/*/ 助っ人ランナー /*/
再び走り出して、しばらくは呼吸と足音だけが続いた。
住宅街を抜けて、校門へと続く緩やかな坂に差しかかったあたりで、彩女がふっと口を開く。
「そういえばさ」
「ん?」
「陸上部に助っ人頼まれてるのよね」
「陸上?」
意外そうな声を出す青見に、彩女はわざと偉そうに顎を上げてみせる。
「そう、陸上。ちゃんとした公式戦。
1600mリレー。一人出られなくなっちゃったんだって」
「1600って……4×400か」
青見が、すぐに距離を換算するあたりが、いかにも運動バカっぽい。
「よくそんな急に人足りなくなるな」
「インフル。仕方ないでしょ」
彩女は肩をすくめる。
「で、“安達なら走れるだろ?”って、顧問と部長に囲まれてさ。
優勝が懸かってるって言われちゃね……断りづらいじゃない」
そこまで言って、ほんの少しだけ視線をそらした。
「……で?」
「で、ってなにが」
「靴あんの?」
青見の問いは、妙に現実的だった。
彩女は、一拍おいてから、誤魔化すみたいに笑う。
「……優勝が懸かってるって言われちゃね。
……買っちゃった」
「買ったんかい」
「だってさ。体育館シューズで走るわけにいかないじゃん」
昨日の放課後、スポーツショップで選んだ真新しいランニングシューズ。
店員さんに「初心者でも走りやすいですよ」とすすめられて、つい財布の紐が緩んだ。
「ユニフォームは、サイズまあ合うし」
陸上部の一年の子と、だいたい体型が似ていたのも幸いだった。
「へー」
青見が、横目でじろっと彩女を見る。
「見に行っても?」
さらっと言うくせに、声がほんの少しだけ上ずっていた。
「……すけべ」
即答。
「なんでだよ!?」
「だってユニフォームよ? 太もも丸出しよ?」
彩女はわざとらしくスカートの裾をつまんでみせる。
「そんなの“見に行く”とか言われたら、そりゃもうすけべでしょ」
「そ、そんなんじゃ……!」
青見が、言い訳を探すみたいに空を見上げる。
「いや、見たいけどさ」
最後の一言は、予想外に正直だった。
彩女は思わず足を止めかけて、慌ててペースを戻す。
心臓のドキドキが、ランニングのせいなのか、その言葉のせいなのか分からなくなる。
「……素直に言えばいいってもんじゃないんだからね」
「お前が変なツッコミするからだろ」
「ふふん」
勝ち誇ったように鼻を鳴らす。
「じゃあ、ちゃんと応援席から真面目に見てるなら、特別に許可してあげるわ」
「最初からそう言えよ」
「“見たいけどさ”とか言うからでしょ」
言い合いながらも、二人の足は同じリズムで前に進む。
坂を上りきった先、グラウンドの向こうに、逢瀬学園の校舎が朝日に白く光っていた。
そのトラックの上で、自分がバトンを受け取って走る姿を想像してみる。
観客席には、クラスメイト。陸上部のメンバー。
そして――
(……ちゃんと、見てなさいよね)
隣で走る青見を、ちらりと盗み見る。
彼は、まだ何も気づいていない顔で前だけを向いていたけれど。
彩女の口元は、自然と少しだけ上向きになっていた。
/*/ スタンドの真ん中 /*/
午後の陸上競技場は、思った以上に人が多かった。
他校の応援も混じって、スタンドは色とりどりのジャージと学校名の入った横断幕で埋まっている。
その一角――逢瀬学園の応援席。
なぜか青見は、ど真ん中に座らされていた。
左右を挟むのは、安達彩女の両親だ。
(いやこれ、席順おかしくね?)
右隣では、母親が双眼鏡を首から下げ、プログラムを熱心にチェックしている。
左隣では、父親が腕を組んで黙ってトラックを見ている。
その真ん中。
青見は、なんとなく居心地悪そうに姿勢を正した。
「青見くん、見える? 前の人背高いけど」
「あ、いえ、大丈夫です……」
母親に気を遣われ、妙にかしこまってしまう。
(いやほんとは、彩女の親と並んで応援とか、フツーにハードル高いんだけど……)
視線をトラックに向ける。
個人種目がひと通り終わり、いよいよプログラムの最後に近い。
『続きまして、女子1600mリレー、決勝です――』
アナウンスが流れると、応援席が一段とざわめいた。
各レーンに、学校ごとのユニフォームをまとった四人組が並んでいく。
逢瀬学園の女子リレーも、その中にいた。
「……いた」
スタート地点近く、第二走者の待機ラインのあたり。
逢瀬学園のゼッケンをつけた四人のうち、一人だけ頭一つ抜けて背の高い女子がいる。
安達彩女。
セパレートタイプのユニフォームは、普段の制服やジャージとはまったく違う。
露出しているお腹は、ただ細いだけじゃなく、しっかりと腹筋のラインが浮かんでいた。
太ももも、白くて華奢に見えて、その実しっかりと筋肉がついている。
(……なんか、思ってたより“陸上選手”してんな)
青見は、思わず目を細めた。
普段の運動神経の良さは知っている。
けれど、改めてユニフォーム姿を見ると、「走れる人間」としての説得力が違って見えた。
周囲からも、ぽつぽつと声が聞こえる。
「あれ? あの背の高い娘、逢瀬にあんな子いたっけ?」
「初めて見る顔じゃない?」
すぐ横の列の保護者らしい女性が、ひそひそと話す。
その会話に、右隣の母親がぱっと顔を向けた。
「うちの娘です」
誇らしげに、即答。
