「愛香、さ……その、さ」
休日の午後。
惣一郎の部屋で、ゲームのコントローラーをいじりながら、惣一郎はずっとタイミングを計っていた。
ようやくポーズボタンを押して、彼は隣に座る愛香の方に向き直る。
「ん?」
「……メイド服、着てくれない?」
言った。
言ってしまった。
一瞬だけ、愛香の瞬きが止まる。
すぐにふわっと口元がほどけて、いつもの柔らかい笑顔が浮かんだ。
「いいよ?」
「マジで!?」
「うん、その代わり――」
愛香は楽しそうに人差し指を立てた。
「彩女ちゃんと青見くんも呼んで、彩女ちゃんにも着せたいな」
「……あ」
惣一郎の顔から、ほんの少しだけ血の気が引く。
(いや別に嫌じゃないけど! けど! 今日だけは俺のためだけに、っていう……!)
その表情の変化を、愛香は見逃さない。
くすっと喉の奥で笑って、惣一郎の腕にそっと自分の腕を絡める。
「ふふ、そんな顔しないで、惣くん」
「か、顔って……」
「二人が帰ったら、ゆっくり、ね」
「……おう」
耳まで赤くなりながらも、返事だけはちゃんとする惣一郎。
愛香は満足そうに頷いて、スマホを取り出した。
「じゃあ、招集かけよっか」
◇ ◇ ◇
「――で、なんでオレまで呼ばれたんだろうね?」
青見は、ため息まじりにそう言いながら、惣一郎の部屋のドアをくぐった。
後ろには、紙袋を抱えた彩女が続く。
「え、だってメイド服って言ったら、誰かに見せつけないとつまらないじゃない?」
「見せつける前提なんだ……」
そして部屋に入った瞬間、二人とも言葉を失った。
ベッドの上には、すでにメイド服が二着。
フリルたっぷり、レースのエプロン。
その横で、愛香が嬉しそうにハンガーを揺らしている。
「いらっしゃい。彩女ちゃんはこっちね」
「え、ちょっと待って心の準備が……」
「大丈夫大丈夫、絶対似合うから」
「そういう問題じゃ――」
抗議の声もそこそこに、彩女は紙袋を奪われ、そのまま愛香に押し込まれるようにして惣一郎の部屋の奥、簡易の仕切りの向こうへ。
「青見くんは、こっち向いて待っててね?」
「……見ないから安心して着替えてきてくださいってこと?」
「うん♪」
青見は苦笑しながら、壁を背にして座り直す。
隣では惣一郎が、妙に落ち着かない様子でスマホをいじっていた。
「お前さ……」
「なんだよ」
「シンプルに羨ましい」
「俺だって緊張してんだよ!」
そんなやりとりをしているうちに――
「惣くん、準備できたよー」
ひょい、と仕切りから顔を出した愛香に呼ばれ、二人は同時にそちらを向いた。
「……おお」
そこにいたのは、黒のメイド服に身を包んだ愛香。
フリルのエプロン、頭にはカチューシャ。いつもより少しだけ巻いた髪が、肩でふわりと揺れる。
すっと一歩前に出て、彼女は優雅にスカートの裾をつまんでお辞儀をした。
「ご主人さま、お呼びでしょうか?」
「や、やば……可愛い……」
「ありがと♪ でも本番は、こっちだから」
そう言って、愛香は仕切りの向こうに向かって手招きする。
「彩女ちゃん、出番だよ~」
「……ほんとにやるの?」
「めっちゃ似合ってるから、早く!」
もぞもぞと布ずれの音がして――
「……ど、どう、かな」
おずおずと姿を現した彩女は、ふわっとしたホワイトメイド服。
ふだんのラフな格好とは違い、胸元まできちんとボタンが留められ、膝丈のスカートが上品に揺れる。
その姿を見て、青見の喉がごくりと鳴った。
「――彩女がお淑やかに見える」
「はぁ!? ちょっと、それどんな意味!?」
「いや、その……えっと……」
彩女の頬が、みるみるうちに赤く染まる。
「やっぱり、お淑やかな方が良い、の?」
