◆ 二日目・安生道場 ◆
次の日の放課後。
下校ラッシュの人波を抜けて、青見は一人、住宅街の奥へと足を向けていた。
朝は自宅で、昨日教わった基礎メニューをひと通りこなした。
馬歩立ち、前蹴り、素振り。
起き抜けの身体に鞭を入れるようなメニューだったが、やらないという選択肢はなかった。
(やるって決めたしな)
汗を流してから登校し、一日授業を受けて――今に至る。
安生道場の門をくぐると、砂利を踏む音が静かに響いた。
今日は昨日より少し早い時間帯。道場の戸口は開け放たれ、畳の匂いと木の香りが風に乗って漂ってくる。
「おじゃまします」
入口で一礼してから、畳の上へと上がる。
中では既に李が座しており、湯呑みを手にしていた。
「良く来たの」
李は湯呑みを置き、にょほほと笑う。
「体の具合はどうじゃ?」
「筋肉痛でバキバキです」
正直に言うと、李は「ほう」と片眉を上げた。
「ほう、どれどれ」
立ち上がると、ひょいひょいと近づいてくる。
そして遠慮という概念をどこかに置いてきたような動きで、青見の肩、背中、太ももを次々に押したり揉んだりし始めた。
「うおっ……!」
「ここは? 痛いか」
「そこは、まぁ、普通に……いたた」
「ふむ。ではこっちは?」
親指でぐっと脇腹の奥を押され、思わず背筋が震える。
「ぐっ……!」
「おお、いい反応じゃ」
「どこがですか……」
李は満足げに頷きながら、さらにふくらはぎ、アキレス腱と順に触っていく。
「良い食事をとって、自分でほぐしたか。
風呂にも浸かったな?」
「さすがに、倒れそうだったんで……」
「にょほほ。良いな良いぞ」
李は一歩下がって、すっかり“診察”を終えた医者のような顔になる。
「筋肉痛は出ておるが、潰れてはおらん。
“使ったところが悲鳴をあげておる状態”で、“壊した”わけではない。
……きちんとケアしたのが見て取れる」
李は顎をさすりながら、じろりと青見を見る。
「ここで無茶して、朝練も何もせず寝腐っていたら、今日の稽古は半分にするつもりじゃった。
じゃが――」
口元に、わずかに愉快そうな笑みが浮かぶ。
「自宅で朝練まで済ませてきたとあらば、話は別じゃな」
「え、なんでわかったんですか」
「足の裏の使い方が、昨日と違う。
踏み癖が変わっておる。――ちゃんと復習しておる足じゃ」
あっさりと言われ、青見は言葉を失った。
(……化け物じじいだな、この人やっぱり)
「では――今日も始めるか」
李がぴしりと背筋を伸ばした、そのとき。
「父上、準備運動は終わりましたか?」
道場の奥から、穏やかながらも鋭い声が聞こえた。
龍が胴着姿で現れる。後ろには、腕を組んだ胆もいる。
「おお、ちょうど良いところに来た。
龍、胆。今日からはお主らにも見てもらう」
「ほう」
龍は青見を一瞥し、口元だけで小さく笑う。
「昨日より目が良くなっているな。
“覚悟を決めた目”だ」
「はぁ……」
「褒めている」
簡潔に言い切ると、今度は胆が一歩前に出る。
「立ってみろ」
命じられるまま、青見は道場の中央へ一歩進んだ。
「昨日、父上から聞いた。
馬歩立ち、前蹴り、腕立て――数は伏せられていたが、“それなり”らしいな」
「“それなり”にキツかったです」
「なら今日からは、“それなり以上”だ」
胆は淡々と告げる。
「だが、勘違いするな。
今日は“量”を増やすために来たのではない。
――“質”を上げるためだ」
李が「そうそう」と頷きながら、後ろ手に回る。
「ワシは体の具合を見た。問題なし。
あとはお主らに任せるわい」
「承知しました」
龍が短く返事をし、青見に向き直る。
「まずは、昨日やった基本を、ひと通り見せてみろ。
馬歩立ち、前蹴り、素振り――それぞれ数は問わん。動きだけ確認する」
「はい」
青見は深呼吸を一つして、構えを取った。
昨日ほど足は震えない。
だが、筋肉痛の鈍い痛みが、確かにそこにある。
(こっから、どこまで上げられるか、だな)
