◆ 蛇水鍾乳洞・境界線 ◆
「――ふむ。安達くんに驚いてたか。それは仕方ないね」
伊集院貴也は、いつもの白シャツの袖を軽くまくりながら、洞窟の闇を眺めた。
「猫の集会に、突然、虎が乱入したようなものだから」
「虎、ですか……」
彩女が気まずそうに視線をそらす。
隣で青見が、ちらりと彼女の横顔を見る。
(やっぱり、そういう扱いなんだな)
惣一郎が小声でぼそっと言った。
「安達、虎だってよ。やべーな、ラスボスポジ」
「うるさい」
軽口で、少しだけ空気が緩む。
今いるのは、照明が設置されている「探検体験コース」のいちばん奥――
ロープと注意書きが張られていて「ここから先は本格的な探検コース(要予約・ガイド同伴)」と書いてある、その境界線だった。
伊集院は一歩、ロープのすぐ手前まで進むと、ふっと息を吸い込んだ。
「じゃあ、ちょっと話をしてみようか」
次の瞬間――
「シィィ……シャアァ……」
人間の声帯じゃ、どうやっても真似できないような、擦れる音が喉から滑り出た。
蛇の威嚇音にも似ているが、それだけではない。
水の流れや、岩の軋みまで混ぜたような奇妙な音列。
暗闇が、それに応えるように揺れる。
しばらくすると――
「……シ、シィ」
奥の方から「返事」が返ってきた。
ゼエゼエと湿った呼吸に混じるかすれ声。
やがて、ロープの向こうの闇から、零落したヘビ人間が一体、そろりと顔を出した。
崩れかけた顔。片目だけが光っていて、その目が伊集院をじっと見つめる。
「よく来てくれたね」
伊集院は穏やかに微笑むと、またシューシューとした音で何かを語りかける。
その会話は、シィ、シシャ、シャア……と、ほとんど“音”でしか聞こえない。
けれど、互いにちゃんと意味をやりとりしているのが分かるくらい、リズムと抑揚があった。
玲子が、じっと耳を澄ませながら囁く。
「……“どうしたのかな?”“何かトラブルがあったかい?”って聞いてる感じですね」
「通訳できるのか、お前……」
「なんとなく、ですけど」
やがて、ヘビ人間が短く答えた。
「……シィ」
その一言に、伊集院の表情が少しだけ変わる。
「上がってきた“不死のヘビ人間”が?」
皆が息を呑む。
「なるほど、それで君たちも落ち着かなくなったわけだね。案内してくれたまえ」
そう言うと、伊集院は上着をふわりと脱いだ。
「竜樹くん、悪いけど預かっていて」
「おう」
桜竜樹が無造作に受け取る。
自分のパーカーも一緒に脱いで、結先生に渡した。
「ちょっと行ってくる」
「お前だけ行かせられないだろう」
桜竜樹は肩を回しながら、ロープの前に並び立つ。
「こいつらの言葉、俺はさっぱり分からんしな。通訳が暗闇で一人きりは不安だ」
「心強いね」
伊集院は、嬉しそうに目を細めた。
「では、少しだけ“奥”を見てくるよ。君たちはここで待っていてくれ」
そう言うや、ふたりはロープをまたぎ、ヘビ人間の後について暗闇の中へと消えていった。
ヘルメットのライトだけが、しばらく揺れて――すぐに、完全な闇に飲み込まれる。
◆ 待つ側 ◆
「……なんか、テレビで見る特番の裏側って感じだな」
惣一郎が、気まずさ紛れに呟く。
照明の届くギリギリのところまで黒い影が迫っていて、その先は想像すらしたくない深さの闇が口を開けている。
「大丈夫でしょうか、伊集院さんたち……」
結先生が不安そうにロープを見つめる。
桜竜樹の上着が、その腕の中で小さく揺れた。
「大丈夫ですよ、先生」
愛香が静かに言う。
「貴也おじさん、こういうの、慣れてますから。……たぶん」
最後の一言だけ小さくなる。
「“不死のヘビ人間”って、さっき……」
玲子が腕を抱きしめる。
「零落したヘビ人間と、また別物なんでしょうか」
「アンデッド版ヘビ人間……名前の時点で嫌な予感しかしねぇ」
惣一郎が顔をしかめた。
彩女は黙って、ロープの向こうを見つめている。
さっきの広場で交わした約束。
「また来る」「夜空を連れてくる」。
――その前に、“不死のヘビ人間”とやらの問題を解決しないと、あの子たちの「星」どころじゃないのかもしれない。
そんな予感が、胸の奥でじわじわと広がっていた。
「安達さん、大丈夫?」
結先生がそっと声をかける。
「さっきから顔、ちょっとこわばってますよ」