「いや、そうじゃなくて!」
青見は慌てて首を振った。
「どんな彩女でも、彩女が一番だよ」
「っ……!」
彩女は一瞬固まってから、顔を両手で覆ってうつむいた。
「そういうことサラッと言わないでよ、バカ……」
「いや今のは完全に本音だから……」
「余計タチ悪い!」
わたわたと揉めはじめる二人を見ながら、惣一郎は肩をすくめる。
「またやってるよ、あの二人」
「ね。ふふっ」
愛香は満足そうに笑って、惣一郎のすぐ隣にちょこんと座り直す。
「じゃあ、ご主人さま。今日は特別に、メイドさんがおもてなししてあげるね」
彩女ちゃん、青見くん担当。わたし、惣くん担当」
「いやちょっと待って、なんでオレにメイドがつく流れになってるの?」
「青見くん、“旦那さま”って呼ばれてみたい?」
「やめてくれ……!」
部屋の中には、笑い声と、少しだけくすぐったい空気。
惣一郎は、愛香の横顔を見ながら、心の中でそっと思う。
(……まあ、みんなで騒ぐのも悪くねぇか)
そんな彼の表情を、愛香は横目でちらりと見て、小さく囁いた。
「ちゃんとね、ふたりが帰ったら――惣くんだけのメイドになるから」
惣一郎の耳が、また真っ赤になる。
「……おう」
窓の外では、夕焼けが少しずつ色を濃くしていく。
メイド服騒動の一日は、まだまだこれからだった。
◇ ◇ ◇
「じゃ、まずは記念撮影からだよね!」
唐突に愛香が宣言した。
てきぱきと机の上を片づけ、スマホ用の簡易スタンドを取り出して、ベッドの前に設置する。
「お、おい。何その準備いい感じ」
「こういう日がいつか来ると思ってね~」
「前から狙ってたのかよ……!」
惣一郎が頭を抱える間に、愛香はちゃっかり彩女の背中を押して、ベッドの端に座らせる。
「はい彩女ちゃん、もうちょっと膝そろえて。スカート、ふわっとさせて」
「こ、こう……?」
「そうそう、完璧。お淑やかモード、ね」
「さっきからそれ押すのやめてくれる!?」
ぷんすか怒りながらも、言われたとおりに膝を揃えてしまうあたり、彩女もまんざらじゃない。
「はい、青見くんはこっち」
「僕も写るんだ……?」
「むしろセットだよ。ね、彩女ちゃん?」
「ど、どこ見て言ってんのよ!」
文句を言いながらも、彩女はちょっとだけ腰をずらし、ぽん、と横を叩く。
「……ほら、早く座んなさいよ」
「はいはい」
青見は苦笑しながら、その隣に腰を下ろした。
さっきから胸の辺りがやけにそわそわする。
「じゃあ――はい、旦那さまに寄り添うメイドさんって感じで」
「テーマ重いな!?」
そんな突っ込みも無視して、タイマーをセットする愛香。
「惣くんはこっち。わたしの横」
「お、おう」
結果、
――メイド服の二人を真ん中に、惣一郎と青見が両脇を固める、謎のダブルカップル構図が出来上がった。
「じゃ、撮るよー。3、2、1――はい笑って♪」
パシャリ。
「あ、もう一枚。今度は惣くん、わたしの頭なでなでして」
「えっ」
「何そのリクエスト」
「はい、タイマー押した、3、2、1――」
「ちょ、ちょっと待――」
パシャ。
画面には、照れながらも愛香の頭に手を置いた惣一郎と、その隣で「うわぁ」という顔をしている青見。そして、腕を組んだまま目をそらしている彩女がばっちり写っていた。
「……なんかさ」
「ん?」
「僕らだけリア充イベントに巻き込まれてない?」
「何いってんだよ。お前もど真ん中の一人だろ」
「ど真ん中って何だよ」
ぶつぶつ言い合う青見と惣一郎を見て、愛香は楽しそうに画面をスクロールする。
「ほら彩女ちゃん、見て見て。めっちゃ似合ってる」
「う、うわ、なにこの……別人みたい」
「いい意味で、ね。これ保存っと」
