お風呂を沸かしている音が、ドアの向こうからぼこぼこと聞こえてくる。
脱衣所兼洗面所。
彩女はTシャツの裾をつまみ上げて、鏡の前でじっと自分のお腹を見つめていた。
「……うーん。鍛え過ぎ、た?」
白い蛍光灯の下、うっすらどころではなく、線がはっきり分かる腹筋。
息を吐いて力を抜いても、縦の溝が消える気配はない。
触れてみる。
指先の下で、肌の柔らかさのすぐ下に、固い板みたいな感触がある。
「……女子って感じじゃないよねぇ、やっぱり」
ため息混じりにそうこぼして、彩女はお腹をさすった。
腰から太ももにかけては、それなりに女の子らしい丸みもある。
胸だって、スポーツブラ越しに見れば「全然ない」ってわけでもない。
――なのに。
真ん中だけ、やたらストイックに仕上がっている。
(うちの部のメンバー、ここまで割れてないんだけどな……)
体育祭の時、更衣室で見えたクラスメイトたちのお腹を思い出す。
すっきりはしていても、こんなに“筋肉です”って主張してなかった。
女性らしい曲線と、彫像みたいな筋肉のラインが一緒にある。
それはそれで、客観的に見れば綺麗なのかもしれないけど――
「一般的な“女の子らしさ”からは遠いよねぇ……」
ぽつりと呟いた瞬間、ふと脳裏に浮かぶ声がある。
――「お揃いだ」
あの日。
部活帰りに、コンビニ前でジュース飲みながら、何気なくTシャツをめくって見せた時。
「ちょっと見てよこれ。さすがに割れ過ぎじゃない?」
そう言って笑った自分に、青見は一瞬ぽかんとして、それから苦笑しながら自分のジャージの裾をめくった。
同じように、腹筋が割れていた。
あっちの方が、線は少し薄めだったけど。
そして、照れくさそうに言ったのだ。
――「お揃いだ」
その一言で、胸の奥にこびり付いていた「女の子っぽくないのかな」というモヤモヤが、ふっと軽くなった気がした。
(……あの時、なんか、すごくホッとしたんだよな)
“変だよ”でもなく、“女の子っぽくないね”でもない。
ただの「お揃い」。
並べられたのは「男と女」じゃなくて、「同じだけ頑張ってきた身体」だった。
「……単純だよね、うち」
彩女は、自分の額を指でこつんと突く。
青見がそう言ってくれた、ただそれだけで。
不安も、コンプレックスも、ずいぶんどこかへ飛んでいってしまった。
(“お揃い”って言われただけで安心してるの、だいぶチョロいと思うんだけど……)
そう思いながら、でも頬がゆるむのは止められない。
「ま、いっか」
Tシャツの裾をぱたんと戻し、鏡の前で軽く腰をひねる。
浮かび上がるラインは、やっぱりどう見ても「鍛えてます」な腹筋だ。
でも、さっきまでとは少し違う目でそれを見られている自分に、彩女は気づく。
「どうせなら、もうちょいカッコよく仕上げよ。……“お揃い”だし」
誰に聞かせるでもなく呟いて、彩女はくすっと笑った。
脱衣所のドアを開けると、湯気の気配がふわりと流れ出してくる。
彩女は髪をまとめ直しながら、湯船へと向かった。
自分の身体を嫌いにならずに済んでいる理由を、
そのあまりに単純な根っこに、当の本人だけがまだ気づいていなかった。
◇ ◇ ◇
お風呂上がりの湯気が、まだ脱衣所にうっすら残っていた。
パジャマに着替えた彩女は、自室の椅子にどさっと腰をおろすと、タオルでざっと水気をとった長い髪を背中に流す。
ドレッサー代わりの小さな鏡台の前、ドライヤーのスイッチを入れると、ブオォという音とともに、髪がふわりと持ち上がった。
「……長いな、やっぱ」
肩どころか、腰の少し上あたりまで届く、まっすぐな黒髪。
体操をやるには、正直邪魔だ。
