安生道場1
◆ 安生道場の話 ◆
「――安生道場、入門することにした」
放課後、人気の薄くなった校舎裏のベンチで、ペットボトルのお茶をあおいだ青見が、ごく当たり前みたいな口調でそう言った。
「……はい?」
彩女は一瞬、耳を疑った。
「今なんて?」
「だから。安生道場。梨花んとこの武術道場な。
この前ちょっと体験させてもらってさ。ちゃんと正式に入門させてもらえることになった」
あー、と、さも簡単なことのように青見は続ける。
「李さんにもOKもらったし。龍さんも“身体の使い方くらいは教えてやってもいい”ってさ。胆さんも“基礎から叩き込んでやる”って」
そこで一度、肩を回すように腕をぐるりと回した。
「部活だけじゃ限界あるしな。あそこなら、もっとちゃんと修行できる」
どこか嬉しそうなその横顔に、彩女の心臓が、どくん、と嫌な意味で跳ねた。
(いや、ちょっと待って?)
安生道場――。
梨花たち四姉妹の家。
祖父の李、父の龍、兄の胆。
全員が筋金入りの武術バカで、変人なのを除けば腕は確かだと、彩女も知っている。
正直、その三人から教わるって聞いてる分には、彩女としても何の不安もなかった。
李は孫に甘いが、弟子には容赦ない鬼じいさん。
龍は言葉づかいは荒いが、技に関してはとことん真面目な指導者。
胆はちょっと変なノリの兄ちゃんだが、責任感は強い。
(そこまではいい。そこまでは)
問題は――。
「でさ、梨花と、友香と、ユイリィと、ルテアからも技見てもらえるって話でさ」
とどめを刺すみたいに、青見がさらっと言った。
彩女の表情筋が、一瞬で固まる。
「……は?」
「いや、ほら。実戦想定とか、組手の相手とか。
あいつら、四人ともスタイル違うだろ? 女の人相手の距離感とか崩し方とかも、学んどいて損はないって話で――」
「ちょっと待て」
思わず食い気味に遮っていた。
「梨花と……友香と……ユイリィと……ルテアが?」
「うん。交代で相手してくれるって。
梨花は関節とか崩しの技。友香は間合いとフェイント。ユイリィは体幹と軸。ルテアは……なんか“フィーリング”って言ってた」
「“フィーリング”は信用ならないな」
思わずぼそっと漏れる。
(あの四人が、あの身体能力で、青見に“組手”とか“崩し”とか……)
自然と脳裏に浮かぶ。
梨花が無表情で、青見の腕を取って床に転がす図。
友香が悪戯っぽく笑いながら、胸元ぎりぎりをかすめるフェイントを入れてくる図。
ユイリィが寡黙に、姿勢を正すためと言って背中や腰に手を当てる図。
ルテアが異国訛りで「もっと力抜いて」とか言いながら、ぐいっと密着してくる図。
(……無理)
自分で想像しといて、自分で胃がキリキリしてくる。
「彩女?」
「……別に」
短く返した声が、思ったより尖っていたのが自分でもわかる。
「取られるとか、そういう心配はしてないけどさ」
「いや、取られねぇって」
「わかってるから今そう言ったんでしょ!」
自分で言いながら、余計に腹が立ってくる理不尽。
彩女はぐいっとベンチから立ち上がると、両手を腰に当てて青見を見下ろした。
「いい? あたしが言いたいのは――ラッキースケベとか起きたら、マジで許さないからってこと」
「ラッ……」
青見が、心底困ったような顔になる。
「お前、そんなイベント現実に起きねぇから。漫画じゃあるまいし」
「お前、そういうフラグ立てるとだいたい起きんだぞ」
「なんで俺が原因なんだよ」
「知らないわよ!」
吐き捨てるように言ってから、ふっと視線を逸らす。
胸の内側で、二つの気持ちが綱引きしているのが自分でもわかる。
(でもさ……)
青見が、もっと強くなれるなら。
あたしの隣で、これから先も戦おうとしてるなら。
部活の範囲でできることなんて、たかが知れている。
安生道場で、李や龍や胆に叩き込まれて。
梨花たちに実戦感覚を仕込まれて。
――その方が、絶対に強くなる。
(わかってる。わかってるんだけどさ)
