◆ 朝の散歩道・バレンタイン ◆
バレンタイン当日の朝は、いつもより空気がきゅっと冷たかった。
まだ太陽が低くて、住宅街の影は長い。
吐く息は白く、アスファルトの端には、溶け残りみたいな霜がきらきらしている。
「……さっぶ」
「ほら、最初の一キロ我慢すれば温まるって」
ジャージ姿の彩女がぶつぶつ言い、横で青見が淡々とペースを刻む。
二人分の足音が、リズムよく朝の道に刻まれていく。
(十月の、あの夜から……もう、そんな経つんだ)
ふと視界の端に、学校の校舎の屋上が浮かぶような気がして、彩女はほんの少しだけ顔をそむけた。
闇を呼ぶメロディの一件のあと。
病室で聞いた「好きだ」という言葉。
胸がいっぱいになって、何も言えなくて、ただ、泣きながら抱きついた自分。
あの瞬間を思い出すと、今でも胸の真ん中がじん、と熱くなる。
(……あたしは、あれで“返事したつもり”なんだけど)
彼氏彼女、のつもりでいる。
手をつないだり、肩を並べて帰ったり。
他の女子が青見にちょっかい出すと、普通にムッとするし。
(でも、“好き”って、ちゃんと言葉にしたことは……ない、んだよね)
喉の奥で、まだうまく形にならない言葉。
言わなくても分かる、で済ませてきた自分を思うと、少しだけ胸がちくりとした。
そんなことをぼんやり考えながら、角を曲がった瞬間――
「わふっ!!」
「うおっ、来た!」
もふもふの弾丸が、路地の向こうから飛び出してきた。
茶色の大型犬カーが、一直線に青見めがけて突撃してくる。
「カー! ストップ、ストップー!!」
少し遅れて、小柄な女の子の声。
だが、カーのブレーキは今日も死んでいる。
ドンッ。
かなりの体当たりだが、青見はさすがに慣れたものだ。
ぐっと踏ん張って、上体を少し後ろにそらしながらも、ちゃんと受け止める。
「……おはよう、カー」
撫でる手を、カーが嬉しそうにぺろぺろ舐めた。
「も、もう……ごめんなさい青見先輩! 怪我してないですか?」
息を切らせながら駆け寄ってくるのは、紺のセーラー服にマフラーをぐるぐる巻いた玲子だ。
頬まで真っ赤なのは、寒さのせいだけじゃなさそうだった。
「大丈夫。もう慣れたし」
「慣れたってどうなのよ……」
「安達先輩も、おはようございます」
「おはよ、玲子ちゃん。……ホント、カーは青見が好きね」
「オレよりテンション高いよな」
「そこ否定しないんだ」
いつものやり取り。
でも――今日は、どこか違う空気が混じっていた。
彩女はすぐに気付く。
(……なんか、そわそわしてない?)