まとめて結べばどうにかなるとはいえ、汗をかけば重いし、洗うのも乾かすのも時間がかかる。
「ショートにしちゃった方が、絶対楽なんだよね」
そう言いながら、ブラシで毛先を梳く。
部の先輩の何人かは、ばっさり髪を切っていて、動きやすそうだった。
同級生も、肩くらいで切りそろえている子が多い。
(なのに、なんでわたし、ずっとポニテのままなんだろ)
自分で自分にそう問いかけて、ふ、と手を止める。
ドライヤーの風を弱めて、鏡の中をじっと見つめた。
濡れた前髪が頬にはりついて、どことなく子どもの頃の自分に似て見える。
――小学校三年生の、夏の午後を、ふと思い出した。
あの頃は、今ほど長くはないけれど、肩下まで伸びた黒髪を、母親に適当に結んでもらっていた。
ある日、「今日は高いとこで結んでみよっか」と、いつもより上でぎゅっと結ばれた。
「なんか、変な感じ」
「可愛いわよ。ほら、遊びに行っておいで」
そう言われて、彩女はそのまま外に飛び出した。
いつもの公園。
その日も、青見たちと集まって、鬼ごっこが始まった。
「じゃあ、オニは青見ね!」
「はいはい。絶対捕まえるからなー!」
走り回るうちに、結びたてのポニーテールが、ぴょんぴょん跳ねる。
それがくすぐったくて、でもなんだか楽しくて、彩女はいつも以上に全力で走った。
そして、転びかけたところを、後ろから青見に腕を掴まれて引き止められて――
「おわっ、あぶな」
「いったぁ……」
顔をしかめる彩女を、青見はまじまじと見て、目を瞬かせた。
「……なに?」
「いや」
ほんの少し間をおいて、ぽつりと言った。
――「今日の、その髪。似合ってるよ」
それは、本当に何気ない一言だった。
言った本人は、多分、もう覚えていない。
「……まだ覚えてんだ、わたし」
彩女は、小さくため息とも笑いともつかない息を吐いた。
その時、胸のあたりが、じんわり熱くなったこと。
嬉しいとか照れるとか、そういう言葉にする前の、よく分からない気持ちが一気に押し寄せたこと。
家に帰ってゴムを外す直前まで、「明日もこのままで行こう」と決めてしまっていたこと。
それから何度も髪を結び直すたびに、あの「似合ってるよ」が、頭のどこかで小さくこだましていたこと。
(……もしかしなくても、だいぶ単純だよね、うち)
ブラシを動かしながら、彩女は自分のこめかみを指でこつんと突く。
体操やるには、明らかに邪魔な長さだし。
一般的な「女の子らしい」っていうのとも、ちょっとずれてる気がする。
それでも――
「切ろうかなって思ってもさ」
ドライヤーのスイッチを切り、静けさが戻った部屋の中で、小さく呟く。
「ポニテやめたら、あいつ、何か言うかな、とか……ちょっと考えちゃうんだよな」
言ってから、自分で顔が熱くなるのが分かった。
「……バカみたい」
そう言いながら、鏡の中の自分は、ほんの少し笑っている。
タオルで最後の水気を押さえ、枕元に置いてあるヘアゴムを一本手に取る。
いつも通り、手早く髪を集めて、高い位置でひとつ結びにする。
まだ完全には乾き切っていないポニーテールが、背中でしっとり揺れた。
「ま、いっか。明日も、これで」
鏡の中で、ポニーテールの自分が小さく頷く。
何でこんなにこの髪型を続けているのか、その根っこがどれだけ単純なのか。
当の本人だけが、まだちゃんと自覚していないまま。
彩女は結んだ毛先を軽くつまんで、指でくるりと遊ばせた。
「……あいつが『似合ってる』って言ってくれるうちは、いっか」
誰にも聞こえない小さな声でそう言って、
照れ隠しのように電気をぱちんと消した。