「ああ、そうなんですね。スタイルいいわねぇ」
「でしょう?」
まるで自分のことのように胸を張る母親。
その横で、父親が「うん」と短く頷いた。
「青見くん」
「は、はい」
急に名前を呼ばれ、背筋が伸びる。
「しっかり見ておけ。あいつ、昨夜、自分が何も出来ねえって顔してたくせに、夜更かししてイメトレしてたからな」
ぼそっと父親が言う。
青見は、一瞬ぽかんとしてから、ふっと笑った。
「……そういうとこ、らしいですね」
/*/
スタートのピストルが鳴る。
第一走者が一斉に飛び出した。
歓声が一段高くなる。
「がんばれー!」「逢瀬ー!」
学校ごとの応援が入り混じった声の中で、逢瀬学園の最初のランナーは、まずまずのスタートを切った。
最初のコーナーを抜けた時点で、順位は三番手。
「悪くないわね」
母親が、双眼鏡を覗き込みながら言う。
第二走者へ。
バトンの受け渡しゾーンに、彩女の姿が見える。
腕を前に伸ばし、スタートの姿勢で待つ横顔は、いつものおしゃべりな彼女ではない。
集中した目。
吐く息を整えているのが、遠目にも分かる。
バトンが近づいて――
スッ、と腕が振られた。
「……うま」
思わず、口からこぼれる。
初めてとは思えないほど、綺麗な受け渡しだった。
そこから、彩女の加速は早かった。
ぐん、と一歩が伸びる。
長い脚がトラックを蹴るたび、セパレートの裾から伸びる太ももがしなやかに動く。
最初の直線で、前を走る二人との差がみるみる詰まっていく。
「おお……?」
応援席にも、ざわめきが走った。
「逢瀬、上がってきたぞ」
「誰だあの子」
カーブに入る時点で、三番手との距離はほとんどゼロになる。
「彩女!」
思わず、立ち上がりそうになる体をぐっとこらえながら、青見が喉の奥で名前を呼んだ。
(行け)
声には出さない。
でも、その一言が胸の中で熱を持つ。
カーブを抜けるとき、彩女は内側に切れ込むようにして二人を一気に抜き去った。
ストライドが伸びる。
腕の振りも、まったくブレない。
「……マジか」
第一コーナーを抜ける頃には、すでにトップに躍り出ていた。
「彩女ー!!」
母親が、思いっきり立ち上がって叫ぶ。
父親も珍しく身を乗り出していた。
「そのまま行けぇー!」
応援席の熱が一気に上がる。
逢瀬学園の生徒たちも、立ち上がって声を張り上げている。
彩女は、最後までペースを落とさなかった。
直線に入っても、肩の上下は少ないまま。
むしろ、ラストスパートでさらにギアを上げる。
後ろとの差は、どんどん開いていく。
ぶっちぎり。
そんな言葉がぴったりだった。
(すげぇな、おい)
初めて見る本気の走り。
中学の時に陸上やってたとはいえ、ここまでとは思っていなかった。
バトン渡しゾーンが迫る。
「頼んだ!」
そう言ったかどうかは、もう応援席からは聞こえない。
でも、次走者に差し出された腕に、迷いはまったくなかった。
彩女が渡したバトンは、完全に“勝ちバトン”になっていた。
/*/
最終走者が力を振り絞ってフィニッシュラインを駆け抜ける。
逢瀬学園のアンカーが、一位でテープを切った瞬間――
スタンド全体が、どっと沸いた。
「優勝だーー!!」
「やったぁぁ!!」
彩女は、息を切らせながらも、アンカーのところまで走っていき、勢いのまま抱きついた。
四人で円になって跳ねる。
その様子を見て、母親は目頭を押さえながらスマホで写真を撮りまくっていた。
「撮った? 青見くん、ちゃんと見てた?」
「見てましたよ」
青見は、少しだけ笑いながら答える。
「最初の直線で三番から一番まで上がるの、普通に反則レベルですよ」
父親が、ふっと口元を緩める。
「だろう。スピードは、昔からあったんだ」
トラックの内側では、表彰式の準備が始まっていた。
インタビューボードの前に、優勝した逢瀬学園のリレーメンバーが並ぶ。
その真ん中で、ゼッケンの数字を押さえながら笑っている背の高い女子。
セパレートのユニフォームに包まれた、引き締まった身体。
さっきまで全速力で走っていたとは思えないくらい、もう表情には余裕が戻っている。
(……ほんと、すげぇよ)
拍手が鳴り、賞状とトロフィーが渡される。
そのあと、応援席側をバックに、優勝チームの記念写真が撮られた。
カメラマンが、「じゃあ、応援の皆さんも入って~」と声をかける。
その流れで、なぜか青見も、彩女の両親と一緒にトラックに降りることになってしまった。
「ちょっ、オレは別にいいんで――」
「なに言ってるの。青見くんも“関係者”でしょ」
「そうだぞ、ランニングつき合ってくれてるしな」
父と母に左右から肩を押され、半ば強制的に列の端へ。
カメラの前で、彩女と目が合った。
汗で髪が少し額に張りついている。
それでも、笑顔はやたらとまぶしかった。
彼女は、わざとらしく胸を張ってみせる。
「どう? 見応えあったでしょ、ユニフォーム」
小声でそう囁いて、ニヤッと笑う。
「……走りが、な」
青見は、わざとそっちだけを強調した。
それが悔しいのか嬉しいのか、自分でもよく分からない顔をしながら。
シャッターの音が、カシャ、と鳴る。
その一枚には――
トロフィーを掲げて笑う彩女と、
その両親と、
そして、ちょっときまり悪そうに立つ青見の姿が、しっかりと焼き付けられていた。