
青見が、横でそっと息を吐いた。
「……どうする、先生」
その問いに、結先生は一度だけ目を閉じ、ヘビ人間の方を見た。
シューシューと、必死に喉を鳴らし続けるその姿。
洞窟の影から半身だけ出して、これ以上近づく勇気も、これ以上離れる勇気もない。
零落したヘビ人間は、壊れた身体で、それでも懸命に四人を引き留めていた。