◆ 特別観測会の夜 ◆
夜の蛇水鍾乳洞は、昼間とは別の顔をしていた。
観光客用の照明はすべて落とされ、入口付近だけ、足元を確かめられる最低限のランタンが灯っている。
それより先――ロープで仕切られた「探検コース」の向こうは、相変わらずの濃い闇だ。
入口の外では、天文部の簡易観測会が始まっていた。
結先生と玲子、惣一郎、愛香たちが、三脚に載せた望遠鏡や双眼鏡を覗き込んでは「見えた」「今の流れ星じゃない?」と賑やかに声を上げている。
彩女は、その少し後ろ――洞窟の口のところに立っていた。
足元には、この日のために伊集院たちが用意した浅い水溜まりがある。
元々あった窪地を少し整えて、上から流れてくる湧き水を静かに溜めるようにした、即席の「水鏡」だ。
空を見上げると、山の稜線の向こうに星が散っている。
反対に目を落とせば、その星々が、水面に裏返って揺れている。
(……ちゃんと、映るんだ)
ほんの少し、胸が弾んだ。
「シ……シィ……」
暗闇の方から、かすかな息づかいが聞こえる。
ロープの向こう。
ランタンの明かりが届かないぎりぎりのところに、零落したヘビ人間たちが集まっていた。
岩の陰に身を潜め、半分だけ顔を出して水面を覗き込んでいる者。
壁に張り付くようにして、空ではなく「逆さの夜空」を見つめている者。
誰もロープは越えない。
でも、その視線は一様に、水面の星へと注がれていた。
「いい夜になりましたね」
背後から穏やかな声がした。
伊集院貴也だ。少し離れたところで、受付のおばさんとおじさんに何か話をしていたが、一段落したらしい。
「蛇水さまたちも、ちゃんと約束を守ってくれています」
「……はい」
彩女はうなずく。
「わたしも、約束……守れました」
その言葉に、伊集院は小さく微笑んだ。
「君があのとき、安易に“力”を使わなかったからですよ。鬼は、鬼のまま“優しく”あれる」
「……なんか、その言い方ずるいです」
彩女は視線をそらした。
伊集院は、それ以上何も言わずに、一歩下がる。
「少し、一人で話してきてもいいですよ。向こうも、君に礼を言いたいでしょうから」
そう言い残し、伊集院は外の観測組の方へ戻っていった。
残された彩女は、そっと息を吸う。
水面の星が揺れる。
ささやかな風でもすぐに波立って、形が崩れてしまいそうだ。
(……少しだけ)
胸の奥で、あのメロディが疼いた。
闇を呼ぶ歌。
歌えば、夜が濃くなる。星が鮮やかになる代わりに、何かを連れてきてしまうかもしれない。
――全部は歌わない。
そう決めて、彩女は唇を湿らせた。
声には出さない。
喉の奥で、息だけを、ゆっくりと回す。
ひゅう、と。
洞窟の奥から吹き出していた冷たい空気が、一瞬だけ、その流れを変えた。
入口付近の風が、ぴたりと止まる。
水面の揺らぎがおさまり――星々の輪郭が、くっきりと浮かび上がる。
「……」
ロープの向こう側で、ヘビ人間たちがざわめいた。
崩れかけた顔。
片目しか見えない者も、眼窩だけ光っている者も、それぞれが息を呑むように動きを止める。
水面に映る夜空。
夏の大三角。
天の川。
街の灯りに削られながらも、ここまで来れば、まだ十分に数えられる。
「シィ……シィィ……」
誰かの喉が、震えた。
子どもみたいな声だ、と彩女は思った。
身体は歪んでいても、その感情は真っ直ぐだ。
「こっちがね」
彩女は、水面の上にそっと指を差し出した。
ロープのこちら側から、できるだけ水に影響を与えない距離を測りながら。
「一番明るいのがベガ。夏の大三角のひとつ」
水面の中で、その星が小さく瞬く。
「こっちがアルタイル。あっちがデネブ。三つで、大きな三角形、分かる?」
ヘビ人間たちは、じっと見つめていた。
やがて、一体が、おそるおそる長い指を伸ばす。
ロープの向こう、ぎりぎり水面には触れない高さで。
細い指が、星々をなぞるように動く。
三角形。
川の流れ。
その形を、覚え込むように。
「シィ……シ、シ」
喉が、小さくリズムを刻む。
さっきより、わずかに明るい音。
(……楽しい、って言ってる?)