「変なとこに出さないでよ!?」
「出さないよ~。惣くんにだけ見せる」
「それはそれで恥ずかしいんだけど!」
そんな騒ぎのあと――
◆ メイドさんの「おもてなし」ターイム ◆
「では改めて。本日のメイドは、松坂愛香と――」
「……彩女です」
「がお世話させていただきます」
ちゃっかり自己紹介を始める愛香。
彩女も、若干やけくそ気味に頭を下げる。
「それでは、ご主人さま方。お飲み物は?」
「じゃあコーヒーで」
「同じので」
きっちりした口調に合わせて返事する二人。
愛香は「かしこまりました」とぺこりと頭を下げると、台所へ向かおうとして――ぴたりと振り返った。
「……って言いたいところなんだけど、惣くん家のキッチン、場所わかんないから案内して」
「ですよね!」
結局、エプロン姿の惣一郎が先導し、その後ろをメイド服の二人がついていくという、よくわからない列ができあがる。
リビングからその様子を見送っていた青見は、ふう、と息を吐いた。
「なんか、すごいもの見てる気がするな……」
「ふふ。青見くん」
ふいに、後ろから声をかけられる。
振り返ると、愛香が顔だけひょっこりのぞかせていた。
「な、何?」
「彩女ちゃん、今日すごく嬉しそうだよ。ちゃんと褒めてあげてね?」
「……さっきも褒めたけど」
「もっと。言葉にしないと伝わらないことって、結構多いから」
言い残して、ひらりと手を振って去っていく。
ぽかんと取り残された青見は、少しだけ頬をかいた。
「……ああいうとこだよな、愛香は」
しょうがないな、と苦笑しつつも――
心のどこかで、確かにそうかもしれないと思っている自分がいた。
◇ ◇ ◇
しばらくして、湯気の立つマグカップと、お菓子の皿が運ばれてくる。
「お待たせしました、ご主人さま」
「ど、どうぞ……」
トレイを持つのは愛香。
その横で、緊張した面持ちでクッキーの皿を差し出すのは彩女だった。
「お、ありがとう」
「サンキュ」
惣一郎と青見が受け取ると、彩女はホッとしたように胸をなでおろす。
「ね、ちゃんとできたでしょ?」
「……まあ、その。ちょっとだけ楽しいかも」
「だよね~。彩女ちゃん、絶対こういうの似合うと思ってたもん」
そんな会話を聞きながら、コーヒーを一口。
惣一郎は、思わずうなった。
「うま」
「ほんと?」
「普通に喫茶店レベルなんだけど」
「やった」
愛香は嬉しそうに目を細め、ちょこんと惣一郎の隣に座る。
その様子をちらりと見ながら、青見もマグカップを置いた。
「なあ、彩女」
「なによ」
「その、そのさ……」
「歯切れ悪いな」
「……メイド服も、似合ってるけど」
「けど?」
「いつもの彩女も、ちゃんと可愛いから。なんか、その……どっちも好きってことで」
言い終えた瞬間、青見は目をそらした。
耳が真っ赤だ。
「~~~っ!」
彩女の顔も、同じくらい真っ赤になる。
「お、同じテンションで爆弾投げるのやめなさいって言ってるでしょ!」
「爆弾のつもりはないんだけど」
「それが一番タチ悪いの!」
机ごしに言い合いながらも、彩女の口元は、どこか緩んでいた。
「またやってるよ、あの二人」
「ね。安心するよね、ああいうの見ると」
くすくす笑い合う惣一郎と愛香。
部屋の中には、ゆるやかな、あたたかい空気が流れていた。
◇ ◇ ◇
夕方。
「じゃ、そろそろ帰るか」
「着替えなきゃ……」
名残惜しそうにメイド服を畳みながら、彩女がため息をつく。
「また、やる?」
「……今日は、特別だから」
「そっか。じゃあ“特別”をまた作ろっか」
意味深な笑みを浮かべる愛香に、
「そういうとこだぞ松坂」と、青見がツッコミをいれる。
