なんちゃってクトゥルフ小説   作:ぶーく・ぶくぶく

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蛇水鍾乳洞8

 

 

 ◆ 特別観測会の夜 ◆

 

 

 夜の蛇水鍾乳洞は、昼間とは別の顔をしていた。

 

 観光客用の照明はすべて落とされ、入口付近だけ、足元を確かめられる最低限のランタンが灯っている。

 それより先――ロープで仕切られた「探検コース」の向こうは、相変わらずの濃い闇だ。

 

 入口の外では、天文部の簡易観測会が始まっていた。

 結先生と玲子、惣一郎、愛香たちが、三脚に載せた望遠鏡や双眼鏡を覗き込んでは「見えた」「今の流れ星じゃない?」と賑やかに声を上げている。

 

 彩女は、その少し後ろ――洞窟の口のところに立っていた。

 

 足元には、この日のために伊集院たちが用意した浅い水溜まりがある。

 元々あった窪地を少し整えて、上から流れてくる湧き水を静かに溜めるようにした、即席の「水鏡」だ。

 

 空を見上げると、山の稜線の向こうに星が散っている。

 反対に目を落とせば、その星々が、水面に裏返って揺れている。

 

(……ちゃんと、映るんだ)

 

 ほんの少し、胸が弾んだ。

 

「シ……シィ……」

 

 暗闇の方から、かすかな息づかいが聞こえる。

 

 ロープの向こう。

 ランタンの明かりが届かないぎりぎりのところに、零落したヘビ人間たちが集まっていた。

 

 岩の陰に身を潜め、半分だけ顔を出して水面を覗き込んでいる者。

 壁に張り付くようにして、空ではなく「逆さの夜空」を見つめている者。

 

 誰もロープは越えない。

 でも、その視線は一様に、水面の星へと注がれていた。

 

「いい夜になりましたね」

 

 背後から穏やかな声がした。

 伊集院貴也だ。少し離れたところで、受付のおばさんとおじさんに何か話をしていたが、一段落したらしい。

 

「蛇水さまたちも、ちゃんと約束を守ってくれています」

「……はい」

 

 彩女はうなずく。

 

「わたしも、約束……守れました」

 

 その言葉に、伊集院は小さく微笑んだ。

 

「君があのとき、安易に“力”を使わなかったからですよ。鬼は、鬼のまま“優しく”あれる」

「……なんか、その言い方ずるいです」

 

 彩女は視線をそらした。

 伊集院は、それ以上何も言わずに、一歩下がる。

 

「少し、一人で話してきてもいいですよ。向こうも、君に礼を言いたいでしょうから」

 

 そう言い残し、伊集院は外の観測組の方へ戻っていった。

 

 残された彩女は、そっと息を吸う。

 

 水面の星が揺れる。

 ささやかな風でもすぐに波立って、形が崩れてしまいそうだ。

 

(……少しだけ)

 

 胸の奥で、あのメロディが疼いた。

 

 闇を呼ぶ歌。

 歌えば、夜が濃くなる。星が鮮やかになる代わりに、何かを連れてきてしまうかもしれない。

 

 ――全部は歌わない。

 

 そう決めて、彩女は唇を湿らせた。

 

 声には出さない。

 喉の奥で、息だけを、ゆっくりと回す。

 

 ひゅう、と。

 

 洞窟の奥から吹き出していた冷たい空気が、一瞬だけ、その流れを変えた。

 入口付近の風が、ぴたりと止まる。

 

 水面の揺らぎがおさまり――星々の輪郭が、くっきりと浮かび上がる。

 

「……」

 

 ロープの向こう側で、ヘビ人間たちがざわめいた。

 

 崩れかけた顔。

 片目しか見えない者も、眼窩だけ光っている者も、それぞれが息を呑むように動きを止める。

 

 水面に映る夜空。

 

 夏の大三角。

 天の川。

 街の灯りに削られながらも、ここまで来れば、まだ十分に数えられる。

 

「シィ……シィィ……」

 

 誰かの喉が、震えた。

 

 子どもみたいな声だ、と彩女は思った。

 身体は歪んでいても、その感情は真っ直ぐだ。

 

「こっちがね」

 

 彩女は、水面の上にそっと指を差し出した。

 ロープのこちら側から、できるだけ水に影響を与えない距離を測りながら。

 