「……大丈夫です。ちょっと、怒らせちゃったかなって思っただけで」
「怒らせた?」
玲子が首をかしげる。
「ええと……わたしが、“虎”だから」
彩女は、自嘲気味に笑った。
「猫の集会、壊しちゃったかもしれないなって」
青見が、それを聞いて口を開きかけ――結局、何も言わずに彩女の頭を軽くぽん、と叩いた。
「お前が悪いなら、俺ら全員もっと悪いよ」
「え?」
「勝手にロープくぐって行ったの、俺たち全員だからな」
惣一郎が「そうそう」と頷いてくる。
「正直、怒られるならまとめてだろ。怪異的にも、先生的にも」
「だから、ひとりで背負うなってこと」
と、青見。
彩女は一瞬きょとんとしてから、小さく笑った。
「……うん」
◆ 暗闇の奥 ◆
一方その頃。
ロープの向こう、照明の届かない本格探検コースのさらに奥。
ヘルメットのライトが照らすのは、濡れた岩肌と、ところどころ深くなっている水たまりだけ。
伊集院と桜竜樹は、先導する零落したヘビ人間の後を、慎重に進んでいた。
「で、その“不死のヘビ人間”ってのは?」
「彼らの“親玉”……というより、“古い同族”だろうね」
伊集院は答える。
「この蛇水鍾乳洞は、昔から“上”と“下”をつなぐ穴だった。地上に近い方には、今の“蛇水さま”たちが棲みついて人間と共生しているけれど――もっと下には、別の層がある」
「地下水脈と……“黄泉”のあいだ、みたいなとこか」
「言い得て妙だね」
先導のヘビ人間が、立ち止まる。
目の前は、さっきまでよりもずっと広い空間だった。
天井は高く、鍾乳石が逆さまの森みたいにぶら下がっている。
足元の水は、ここだけやや温かい。
――そして、その中央に。
ひときわ大きな“ヘビ人間”が、膝を抱えるようにして座り込んでいた。
普通の零落した個体と違い、その身体はどす黒く変色し、部分的に骨が露出している。
目のあたりは空洞で、そこから青白い光がじわじわと漏れている。
「……なるほど、これは」
桜竜樹が眉をひそめた。
「完全に“不死者”だな。生き物っていうより、呪いで動いてるタイプだ」
「“上がってきた”ってのは、どうやら本当みたいだ」
伊集院は、シューシューとした声で何かを問いかける。
不死のヘビ人間は、ゆっくりと顔を上げた。
空洞の眼窩が、まっすぐ伊集院をとらえる。
その目の奥には――飢えと、渇きと、その奥でかすかに揺れる、別のもの。
「……シ、シャァ……」
喉の奥から、風が漏れるような声がした。
それは、かつての言葉の残骸。
星、地上、人。そんな単語の断片だけが、辛うじて聞き取れる。
伊集院は目を細める。
「ふむ。“上の子らが、星の話をするから、見に来た”……ってところかな」
「お前、よくそんな半分腐った声から拾えるな」
「慣れだよ、慣れ」
そう言いながらも、伊集院の表情はわずかに曇っていた。
「問題はね――この子はもう、“生きて”いないってことだ」
不死のヘビ人間は、ぎこちない動きで胸をかきむしる。
そこには、黒くひび割れた“石”のようなものが埋まっていた。
おそらく、生前は“心臓”か“核”だった場所。
そこから、どろりとした影が滲み出ている。
「星の光じゃなくて、“星影”を食べようとしてしまうタイプですね」
「その通り」
伊集院はうなずいた。
「地上に出れば、人間の“夜”を壊す。だから、蛇水さまたちは必死に押し留めている……が、自分たちだけではどうにもならない、と」
「で、人間を攫ってきたと」
桜竜樹が肩をすくめる。
「たいしたもんだな。先生と生徒、ちゃんと大人連れで連れてきてる辺り、まだ理性は残ってんだろうが」
「“虎”が混ざってしまったから、余計にパニックになったんだろうね」
伊集院は、ふと口元を緩めた。
「安達くんの気配は、“怪異にとっての天敵”みたいなものだ。零落したヘビ人間たちにしてみれば、自分たちの巣に雷が落ちてきたような感覚だったろう」
「そりゃ逃げるわ」
そう言いながらも、桜竜樹の目は不死のヘビ人間から離れない。
「で、どうする。戻すか? 下に」
「選択肢はふたつ」
伊集院は指を二本、立てる。
「一つは、君の言う通り、“元いた層”に送り返す。黄泉の水脈にね」
「もう一つは?」
「ここに“石碑”を立てる」
桜竜樹が目を細めた。
「封じる、ってことか」
「まあ、簡単に言えばね」
