/*/ 安生道場・男性陣の集い /*/
夜の安生道場。
稽古を終えて畳がひんやりし始めた頃、居間には男三人がちゃぶ台を囲んでいた。
祖父・李。
父・龍。
長男・胆。
ちゃぶ台の上には、湯気の立つ茶碗と、簡単なつまみ。
テレビは消され、障子の向こうからは虫の声だけが流れ込んでくる。
「にょほほ、それでは龍よ」
湯飲みに口をつけた李が、白い眉をぴくりと上げた。
「クマ狩りじゃが、胆や青見くんの修行に使えるかの?」
龍は、腕を組んだまま少し考えてから、静かに答えた。
「――胆には良いでしょうが、青見くんは武器使いですからね。
私がしてるような生け捕りは出来ない以上、動画を撮られると不味いでしょうな。
生命のやり取りと言う意味では、良い修行になるのですが」
「やらせてやりたいものですね」
胆が、湯飲みを置きながらぽつりと言う。
その目には、父が語る「ヒグマとの攻防」を想像している光が宿っていた。
「実際問題としては、どうなんじゃ?」
李が身を乗り出す。
「胆はともかく、青見くんは“表の顔”もある。インターハイ優勝の剣士じゃ。
そう簡単に“クマと命のやり取りしてました”などとバレては困ろう」
「そこですよ」
龍は苦く笑った。
「胆は、もともと道場の看板息子ですからね。
“山籠もりで修行してきました”の一言で、多少の無茶は片付く」
「雑な片付け方ですね、父さん」
「事実だろう?」
龍は肩をすくめる。
「だが青見くんは違う。
あれは“普通の高校生”としても生きていかねばならん。
ニュースで『謎の格闘家がヒグマを素手で制圧』などと騒がれる中に、うっかり映り込んだ日にゃ――」
「インハイ優勝の剣士、実はクマも倒せるとバレる」
胆が引き取る。
「……確かに、面白い話ではあるが、笑い事ではないですね」
「にょほほ。世間様の常識からすれば、化け物扱いじゃろうて」
李が楽しそうに笑った。
「わしらの中では“ようやっと一人前”くらいのものでもな」
「そこが難しいところです」
龍は畳に手をついて、ぐっと指を押し込んだ。
「クマと相対するのは、いい経験になります。
“自分より圧倒的に大きく、速く、理不尽な相手”と向き合うことで、
技ではなく“死なない動き”を身体が覚える」
「それは、青見にも要る」
胆が頷く。
「あいつ、いざとなったら笑いながら前に出るタイプですからね。
“本当の死線”を一度知らないと、どこかで足を踏み外すかもしれない」
「だが――」
龍は、湯飲みを持ち上げて、一口だけ飲んだ。
「今の世の中、“死ぬかもしれない修行”を、そう簡単にはさせられん。
こちらの都合だけで、“本物の命”を教材にしていい時代ではない」
「……ヒグマたちに対しても、ですか」
胆の言葉に、龍は短くうなずいた。
「今回の懸賞金は“被害を止める”ためのものだった。
必要があったから、動いた。
だが、“修行のためにクマを狩る”となれば、話は違う」
「のう」
李が茶をすすりながら、細い目をさらに細める。
「昔の武芸者なら、平気な顔でやっておったろうがの。
時代が変わった、ということじゃな」
しばし、三人とも黙り込んだ。
やがて、胆が口を開く。
「――じゃあ、こういうのはどうです」
「ほう?」
「父さんや猟友会が依頼を受けて“本当に危ないクマ”を対処するとき。
青見には、最初は“同行”だけさせる」
胆は、畳の上に指で簡単な図を描いた。
「気配の変化、風の匂い、地形の読み方。
クマと対峙するときの距離感――そういう“生きた場”だけ、見せる。
戦うのは父さん。俺と青見は、最後まで手を出さない」
「見学、か」
「はい。
自分の身体が“まだ追いついていない”ことを、ちゃんと自覚させた方がいい。
あいつ、強すぎて“人間相手なら負けるイメージ”が湧かなくなりつつあるから」
龍は、少し目を見開いた。
「……そこまで見えているか」
「長く一緒に稽古してますからね」
胆は、どこか誇らしげでもあり、少しだけ寂しそうでもあった。
「青見は、すぐ俺の背中を追い越しますよ。
だからこそ、“追い越す先”がどれだけ危ない場所か、ちゃんと見せておきたい」
「にょほほ」
李が、愉快そうに笑う。
「胆も、ええ指導者の顔をするようになったのう。
昔は“もっと殴らせろ!”しか言わん小僧じゃったのに」
「じいさん、昔話はやめてください」
胆は咳払い一つでごまかした。
「――で、どうです、父さん。
“修行としては見学まで”“必要とあらば、青見には人前で手を出させない”という条件付きなら」
「……そうだな」
龍は再び腕を組み、天井を見上げた。
「猟友会と自治体が認める“現場”だけ。
俺が責任を持って動き、記録は最小限。
その上で、青見くんには“自然と命に対する恐怖”だけ、味わってもらう」
しばらく考え込んだあと、龍はふっと口元を緩めた。
「それくらいなら……悪くないかもしれませんね」
「決まり、ですか」
「まだ早い」
龍は、きっぱりと首を振った。
「まずは、本人に聞かねば。
“本物の死”の匂いを嗅ぎに行く覚悟があるかどうか。
安易に連れて行って、“思っていたのと違った”では済まん」
「……ですね」
胆もうなずく。
「それに、あいつには――」
「安達彩女ちゃんもおるからの」
李が、先に言った。
「にょほほ。
彼女の隣で笑っておるうちは、そう簡単には死なんじゃろうが、
“帰ってくる場所”のことは、忘れさせてはならん」
「じいさん、そこツッコむんですね」
「わしはあの子、気に入っておるからな」
李は湯飲みを受け皿に戻し、にやりと笑った。
「――まあ、まずは熊ではなく、猪あたりからじゃな」
「段階、踏むんですね」
「当たり前じゃ。
いきなりラスボスに挑ませるような真似、安生の看板が泣くわい」
三人の笑い声が、静かな道場に広がる。
クマ狩りを修行に使うかどうか――その答えはまだ出ていない。
ただ一つ確かなのは、安生道場の男たちが、
“強さ”と“日常”と“命の重さ”の折り合いを、
不器用なりに真面目に考えている、ということだけだった。