「一番明るいのがベガ。夏の大三角のひとつ」

 

 水面の中で、その星が小さく瞬く。

 

「こっちがアルタイル。あっちがデネブ。三つで、大きな三角形、分かる?」

 

 ヘビ人間たちは、じっと見つめていた。

 

 やがて、一体が、おそるおそる長い指を伸ばす。

 ロープの向こう、ぎりぎり水面には触れない高さで。

 

 細い指が、星々をなぞるように動く。

 

 三角形。

 川の流れ。

 その形を、覚え込むように。

 

「シィ……シ、シ」

 

 喉が、小さくリズムを刻む。

 さっきより、わずかに明るい音。

 

(……楽しい、って言ってる?)

 

 言葉は分からない。

 でも、胸に広がる温度は、恐怖や飢えのそれとは違う。

 

 水面に映る天の川を見て、別の個体が、両腕を広げる。

 自分の身体の横幅と、星の川の幅を比べるみたいに。

 

 また一体が、胸をとんとんと叩き、頭上の岩を指さし、水面を指さす。

 「ここにいるけど、上にもある」「でも今はここで見ている」――そんなジェスチャーに見えた。

 

「上には、出られないもんね」

 

 彩女は小さく呟く。

 

「でも、ここからなら、一緒に見れる」

 

 そう言ったとき、足元の水が、すこしだけ揺れた。

 

 洞窟の奥から、別の風が流れ込んでくる。

 黄泉の方角から――不死のヘビ人間が、静かに息を吐いた気配がした。

 

 直接その姿は見えない。

 けれど、さっき伊集院が“番人”として残してきた存在が、この水面の星影を、遠くから覗いているのだと分かった。

 

(届いてるといいな)

 

 彩女は、少しだけ目を閉じた。

 

 歌いたくなる。

 星を揺らさないように、闇を深くする歌を。

 

 でも、やっぱりやめる。

 

 これは、蛇水さまたちと、不死のヘビ人間と、人間が――全部いっしょに見ている星だから。

 

 わたしだけの歌で、色を変えてしまうのは、なんだかずるい気がした。

 

「シィ」

 

 近くの岩陰から、ひときわ小柄なヘビ人間が這い出してきた。

 あの日、彩女にひざまずいた個体だ。

 

 片方の腕が途中で折れ、代わりに尾が太くなっている。

 その尾で水をはたかないよう、慎重に身を寄せると――

 

 そっと、自分の胸を指差した。

 

「……“わたし”。」

 

 彩女は、彼(彼女?)の動きを真似て、自分の胸にも手を当ててみせる。

 

「安達、彩女。――アダチ、アヤメ」

 

 ヘビ人間は、むずかしそうに舌を動かした。

 

「……シ、ア……ダ……」

 

 それは、名前にもなりきれない、ぎこちない音の連なり。

 だけど、確かに「呼ぼう」としてくれている。

 

 じん、と胸が熱くなった。

 

「そっちの名前は、分かんないけど」

 

 彩女は、水面の星を見つめながら言った。

 

「また、来るから。その時、もう一回、教えて」

 

 ヘビ人間は、一拍置いてから、ぎゅっと胸に手を当てた。

 

 水面に映る星が、その腕を白く照らす。

 崩れた顔で、どうにか「笑う」形を作ろうとして――結局、うまくいかなくて、ただ目を細めるだけになった。

 

「シィ」

 

 短い音。

 

 それはたぶん、「約束」と「ありがとう」と「待ってる」が混ざった音だ。

 

 外から、惣一郎の「うおー、今の流れ星すげぇ!」という声が聞こえた。

 玲子が「どこどこ!?」と慌てている。

 

「彩女、こっちも見えるー!」

 

 愛香が手を振る気配もする。

 

「……今行くー」

 

 彩女は振り返って、そう返事をした。

 

 もう一度、水面を覗き込む。

 ヘビ人間たちの影越しに、星の川が揺れている。

 

(鬼でも、いいのかもしれない)

 

 人と、怪異と、その境目のどこかに自分がいるのなら。

 

 こうして、一緒に星を見ていられる鬼でいたい――ふと、そんなことを思う。

 

 彩女はそっと頭を下げ、ロープのこちら側へと下がった。

 

 背中に、シューシューという息づかいと、静かなざわめき。

 それらをまとったまま、今度は“人間側”の夜空へと駆けていった。

 

 

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