◆ 安生道場・夕餉の時間 ◆
夕方。
道場の稽古が終わり、片付けも一通り済んだころ――。
母屋の座敷には、湯気を立てる土鍋と、大皿に盛られた唐揚げや煮物が所狭しと並んでいた。
卓を囲むのは、安生家の面々。李、龍、胆、そして四姉妹――梨花、友香、ユイリィ、ルテア。
ついさっきまでここにもう一人、汗だくで正座していた少年がいたのだが、彼は丁寧に頭を下げて帰っていったところだ。
「――にょほほ、“青見”と言ったか。梨花たちの同級生」
湯呑みを片手に、李がぽつりと呟く。
「見どころがあるの」
箸を止めていた龍が、少しだけ目を細めた。
「ほう、父上が初日からそういうとは」
「うむ。体力もあるし、なにより折れん。
ワシが少し盛ってやったメニューでも、最後まで噛みついてきおった」
「“少し”ねぇ……」
唐揚げをつつきながら、友香が半眼になる。
「おじいちゃんの“少し”は、世間一般の“かなり”なんだけどさ」
「基準がおかしいのは、今さらだろう」
胆が淡々と突っ込みながら、黙々と白米をかき込む。
「にょほほ。お主らは甘やかされて育ったからのう」
「どの口が言うんですか」
梨花がじとっとした目で祖父を見る。
「小学校の頃、朝四時に叩き起こされて素振り千本させられたの、忘れてませんからね」
「千本など準備運動じゃ。
――まあ、それくらいは“内弟子”なら当然じゃがの」
「……内弟子?」
梨花がぴくりと眉をひそめた。
李は湯呑みを卓に置き、わざとらしく咳払いする。
「内弟子にしたら、伸びるだろうの」
座敷の空気が、一瞬で変わった。
「おじい様、やめて下さい」
梨花が即座に拒否した。
「私は彩女と喧嘩したくない」
「にょ?」
「いやいやいや。
“安生道場の内弟子になりました”なんて聞いたら、あの子、絶対いい顔しませんよ」
梨花はお椀を置いて、両手を小さく振る。
「あの二人の関係、今すごく微妙なバランスで安定してるんですから。
うちが余計な油を注ぐ必要ないです」
「そうだね」
友香が頷きながら、春巻きをもぐもぐと頬張る。
「彩女ちゃん、すっごい焼き餅焼きだよ。
この前だってさ、“梨花たちと一緒にいる時間多くない?”って、ちょっと不機嫌になってたもん」
「……そうなのか?」
龍が少しだけ興味深そうに眉を上げた。
「仲が良いのは悪いことではないが」
「“悪くない”を通り越してるんですよねぇ、あの二人」
友香はニヤニヤしながら、箸で空中にハートでも描くような仕草をする。
「青見くんが道場に泊まり込みとかになったら、彩女ちゃん、絶対様子見に来るよ。
“見学”って名目で、“監視”って目つきで」
「想像できてしまうのが困るな……」
梨花がこめかみを押さえた。
そこへ、静かに味噌汁を啜っていたユイリィが、ぽつりと口を開く。
「……あの二人の仲に、あまり波風立てるのは……」
少し言葉を選びながら、彼女は続けた。
「正直、“面白そう”だとは思いますが」
「思うんだ……」
梨花が呆れ混じりに突っ込む。
「ですが、彩女さんは“戦うために強くなりたい人”で。
青見は、“守るために強くなりたい人”です」
ユイリィの黒い瞳が、静かに卓を見渡す。
「方向は違いますが、軸は似ている。
そういう人たちは――あまり、余計な不安を増やさない方がいいと思います」
「ふむ」
龍が腕を組むように箸を置いた。
「お前がそう言うのは珍しいな、ユイリィ」
「……客観的な分析です」
ユイリィは少しだけ頬を染め、味噌汁に視線を落とす。
そんな中、黙って白米をおかわりしていた胆が、ぽつりと漏らした。
「そうなのか。残念だな」
「お兄様まで」
すかさずルテアが横から呆れ声を上げる。
「お兄様、また“強い弟子候補”見つけたらすぐそれです。
“鍛え甲斐がある”とか、“刀を持たせてみたい”とか」
「事実だろう」
胆は悪びれもせずに言う。
「今日のあいつの目、途中で何度か折れかけていたが、最後にはちゃんと立っていた。
ああいうのは伸びる」
「それはわかるけどさー」
友香がソーセージを箸でつまみ、くるくると回す。
「だからって“内弟子”とか言い出すの、早すぎない? まだ初日だよ?」
「初日で決める男もおる。父上とか」
「それはそうだけど!」
ルテアはため息をつきながら、レタスをもしゃもしゃと食べる。
「でもまぁ、たしかに……」
どこか楽しげに笑う。
「青見くん、“ここで置いて帰ったら負けだ”みたいな顔してましたね。
あの馬歩立ちのとき」
「ああ、してた」
梨花が頷く。
「“まだいけます”って言う前に、顔が言ってました」
「ほう。そこまでか」
龍の口元にも、わずかに笑みが浮かぶ。
「なるほどな。たしかに――」
「だからと言って、内弟子云々は保留です」
梨花がぴしゃりと遮った。
「繰り返しますけど、おじい様。
私は彩女と喧嘩したくないんです」
「にょほほ。そんなにか」
「そんなにです」
梨花は真剣な顔で頷く。
「あの子、本気で怒ったら怖いんですからね?
“なんで教えてくれなかったんですか”って、うるうるした目で詰め寄ってきますよ」
「それはそれで見てみたい気もするが」
「お父さんまで……!」
座敷に笑いが広がる。
李はしばらく肩を揺らして笑っていたが、やがて湯呑みを持ち上げて、一口すする。
「まあよい。内弟子の話は、当面、ワシの頭の中にしまっておこう」
「“当面”?」
「にょ。あやつ自身が“ここで住み込みたい”と言い出したら、そのとき考える」
「言い出さないでほしいですね、そのセリフ」
梨花が心底からの本音を漏らす。
「……でもまあ」
ぽつり、と小さく付け足した。
「今日の“基礎”を投げ出さなかったのは、評価してます。
あれ、途中でやめても責められないレベルでしたから」
「それは私も同意」
ユイリィがうなずく。
「明日も来るなら、本物です」
「来るよ。あの顔は、絶対に来る顔だ」
友香がニヤリと笑う。
「じゃ、そのうち彩女ちゃんにも報告しに行かないとねー。
“安心していいよ、あの子、ちゃんとがんばってるから”って」
「……“余計なこと言わないでくださいね”って、先に釘刺されそう」
ルテアの苦笑に、また笑いが起きる。
障子の向こうでは、夜風がさらりと庭木を揺らしていた。
安生道場の夕餉は、いつも通り賑やかで、どこか温かい。
その輪の中に、いつか本当に青見が“内弟子”として座る日が来るのかどうか――。
それはまだ、誰にもわからない。
けれど少なくとも、今夜の話題の中心にいた少年のことを、
この家の誰もが少しだけ面白がり、少しだけ期待しているのは、間違いなかった。