歯噛みしたくなるほど、理屈では否定できない。
ベンチに座ったままの青見が、少しだけ真剣な目で彩女を見上げてきた。
「……嫌なら、やめる」
「は?」
「お前がマジで嫌なら、梨花たちに頼んで男の人だけにしてもらう。
別に、無理してまで教えてもらう話じゃないし」
「……っ」
そんなストレートなことを言われるとは思ってなくて、思わず言葉に詰まった。
嫌だ、とは言えない。
でも、はいそうですかと喜んで送り出すほど、できた女でもない。
(ずるい。そう言われたらさぁ……)
舌打ちしたい気分を、ぐっと飲み込む。
「……違う」
「違う?」
「あたしが“嫌”なんじゃないの」
ゆっくり、言葉を選ぶように喋る。
「“嫌な思いしてほしくない”の。あんたに」
「俺が?」
「そう。なんかさ、変な空気になったり、妙に意識させられたり……
“あーもう! なんだこれ!”ってなるの、あんた似合わないし」
青見は目を瞬いて、少しだけ口元を緩めた。
「それ、多分、今のお前の方がよっぽど“なんだこれ”って顔してるぞ」
「うるさい」
彩女はひとつ息を吐くと、青見の目の前に人差し指を突き出した。
「……いい? 条件つける」
「条件?」
「あんた、安生道場行くのは許す。
李さんも龍さんも胆も、信頼してるし。道場のレベルが高いのもわかってる」
一拍置いてから、きっぱりと言い切る。
「でも、もし――」
言いながら、自分で軽く頭を抱えたくなった。
「もし、ラッキースケベみたいなことが起きたら、その場で全力で謝れ。
“俺に非があるかどうか”とか考える前に、とりあえず全力で謝れ。
で、そのあとで、全部あたしに報告しろ」
「……なんか罰ゲームみたいになってない?」
「いいから」
彩女は真剣そのものの顔で言う。
「報告しないであとから聞いたら、その時は……」
「その時は?」
「安生道場ごとぶっ壊しに行く」
「お前の方が恐ぇよ」
さすがに苦笑いを浮かべた青見だったが、その目はどこか安心したようでもあった。
「……了解。ラッキースケベ発生時は、即時謝罪&彩女への全面報告な」
「そう。ちゃんと覚えときなさい」
そこでようやく、彩女も肩の力を抜いて、隣のベンチに腰を下ろした。
少し風が吹き、校庭の砂ぼこりが舞う。
二人の間に、ひとときの沈黙が落ちた。
「……でさ」
先に口を開いたのは彩女だった。
「いつから行くの?」
「今度の土曜。午前中は基礎体力で、午後から型と組手だってさ」
「ふーん」
あえて興味なさそうに返しながら、その実、頭の中では既に土曜の自分の予定を組み替え始めている。
(午前は自分の用事済ませて、午後、様子見に行くか……)
安生道場は見学自由だ。
梨花たちも「いつでも遊びに来い」と言っていた。
――「様子見」。
――「偵察」。
――「視察」。
名目なんていくらでもつけられる。
「……あーしばらく、あいつらとも顔合わせなきゃいけないのか」
横でぼそっと呟くと、青見が首を傾げる。
「嫌なのか?」
「別に。……ちょっとだけ、張り合う相手が増えたってだけ」
「張り合う?」
「なんでもない!」
半ば自分に言い聞かせるように、彩女は立ち上がった。
「とにかく。あんたが強くなるんなら、止めない。
その代わり――変な意味で“成長”したら、ほんとにぶっ飛ばすからね」
「それは俺も望んでねぇよ」
青見が苦笑し、その苦笑いに、少しだけ彩女の胸のもやもやが晴れていく。
(……仕方ないか)
強くなってほしいのは、本当だ。
自分と並んで歩くために。
隣に立ち続けるために。
「じゃ、土曜のこと、終わったらちゃんと報告しなさいよ」
「はいはい。ラッキースケベ報告書、な」
「そんなタイトルつけたら殴る」
どうでもいいやり取りを交わしながらも、彩女は少しだけ口元を緩めていた。
安生道場の門が、これから青見をどんな風に変えていくのか――。
楽しみ半分。
心配半分。
そして、ほんの少しの、負けたくない気持ちを胸に抱えながら。