言葉は分からない。
でも、胸に広がる温度は、恐怖や飢えのそれとは違う。
水面に映る天の川を見て、別の個体が、両腕を広げる。
自分の身体の横幅と、星の川の幅を比べるみたいに。
また一体が、胸をとんとんと叩き、頭上の岩を指さし、水面を指さす。
「ここにいるけど、上にもある」「でも今はここで見ている」――そんなジェスチャーに見えた。
「上には、出られないもんね」
彩女は小さく呟く。
「でも、ここからなら、一緒に見れる」
そう言ったとき、足元の水が、すこしだけ揺れた。
洞窟の奥から、別の風が流れ込んでくる。
黄泉の方角から――不死のヘビ人間が、静かに息を吐いた気配がした。
直接その姿は見えない。
けれど、さっき伊集院が“番人”として残してきた存在が、この水面の星影を、遠くから覗いているのだと分かった。
(届いてるといいな)
彩女は、少しだけ目を閉じた。
歌いたくなる。
星を揺らさないように、闇を深くする歌を。
でも、やっぱりやめる。
これは、蛇水さまたちと、不死のヘビ人間と、人間が――全部いっしょに見ている星だから。
わたしだけの歌で、色を変えてしまうのは、なんだかずるい気がした。
「シィ」
近くの岩陰から、ひときわ小柄なヘビ人間が這い出してきた。
あの日、彩女にひざまずいた個体だ。
片方の腕が途中で折れ、代わりに尾が太くなっている。
その尾で水をはたかないよう、慎重に身を寄せると――
そっと、自分の胸を指差した。
「……“わたし”。」
彩女は、彼(彼女?)の動きを真似て、自分の胸にも手を当ててみせる。
「安達、彩女。――アダチ、アヤメ」
ヘビ人間は、むずかしそうに舌を動かした。
「……シ、ア……ダ……」
それは、名前にもなりきれない、ぎこちない音の連なり。
だけど、確かに「呼ぼう」としてくれている。
じん、と胸が熱くなった。
「そっちの名前は、分かんないけど」
彩女は、水面の星を見つめながら言った。
「また、来るから。その時、もう一回、教えて」
ヘビ人間は、一拍置いてから、ぎゅっと胸に手を当てた。
水面に映る星が、その腕を白く照らす。
崩れた顔で、どうにか「笑う」形を作ろうとして――結局、うまくいかなくて、ただ目を細めるだけになった。
「シィ」
短い音。
それはたぶん、「約束」と「ありがとう」と「待ってる」が混ざった音だ。
外から、惣一郎の「うおー、今の流れ星すげぇ!」という声が聞こえた。
玲子が「どこどこ!?」と慌てている。
「彩女、こっちも見えるー!」
愛香が手を振る気配もする。
「……今行くー」
彩女は振り返って、そう返事をした。
もう一度、水面を覗き込む。
ヘビ人間たちの影越しに、星の川が揺れている。
(鬼でも、いいのかもしれない)
人と、怪異と、その境目のどこかに自分がいるのなら。
こうして、一緒に星を見ていられる鬼でいたい――ふと、そんなことを思う。
彩女はそっと頭を下げ、ロープのこちら側へと下がった。
背中に、シューシューという息づかいと、静かなざわめき。
それらをまとったまま、今度は“人間側”の夜空へと駆けていった。