留守番
/*/ 隣同士の夜 /*/
金曜の夕方。
チャイムが鳴って、玄関に出ると、そこにはエコバッグを提げたうちの母と、その隣に青見が立っていた。
「彩女ー」
「ただいま。……って、あれ? 青見も」
首をかしげるわたしに、母が苦笑いを向ける。
「ごめんね、今日どうしても仕事が長引きそうなのよ。お父さんも帰り遅いって言うし……最近なにかと物騒でしょ? だから、青見くんに“見張り役”お願いしておいたの」
「見張り役て」
思わず突っ込むと、青見が肩をすくめた。
「まあ、そんな感じ。おばさんたち帰ってくるまで、ここにいろってさ」
「助かるわー。ご飯の材料は冷蔵庫に適当に入ってるから、悪いけど二人でなんとかしてね」
母はぺこりと頭を下げると、慌ただしく靴を履き替え、そのまま父と一緒に車で出て行ってしまった。
玄関のドアが閉まる音がして、家の中に静けさが落ちる。
「……なんか、すごい任され方してない?」
「まあ、隣だしな。うちから来るより早いし」
青見は、慣れた足取りでキッチンに向かっていく。
「とりあえず飯。冷蔵庫見せて」
「え、あ、うん」
冷蔵庫を開けると、中途半端な野菜と肉、卵、昨日の残り物。
このラインナップを見ただけで、わたしなら「出前取るか」で終了だ。
「ふむ」
「……どう? 絶望?」
「いや、普通。野菜炒めとスープと、卵焼きくらいは行けるな」
即答された。
「彩女は座ってていいよ。包丁危ないし」
「ちょっと、わたしを何だと思ってるの」
「“料理できない”って、自分で言ってたろ」
「ぐ……」
言い返せない。
結局、ダイニングの椅子に座って、わたしはキッチンで動く青見の背中を眺めることになった。
フライパンの前で、手際よく野菜を放り込んで、塩コショウ、醤油。
コンロ横では、鍋でスープがコトコトいっている。
「青見、ほんとに何でもできるよね」
「何でもはできねーよ。生きるために必要な最低限」
「それをサラッとやるところが、ね」
そんな他愛もない会話をしているうちに、テーブルには湯気を立てるおかずが並んだ。
「いただきます」
「……いただきます」
一口食べて、思わず声が漏れる。
「おいしい」
「そりゃよかった」
「なんか悔しい。娘のわたしより、この家のキッチン使いこなしてるのどうなの」
「おばさんのレシピ帳あるしな。あれ見ればだいたい分かる」
ちょっと胸がくすぐったくなる。
うちの味を、ちゃんと覚えてくれてるんだな、って。
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食器を洗ってくれている青見の横で、わたしはふきんを持って皿を拭く。
本当は洗い物も任せたいけど、さすがにそこまで丸投げするのは気が引けた。
「よし、これで一段落だな」
「ありがと。……じゃあ、お風呂入っちゃう?」
「そうするか。どっち先入る?」
「んー……先、入ってきなよ。追い焚きすればいいし」
そう言ってから、ふと思い出したように付け足す。
「私のシャンプー使って良いから」
洗面所の棚を指さすと、青見が「ああ」と頷いた。
「さんきゅ」
それだけ。
ほんとにそれだけ。
なんか、それがムカついた。
「……あんたさ」
「ん?」
「意識してないのは、それはそれで腹立つわね」
ぽろっと本音が出る。
青見は、タオルを肩に引っかけたまま、きょとんとこちらを見た。
「何をだよ」
「なにって……」
言葉に詰まる。
“隣の家の男の子が、自分のシャンプー使って風呂入る”って、もうちょっとこう、なんかあるじゃん。
わたしがむすっと黙ると、青見は少しだけ視線をそらして、ぼそっと言った。
「……おばさんたちの信頼を裏切れないだろ」
くすぐられたみたいに、胸の奥が変なふうに跳ねる。
「だから、変なこと考えねーようにしてんだよ。お互いにな」
最後の一言は、ほとんど聞き取れないくらいの小ささだった。
「……むう」
それが照れ隠しだってことくらい、長い付き合いだから分かる。
分かるけど、素直に「そっか」と言うのも悔しくて、唇を尖らせる。
「とにかく、先入ってこい。長風呂するなよー」
「分かってるって」
わたしはタオルを掴んで、先に浴室へ向かった。
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お湯に浸かっていると、さっきの会話がふと頭をよぎる。
(“変なこと考えねーようにしてんだよ”って……)
ああもう。
思い出したら余計に顔が熱くなった。
それはお湯のせいだけじゃない。
わたしが出て、着替えを済ませた後、今度は青見が風呂に行く。
廊下を通る足音だけでも、なんとなく意識してしまう自分が、さらに腹立たしい。
交代で風呂をすまし、ドライヤーで髪を乾かしてから、二人でわたしの部屋に移動した。
「じゃ、宿題の続きやるか」
「うん」
机の上には、放り出されたままの数学の問題集。
ベッドの横に置いた小さなローテーブルにノートを広げ、二人で並んで座る。
「ここさ、さっきの授業でやった公式そのまま使えば終わるから」
「あー、そこ聞きそびれたとこだ」
「ほら、黒板の写メまだ残ってる」
スマホの画面を見せてくる青見の肩が、思ったより近い。
シャンプーの匂いが、うっすらとした。
(……私の、だよね)
ちょっとだけ勝ち誇ったような気持ちになって、そんな自分にまた呆れる。
「おーい、集中しろ」
「してるし!」
そんなふうにわちゃわちゃやっているときだった。
ガチャ、と玄関の鍵が回る音がする。
「ただいまー」
母の声。
続いて、父の低い声も聞こえてくる。
「おーい、彩女ー? 青見くん、まだいるか?」
部屋のドアは開けっぱなしだったので、足音がそのまま近づいてきた。
コンコン、と一応ノックはされる。
「入るわよー」
「ちょ、ちょっと散らかってるから待っ……」
言い終わる前に、ドアが半分ほど開いた。
そこには――
床に広げた問題集とノート。
ローテーブルを挟んで座るわたしと青見。
ペンを持ったまま見上げる二人を見て、母は一瞬きょとんとして、すぐにニヤッと笑った。
「あら健全」
「お母さん!!」
顔から火が出そうになって、思わず立ち上がる。
父は父で、「本当に勉強してるんだな」と感心したように頷いている。
「何だ、てっきりゲームしてるかと思ったのに」
「うちはそんな不健全じゃありません!」
「“健全”の基準の話をしてるんじゃないのよ、彩女」
母がにやにや笑いながらそう言って、青見の方に目を向ける。
「青見くん、ご飯もお風呂もありがとね。助かったわ」
「いえ……お世話になりました」
青見は、いつもより少しだけかしこまって頭を下げた。
その横顔を見て、わたしはなんとなく胸の奥がくすぐったくなって、視線をそらす。
(……ほんと、健全、なんだけどさ)
でもきっと、この夜のことを思い出すとき。
あのシャンプーの匂いとか、ローテーブルの距離とか、母の「あら健全」とか――
そんな細かいところまで、ぜんぶセットで思い出すんだろうなと、なんとなく思った。