/*/ 土曜の朝の匂い /*/
土曜の朝。
いつもの住宅街のコースを、二人分の足音がリズムよく刻んでいた。
タン、タン、タン――
「はぁ……今日、ペース速くない?」
「いつも通りだって。昨日の夜食べ過ぎたんだろ」
隣で肩をならべて走る青見が、横目で彩女を見る。
彩女はポニーテールを揺らしながら、少しだけむっとした顔をした。
「夕飯、あんたが作ったやつよ? 美味しかったんだから仕方ないじゃん」
「それはそれ。走るのは走る」
朝の空気はまだひんやりしていて、吐く息が少し白い。
それでも、軽く汗ばんだ額に当たる風は、心地よかった。
ふと、彩女が自分の髪先を指でつまむ。
走るたびに、ふわりとシャンプーの香りが揺れた。
(……まあ、同じ匂いになるのは、ちょっと悪くない、かもだけど)
昨夜のことを思い出し、ひとりで勝手に頬が熱くなる。
「おい、信号変わるぞ」
「分かってるって」
小さな交差点を渡り、その先のゆるいカーブに差しかかったとき――
「わふっ!!」
元気すぎる声と同時に、茶色いもふもふが視界に突っ込んできた。
「うおっ! またお前か!」
大型犬カーが、全力で青見めがけてダイブしてくる。
慌ててスピードを緩めた青見が、いつものように腰を落として受け止めた。
「カー、減速って言ってるでしょ! ストーップ!」
少し遅れて、小柄な女子がリードを引っ張りながら走ってくる。
三森玲子。安生道場で見かける、中学生みたいな見た目の高校一年生。
「あっ、青見先輩と安達先輩だ」
息を整えながら、玲子が笑顔を向ける。
「おはようございます」
「おはよ、三森。今日もカー元気だな」
「おはよー玲子。朝散歩?」
「はい。お父さん、早起きすぎてわたしが付き合ってあげられないので、代わりにカーだけ……って、あ」
そこで、玲子の動きがぴたりと止まった。
カーが青見にじゃれついて、ぱたぱたと尻尾を振る。
そのたびに、ふわっと何かの匂いが漂った。
玲子は、きょとんとした顔で一歩近づく。
「……あれ?」
彼女の鼻先が、すん、とかすかに動く。
カーの匂いではない。もっと近くからする匂い。
シャンプーの香り。
青見の髪から。
そして、隣の彩女の髪から。
(同じ……?)
玲子は首をかしげ、それから二人を見比べた。
同じ朝のランニングウェア。
同じ汗のにじみ方。
そして――同じシャンプー。
「…………」
じわじわと、玲子の表情が意味ありげに変わっていく。
「えっと、三森?」
「玲子?」
二人が同時に名前を呼ぶと、玲子は「ふふ」と口元に手を当てた。
「ええ、お二人、そんな関係になっちゃったんですね」
にっこり。
その言葉に、反応は二つに分かれた。
一人は、青見。
「え? なに?」
完全に分かってない。
本当に、まっっったく分かってない顔。
もう一人は、彩女。
――一瞬、きょとん。
そのあと、じわじわと口元が吊り上がっていく。
「そう。そんな関係になっちゃったのよねぇ~」
わざとらしく、勝ち誇った声を出す彩女。
ニヤリと笑って、青見の腕に軽く自分の腕を絡める。
「ちょ、おま――」
「ねー玲子。わたしたち、昨夜からずーっと一緒だったから」
「はい! 知ってます!」
玲子が、なぜか元気よく返事をする。
「青見先輩、昨日、安達先輩の家に“見張り”に行くって道場で言ってましたから。
そっかぁ……なるほどぉ……“見張り”ねぇ……」
明らかに納得の仕方がおかしい。
「いや待て違う。お前、何をどう解釈して――」
「だってシャンプーの匂い、同じですよね?」
玲子の追撃。
すかさず彩女が、さらに燃料を投下する。
「そうなの。私のシャンプー、使って良いって言ったから。ね?」
「お、おう……ありがとう、とは思ってるけど……」
青見が、わずかに耳を赤くしながら答える。
その様子を見て、玲子の目が「ほら見たことか」と言わんばかりに細くなる。
「……お二人とも、否定しないんですね?」
「事実だし?」と彩女。
「いや事実だけどニュアンスが違うだろそれは」と青見。
言い合っている二人を見ながら、玲子はふふん、と満足げに頷いた。
「分かりました。わたし、誰にも言いませんから」
「いや待てホントに待て、今すぐ訂正させろ」
「……玲子なら、いいかな」
彩女が、さらっと爆弾を置く。
青見が「お前まで何言ってんだ!」と抗議する横で、玲子はますます楽しそうだ。
「大丈夫ですよ東先輩。こういうのは、本人たちが否定してもあんまり意味ないって、お父さんが言ってました」
「教授、何教えてんだよ……!」
カーがその場の空気などお構いなしに、「遊ぶ? 走る?」と言わんばかりにリードを引っ張る。
「じゃあ、わたしたちこれで。カーがコース覚えちゃって、このあと安生道場まで行きたがるので」
「ああ、また道場でな」
「玲子、またねー」
手を振って走り去っていく玲子とカー。
茶色いもふもふが角を曲がって見えなくなるまで見送ってから、ようやく静けさが戻った。
「……お前さ」
「なに?」
青見が、じとっとした目で彩女を見る。
「わざとだろ、今の」
「さあ? なにが?」
彩女は、わざとらしく髪を揺らす。
ふわりと、やっぱり同じシャンプーの匂いがした。
「でもさ」
軽く息を整えながら、彩女はぽつりと言う。
「“そんな関係”って言われて、全力で否定されるのも、それはそれで腹立つんだよね」
横顔でそう言われて、青見は一瞬、言葉を失った。
返す言葉を探しているうちに、彩女が先に走り出す。
「ほら、置いてくよ。ランニング再開!」
「……はいはい」
青見も、その背中を追いかけて走り出した。
土曜の朝。
住宅街に二人分の足音と、どこか同じ匂いの風が、軽く流れていった。