玄関先。
「じゃあね惣。変なことするなよ?」
「お前前振りやめろやめろ!」
「彩女、暗くなる前に送る」
「うん」
靴を履きながら、彩女がふと振り返る。
「その……今日は、ありがと」
「おう。また着てくれるなら、いくらでも呼ぶわ」
「調子に乗るな!」
そう言いつつも、頬はほんのり赤いまま。
二人が並んで歩き出すのを、惣一郎と愛香は見送った。
玄関のドアが閉まる。
家の中が、ふっと静かになる。
◆ 惣一郎だけのメイドさん ◆
「……行っちゃったね」
「だな」
リビングに戻る途中、愛香がくるりと振り返る。
まだメイド服のまま。
さっきまでより、どこか距離が近い。
「惣くん」
「ん?」
すっと一歩近寄り、両手でスカートの裾をつまんで、丁寧にお辞儀をする。
「改めまして。本日のメイド、松坂愛香です」
「……はい」
「今からは――惣くんだけが、ご主人さま」
そう囁くように言うと、にこっと微笑む。
「まずは、おかわりのコーヒー淹れてきていい?」
「もちろん」
「それから、一緒に撮った写真、二人でゆっくり見よ?」
「……おう」
さっきまでの賑やかさとは違う、ゆるやかで甘い空気が、二人の間に流れはじめる。
夕焼けは、もうすっかり夜の色に変わりかけていた。
惣一郎の部屋に灯る小さな明かりの下で――
惣一郎だけのメイドタイムが、静かに幕を開ける。
◇ ◇ ◇
乱れたシーツに、ベッドの足元まで落ちたブランケット。
床には、慌てて脱ぎ散らかしたらしい服が、そのままの形で転がっている。
カーテンの隙間から、街灯の明かりが細く差し込んで、部屋の輪郭だけがぼんやりと浮かび上がっていた。
「……ふふ」
愛香は、隣で眠る惣一郎の横顔を見つめながら、小さく笑う。
少しだけ乱れた前髪。
いつもより無防備な寝顔。
さっきまで自分の名前を呼んでいた声も、今は静かな寝息になっている。
「惣くん、いっぱいいっぱい頑張ってたね」
言葉にしながら、そっと指先で彼の髪を梳く。
その仕草は、どこか子どもをあやす母親のようで、けれど視線には、同い年の女の子らしい照れと甘さが混じっていた。
「……お母さんには、あんまり無茶させないようにって注意されてたんだけどなぁ」
ぽつりと、誰にも聞こえないくらいの声でこぼす。
“好きな人とそういうことをするなら、ちゃんと相手のことも考えなさいよ”
そう真面目な顔で言ってきた母親の姿が、ふっと頭をよぎる。
「でもね、惣くんが放ってくれるとき、つい夢中になっちゃうんだよね……」
自分の下腹部のあたりを、きゅっと押さえる。
さっきまで高鳴っていた鼓動の余韻が、まだ指先の下に残っている気がした。
思い返すだけで、頬が少し熱くなる。
「でも……惣くん、気持ちよさそうにしてたし」
隣の寝顔に視線を戻し、そっと微笑む。
「……良いよね。ね、惣くん」
返事の代わりに、小さな寝息が返ってくる。
そのリズムが、さっきよりも落ち着いているのがわかって、愛香の肩の力もすうっと抜けた。
布団を持ち上げて、惣一郎の肩まで掛け直す。
そのまま自分も横になり、彼の胸に額を預ける。
「……責任、ちゃんと取るからね。わたしなりに、だけど」
誰にも聞こえないような声で、そんなことを呟いてみる。
言葉にしてみたら、少しだけくすぐったくて、そして不思議と安心した。
窓の外では、夜が静かに更けていく。
乱れたシーツも、脱ぎ散らかした服も――
二人にとっては、ただ「少し背伸びをした夜」の証拠でしかない。
愛香は惣一郎の胸の鼓動を数えながら、ゆっくりと瞼を閉じた。
「おやすみ、惣くん……」
やがて、部屋には二人分の静かな寝息だけが、柔らかく溶け合っていった。