意識を足の裏と腰に落とし込み、ゆっくりと膝を沈めていく。
「――ふむ」
龍の低い声が響く。
馬歩立ち。
前蹴り。
素振り。
一つひとつの動きに合わせて、龍の視線が細かく動く。
少し離れたところで、胆も腕を組んだままじっと見ていた。
「止め」
ひと通り終えたところで、龍が手を挙げた。
「悪くない。
体幹が思ったより安定している。部活でのトレーニングの成果だろう」
「ですが――」
そこで、胆が言葉を継ぐ。
「力の入れどころと抜きどころが、まだ“逆”なところが多い」
「逆?」
「そうだ」
胆は青見の背後に回り、軽く肩に手を置く。
「蹴りを出すとき、肩まで力が入っている。
必要なのは腰から下だ。上半身は“乗せる”だけ」
そう言うと、実際に軽く前蹴りの動きを見せてみせる。
すっと上がる膝。ぶれない中心軸。
足が伸びる瞬間だけ、爆発するように力が乗る。
「わかるか?」
「……はい。多分」
「多分を“確信”に変えるまで、今日はそれだけをやる」
「それ“だけ”……」
「“だけ”と言えば“だけ”だ」
龍が口角を上げる。
「量をこなすのは、昨日、父上に散々やられたのだろう?
今日は、同じ動きの中で、意識する場所を変える」
そう言ったところで、ふと道場の入口が開いた。
「ただいま戻りました」
荷物を抱えた梨花が顔を出す。その後ろには、買い物袋を持った友香とルテアも続いていた。
「あ、青見くん、今日も来てるんだ」
友香がニヤッと笑う。
「筋肉痛で死んでない?」
「死にかけてますけど、まだ息はあります」
「それは良かった。じゃ、今日も容赦なく行けるね、ユイリィ」
「……私まで数に入れるのですか」
少し遅れて入ってきたユイリィが、呆れたように目を細める。
梨花は靴を脱ぎながら、道場の様子を一通り見渡した。
「おじい様、無茶させてませんよね?」
「にょほほ。ワシなど序の口じゃ。
今日のメインは龍と胆じゃよ」
「それはそれで不安なんですけど……」
梨花は小さくため息をつきつつ、青見に会釈する。
「こんにちは、青見くん。
体、大丈夫?」
「正直、大丈夫ではないですけど……来ました」
「来た時点で合格だね」
友香がひょいと道場の端に座り込み、見学モードに入る。
「じゃ、私たちは買い物荷物片づけてから、両親の夕飯の手伝いして、そのあと時間あったら組手付き合うから」
「“時間あったら”と言いつつ絶対来るじゃろ、お主ら」
李のぼやきに、四姉妹はそろって笑った。
「――というわけだ」
龍が改めて青見の方へ向き直る。
「今日は“前蹴り”と“馬歩”だけで、へとへとになるぞ」
「昨日もそれでへとへとになったんですけど」
「昨日とは別物にする。
“同じ動き”の中身を変えていく。それが稽古だ」
胆が短く補足する。
「途中で四人が帰ってくる。
夕方の組手で、今日の成果が出るかどうか――そこでわかる」
(四姉妹との組手、確定なんだな……)
青見は内心でため息をつきつつ、木刀を脇に置き、構え直した。
「……お願いします」
「よし」
龍が手を叩く。
「じゃあまず、“力を抜く”前蹴り五十本からだ」
「抜くのに五十本……」
「抜けないから五十本だ」
乾いた龍の声に、思わず苦笑が漏れる。
――こうして、二日目の稽古が始まった。
昨日よりは少しだけマシな身体。
だが、要求される“質”は、昨日より一段、いや二段は高い。
入口の方では、夕飯の支度に向かう四姉妹の後ろ姿。
彼女たちの足運びや、階段を上るときの無駄のない重心の移動さえ、今の青見には“教材”として目に入っていた。
(あそこに、近づいていくための、最初の一歩だ)
筋肉痛の鈍い痛みも、汗が目に入る痺れも――
その全部を飲み込むように、青見は静かに息を吐いた。
李のにょほほという笑い声と、龍の短い号令。
胆の淡々とした指摘。
奥からは、台所で鍋の蓋が鳴る音。
そんな安生道場の日常の中で、青見の“剣のための身体”作りは、着実に一歩を踏み出し始めていた。