玲子の手が、リードを持ちながら小さく震えている。
マフラーの中の唇を、きゅっと噛んでいて、視線が落ち着かない。
カーを一歩、自分の後ろに引き寄せて。
「……あのっ!」
玲子が、小さく息を吸い込んだ。
「ん?」
「どしたの、玲子ちゃん?」
制服のポケットから、彼女は小さな包みを取り出す。
赤と茶色のチェックの包装紙に、少し不器用なリボン。
それを両手でぎゅっと握りしめたまま、一歩、前へ出る。
「青見先輩!」
カーのリードを足で踏んで動けないようにしながら、玲子は顔を上げた。
目が、真っ直ぐに青見を捉える。
「これ、受け取ってください!」
小さなチョコレートの包みが、胸の前に差し出される。
青見は、瞬きをひとつしてから、戸惑い混じりに手を伸ばした。
「バレンタインだしな。ありがとう」
「ち、違います!」
きゅっと、玲子の声が上ずる。
「“義理”とか“いつもありがとうございます”とか、そういうんじゃなくて……」
マフラーの中まで真っ赤にして、ぎゅっと目を閉じた。
「青見先輩、好きです!!」
朝の冷たい空気が、一瞬で止まった。
彩女の心臓が、どくんと跳ねる。
(……来た)
頭のどこかで「そりゃそうだ、あんた格好良いもん」と冷静に思う自分と、
「ちょっと待てや」とテーブルひっくり返したい自分が、同時に騒ぎ出す。
カーだけが状況を理解しておらず、しっぽだけ元気に振っているのが余計に腹立たしい。
対する青見は――
「…………」
玲子とチョコと、その横で固まっている彩女を、順番に見た。
戸惑いと、それでも崩れない真剣さが、表情に混じっている。
「……ありがとう」
まず、ちゃんと頭を下げた。
「オレなんかにそうやって言ってくれて、すごい嬉しい」
玲子の肩が、ぴくっと震える。
「でも、ごめん」
ゆっくりと、首を横に振った。
「その気持ちは受け取れないよ」
きっぱりとした言葉。
でも、突き放すんじゃなく、できるだけ丁寧に伝えようとしているのが分かる声だった。
「オレ――」
ほんの一瞬、視線が横の彩女に流れる。
(……っ)
見られた方も、反射的に目をそらした。
十月の屋上での光景が、ぐわっと蘇る。
「オレ、彩女が好きなんだ」
はっきりと名前付きで言われて、彩女の顔まで一気に熱くなる。
「ちょっ……!」
拒否する理由のない、抗議しか出てこない。
(知ってる! 知ってるけど! 改めて人前で言うなバカ!!)
玲子は、しばらく俯いたまま黙っていたが――やがて、小さく息を吐いた。
「……ですよね」
「三森……」
「なんとなく、そうかなって思ってました」
顔を上げた玲子の目は、潤んでいたけれど、ちゃんとまっすぐだった。
「十月のあとから、なんか……空気、変わりましたもん。
二人で一緒にいる時の感じとか」
十月。
闇を呼ぶメロディのあとの、あの病室のことだと、彩女にもすぐ分かった。
(……やっぱ、周りから見ても“そう”なんだ)
彼氏彼女、って、そういうふうに見えてるんだ。
嬉しい反面、胸の奥の「でも」という小さな棘も、ちくりと主張してくる。
「じゃあ、一個だけ聞いてもいいですか」
玲子は、チョコを握り直しながら尋ねた。
「ちゃんと安達先輩に伝えてます?」
「え?」
「その、“好き”って気持ち。
ちゃんと、安達先輩に言ってます? 言葉で」
問いかけは、青見に向けられているはずなのに――
(……ぐっ)
胸の真ん中を、真っ先に刺されたのは彩女だった。
十月の夜。
あのとき、青見ははっきり「好きだ」と言ってくれた。
自分は、泣いて、しがみついた。
それで返事をしたつもりでいたけれど。
(……あたし、自分から“好き”って言ったこと、ない)
喉の奥に、言えなかった言葉がずっと詰まっているのを、改めて突きつけられた気がした。
青見は、短く目を伏せてから、玲子を見た。
「……うん」
静かに、でも、迷いのない声で答える。
「ちゃんと伝えてる。言葉でも、これからも伝えるつもり」
十月の屋上だけじゃない。
そのあとも、不器用ななりに、彼は態度で、言葉で、積み重ねようとしてくれている。
そう思うと、今度は別の意味で胸が熱くなった。
