◆ 安生道場・初日 ◆
「にょほほ、その構えじゃ、その構え」
すり減った畳の真ん中で、李は猫のように細い目をさらに細めた。
朝の柔らかな光が障子越しに差し込み、道場の空気はしんと静まり返っている。
青見は、汗でシャツがじっとりと背中に張り付くのを感じながら、木刀を中段に構えていた。
足は肩幅。膝は軽く曲げ――いるどころか、もうぷるぷる震えている。
「まず確認じゃ。お主は“拳法使い”ではなく、“剣法”が主じゃからな」
李は小さく顎をさすり、にょほほと笑う。
「素手も鍛えはするが……基礎と武器術が中心になる。そこはよいな?」
「……はい」
返事をした瞬間、踏み込みの足がぐらりと揺れた。
「ほら、もう崩れる。にょっほっほ、まだまだじゃのう。
――まあよい。基礎から叩き込む」
李はぱん、と手を打つと、木刀を構える青見の周りを一周する。
「それとな。剣の“型”そのものについては、ワシより適した手がおる。
基礎や体の使い方、武器の扱いはワシらが見てやるが……」
そこで一度、わざとらしく間を空けた。
「基礎になっておる“刀”については、知り合いもおるからの。
たまには“出稽古”といこうかの?」
「出稽古、ですか?」
「そうじゃ。表に顔を出さん、ちょいと変わり者の剣客でな。
剣そのものについては、ワシなんぞよりよほど口を出したがる」
李は思い出し笑いのように、肩を揺らした。
「お主がこの先、ちゃんと続けられたら、の話じゃがな。
今はまず――基礎じゃ」
その「基礎」が、地味で、キツくて、容赦がなかった。
* * *
「前蹴り二十本、左右。腰からだせい、腰から!」
「は、はいっ……!」
道場の端から端まで、ひたすら前蹴り。
膝を上げ、腰を切り、足の甲で畳を“踏む”ように――を、延々と。
「はい、馬歩立ち三分!」
「さ、三分……って、さっきもやりましたよね……?」
「にょほほ。さっきは“二分”じゃったろう? 増えただけじゃ」
「“だけ”ってレベルじゃないんですよ……」
腰を落とし、太ももが悲鳴をあげる。
両腕を前に伸ばし、重い木刀を水平に保持したまま、ただひたすら時間を耐える。
時計を見ることも許されず、呼吸だけがやけに大きく聞こえてくる。
「よいぞ、その顔。“キツいけどまだ折れておらん”という顔じゃ。
――今どきの学生にしては体力があるの。驚いたぞ」
李が楽しそうに言う。
「部活か? それともケンカか? どこで鍛えた?」
「部活、です……多分……」
息も絶え絶えに答えると、李は「多分とは」と吹き出した。
「まあよい。
――じゃがな」
李はすっと目を細め、声だけを少し低くする。
「これでも、ワシの要求はかなり“落としておる”方じゃ」
「え、これで……?」
「そうじゃ。ワシらの世代は、もっと無茶をした。
それに――」
ちらりと、壁際の写真立てに目を向ける。
梨花たち四姉妹が、道着姿で腰を落としている写真だ。
「梨花たち四姉妹はな」
李はにやりと笑った。
「お主と同い年の女子の身で、これより“もう少し上”はこなしておるぞ?」
「……マジですか」
「マジじゃな。
朝の基本稽古がこれくらい。夕方には別のメニューがある」
(あいつら……これ、朝からやってんのか……)
脳裏に、道場で涼しい顔をしていた梨花たちの姿が浮かぶ。
友香の軽口。ユイリィの無言の視線。ルテアの適当そうで実は鋭いアドバイス。
――あいつら、あの身体能力の裏側で、こんなことしてたのか。
「どうした。怖気づいたか?」
「……いえ」
青見は歯を食いしばって、腰をもう一度ぐっと落とした。
「同級生の女子に負けっぱなしってのも、男としてどうかと思うんで」
「にょっほっほ! 言うようになったの!」
李の笑い声が、道場に明るく響く。
「よかろう。そこまで言うなら、もう一段階いくかの」
「え、ちょっと待ってください心の準備が――」
「ほれ、木刀を下ろせ。次は素手じゃ」
言われるがままに木刀を下ろした途端――。
「腕立て百回」
「話聞いてました?」
「聞いとるわ。お主の“やる気”もな」
李は、悪戯を思いついた子どものような顔で笑った。
「剣を振るうにも、拳を握るにも、まずは“体”じゃ。
体ができておれば、多少の無茶も効く。
――お主が望む“本物の剣の世界”に足を踏み入れたいなら、の話じゃがな」
“本物”。
その単語に、青見の中で何かがかちりと噛み合った。
(部活の延長じゃない。
彩女と、皆と、これから先を――)
「……やります」
「声が小さい」
「やります!」
「よし。では数えるぞ。いーち、にーい――」
腕が焼けるように熱くなり、汗が額からぽたぽたと畳に落ちる。
呼吸は荒く、視界の端がじわじわと滲んでくる。
それでも。
(梨花たちは、これ以上を当たり前みたいにやってる)
(あいつらに“そこ止まりか”って顔されたくないし――)
(彩女にも、胸はって“行ってきた”って言いたいしな)
「……九十九っ……」
「ラストじゃ」
「ひゃ、百っ!!」
最後の一回を押し切った瞬間、腕ががくりと床についた。
「――ふぅ」
仰向けになった視界に、天井板と、そこに走る木の節が見える。
そこへ、李の顔がひょいっと割り込んできた。
「にょほほ。いい顔になったわい」
「……どんな顔ですか」
「“まだやれるかどうか微妙じゃが、踏ん張ろうとしておる顔”じゃ」
李は満足げに頷く。
「よし。今日はここまでにしといてやる」
「“しといてやる”って……」
「当たり前じゃ。まだ初日。壊してどうする」
そう言いつつ、李の目はどこか楽しそうだ。
「明日以降は、胆や龍にも見させる。
梨花たちも、組手の相手で容赦はせんじゃろう」
「容赦しないの、確定なんですね……」
「当たり前じゃ。道場に入った以上は“弟子”じゃからの。
――その分、強くもなる」
李はすっと立ち上がり、道場の奥の神棚に向かって一礼する。
「さあ、片付けじゃ。道場は使った者がきれいにして帰る。
これもまた、立派な“基礎”よ」
「了解です」
青見はゆっくりと起き上がり、まだ震える足で雑巾を取りに向かった。
畳を一枚一枚、丁寧に拭きながら、じんわりと全身が重く、熱く、心地よく疲れていく。
(……地味だな。派手な技なんか一つも教わってない)
でも。
(この“地味さ”の上に、あいつらの動きがあるんだとしたら――)
雑巾を絞る手に、自然と力がこもる。
(やるしか、ねぇよな)
障子の向こうでは、夕方の光が少しずつ色を変えながら、道場の中を照らしていた。
まだ、始まったばかりだ。
安生道場での修行も。
そして、その先に繋がる“出稽古”という、見えない世界への扉も。