不死のヘビ人間が、ゆっくりと顔を上げる。
空洞の目から漏れる光が、ほんのわずかだけ揺れた。
「君は“星”が見たい。けれど、“星影”を食べてしまう身体になってしまった」
伊集院は、静かに言葉を紡いだ。
「だから――君はここで、“星の記憶”だけを見守る番人にならないかい?」
ヘルメットのライトの下、伊集院の瞳は真剣だ。
「地上から夜空が映り込む水たまりを作ろう。蛇水さまたちが入口近くまで来たとき、そこに映る星を、君にも分けてあげる」
それは、完全な救いではない。
夜空そのものではなく、「水面に映る星」のみ。
けれど、黄泉の底へ押し戻されるよりは、はるかに“上”に近い。
不死のヘビ人間は、しばらく黙っていた。
骨の露出した指先が、かすかに震える。
やがて――
「……シィ」
かすれた同意の音が、洞窟に溶けた。
桜竜樹が、ふっと息を吐く。
「決まりか」
「決まりだね」
伊集院は微笑んで、零落したヘビ人間たちの方を振り返る。
いつの間にか、広間の周りには、何体もの蛇水さまたちが顔を出していた。
恐怖と、不安と、それでも仲間を見捨てたくないという感情が入り交じった目。
「これから、ここに“境界”を作る」
伊集院はシューシューとした声で、彼らに説明する。
「不死のヘビ人間は、ここから上には出ない。代わりに、君たちの“星の願い”を、少しだけ肩代わりしてもらう」
蛇水さまたちは、互いに顔を見合わせ――最後に、ゆっくりとうなずいた。
◆ 境界線にて ◆
「戻ってきた!」
どれくらい待っただろうか。
ロープの向こうから、ふたつのライトが戻ってくる。
伊集院と桜竜樹だ。
ふたりとも、泥と水でそこそこ汚れてはいるが、表情は落ち着いていた。
「おかえりなさい!」
結先生が駆け寄る。
伊集院は、濡れた髪をかき上げながら、軽く会釈した。
「ただいま戻りました。ひとまず――大きな問題は、片づけてきましたよ」
「“不死のヘビ人間”は?」
玲子が身を乗り出す。
「地下に“星の見張り役”として残ってもらうことにしました」
伊集院はやんわりと言葉を選ぶ。
「地上には出てこない。その代わり、蛇水さまたちが星の話をする権利を、少し分けてもらう。そういう形です」
「……なんか、よく分かんないけど」
惣一郎が頭を掻いた。
「ひとまず、襲ってこないならオッケー、ってことでいいのか」
「そういうことです」
伊集院は柔らかく笑う。
「君たちを攫った件については、蛇水さまたちにもちゃんと説明しました。“人を驚かさないこと”というルールは、今後はもっと厳しく守ってもらうつもりです」
そう言って、ちらりと彩女を見る。
「それと――安達くん」
「はい」
彩女は背筋を伸ばした。
「君のことも、向こうには話しておきました。“猫の集会に紛れ込んだ虎”だとね」
「やっぱり虎なんですね……」
「でも、“誰も食べるつもりはない”虎です」
伊集院は、はっきりとそう付け加えた。
「君が約束した“星を見せる”件も、整理しておきましょう。ここでまた、ぼくと蛇水さまたち、それから学校側で相談して――“特別観測会”という形にできれば一番いい」
「特別……観測会」
彩女の胸が、少しだけ弾む。
「蛇水さまたちは、入り口近くまで。人間は外から。間に水たまりを挟んで、同じ星を眺める。――そういう夜があっても、きっと悪くないでしょう?」
伊集院の提案に、その場の空気がふっと明るくなる。
「なんか、それ、ちょっとロマンチックですね」
玲子が目を輝かせる。
「“人とヘビと星の観測会”。レポート書いたら、絶対先生に怒られるタイトルですけど」
「怒りませんよ、ちゃんと内容が伴っていれば」
結先生が苦笑した。
惣一郎が、彩女の方を見てニヤリと笑う。
「よかったな、安達。今度は正式に“招待”ってわけだ」
「……うん」
彩女は、小さく息を吐いてから、洞窟の暗闇に向かってそっと頭を下げた。
(約束、ちゃんと叶えよう)
あの広場で、ひざまずいたヘビ人間たち。
水面に浮かんだ“星の影”。
それら全部が、胸のどこかで静かに繋がっていく。
蛇水鍾乳洞の奥には、まだ“境界”がいくつも眠っている。
その一つが、今、少しだけ形を変えた。
――猫の集会と、虎と、ヘビと、夜空。
奇妙な取り合わせの物語が、またひとつ、この夏のページに書き足されていくのだった。