(ずるい……)
彩女は、ぎゅっとジャージの裾を握る。
(あんただけ、ちゃんと真っ直ぐ言えてるじゃん……)
玲子は、その答えを聞いて、少しだけ笑った。
「なら、よかったです」
そう言って、差し出していたチョコを、今度はそっと青見の手のひらに乗せる。
「気持ちの分はお返しされちゃったので……。
これは、味見だけしてくれたら嬉しいです。“先輩”として」
「……ああ。ありがたく、もらう」
包みの軽さ以上のものが、手の中に乗った気がした。
「カー、行こっか」
玲子がリードを引くと、カーが名残惜しそうに青見の手をもう一回ぺろっと舐める。
「安達先輩」
「ん?」
「ちゃんと言った方がいいですよ」
ふいに、玲子は彩女の方を見た。
「“分かってるでしょ”って思ってても、言ってもらえたら、やっぱり嬉しいから」
「……っ」
そのまま、照れ隠しみたいに笑うと、
「じゃあ、失礼します!」
と頭を下げて、カーと一緒に走り去っていった。
小さな背中と、大きな背中が並んで遠ざかっていく。
残されたのは、青見と彩女と、気まずい空気。
「…………」
「…………」
さっきまでより、空気が冷たく感じるのは気のせいだろうか。
「……えっと」
先に耐えきれなくなったのは、やっぱり彩女だった。
「さっきのは、その、ありがとね。ちゃんと断ってくれて」
「当たり前だろ」
即答されて、逆に顔が熱くなる。
「当たり前、って……」
「オレ、彩女の彼氏だし」
さらっと言われて、心臓が変な音を立てた。
「ちょ、ちょっと! そういう単語を人目のあるところで気軽に使うな!」
「今、人いないし」
「カーと玲子ちゃん通ったでしょ!」
「もう行ったし」
「うるさい!」
がなりながらも、「彼氏」という単語がぐるぐる頭の中を回る。
彼氏。
そう呼ばれるのは、嫌じゃないどころか、ちょっと嬉しいのがムカつく。
「……あのさ」
言い合いが一段落したところで、青見が少し真面目な声を出した。
「さっきの、三森の言ったこと。別に、急かすつもりとかじゃないからな」
「は?」
「“言った方がいいですよ”ってやつ。
オレは、彩女がオレのことどう思ってるか、ちゃんと分かってるつもりだし」
「な」
喉まで出かかった言葉が、そこで止まる。
(分かってるなら、いいでしょ、って……言いたいけど)
玲子の「言ってもらえたら嬉しい」という言葉が、頭の隅でくすぶっている。
十月の夜、自分だって、言葉で言ってもらえて嬉しかったくせに。
(……あれと同じことを、今度はあたしがやるのか)
想像しただけで、顔から湯気が出そうだ。
「……べ、別に、急かされなくても」
視線をそらしたまま、彩女は小さく呟いた。
「ちゃんと、タイミングは……探してる、から」
「彩女」
「今ここで言えとか言ったら、マジで殴るからね!?」
「言わねぇよ」
苦笑しながら、青見は肩をすくめる。
「その“タイミング”、ちゃんと掴めるように、オレもちゃんと彼氏やるわ」
「何その宣言」
「そのうち、“言いやすい空気”ぐらいは作れるように鍛えとく」
「空気づくり鍛えるってなによ。筋トレみたいに言うな」
ツッコミながらも、胸の奥が少し軽くなっているのを、彩女は自覚していた。
言葉にするのは、まだ怖い。
でも、「そのうち言う」と自分で言ってしまった以上、逃げ道は自分で塞いだようなものだ。
(……ま、バレンタインだし)
ポケットの中には、自分が昨晩死にそうになりながら作ったチョコが入っている。
放課後、ちゃんと渡すつもりのやつ。
(今日じゃなかったら、いつ言うのって話だしね)
……とはいえ、今ここで言う度胸はない。
彩女は、わざと話題を切り替えるように、手を叩いた。
「と、とりあえず! 走る! タイム落ちてる!」
「今この流れからインターバルに戻るの?」
「うるさい! バレンタインだからってサボっていい日じゃない!」
そう言って、いつもよりほんの少し速いペースで走り出す。
そのすぐ横に、青見が並ぶ。
並んで伸びていく二筋の白い息は、十月のあの日より、少しだけ近く、少しだけあたたかかった。