なんちゃってクトゥルフ小説   作:ぶーく・ぶくぶく

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安生道場5

 ◆ 二日目・前半の稽古のつづき ◆

 

「じゃあまず、“力を抜く”前蹴り五十本からだ」

 

「抜くのに五十本……」

 

「抜けないから五十本だ」

 

 龍の乾いた声に、思わず苦笑しつつも、青見は前足を半歩引き、構えを取る。

 

「一つ目の意識だ」

 

 龍がすっと横に立つ。

 

「蹴りは“足を上げる”んじゃない。

 ――“腰から脚がぶら下がっている”と思え」

 

「腰から、ぶら下がって……」

 

「そうだ。最初の二十本は“当てなくていい”。

 ただ、膝を上げて、ぶら下がった足を前に“振る”感覚だけを探せ」

 

「振る、ですか」

 

「そうだ。力を入れようとするな。入るのは勝手に入る」

 

(言ってる意味はわかるけど、体がついてくるかどうか……)

 

 深く息を吸い、吐き出す。

 足裏で畳をしっかりと感じ、腰の位置をほんの少し沈めて――。

 

「いち」

 

 号令と同時に、膝を上げる。

 ふらつきかけた重心を、足指で畳を掴むようにして押し戻す。

 

「に」

 

 今度は、さっきより少しだけ、腰が先行する。

 

「さん」

 

 膝が勝手に上がる感覚と、上げさせている意識の境目を探りながら、淡々と数を重ねていく。

 

「……二十」

 

 龍が数えるのを止めた。

 

「ここからだ」

 

「ここから……」

 

「今度は、“戻し”を意識しろ」

 

 龍は自分でも一度、ゆっくりと前蹴りを出してみせる。

 伸びる瞬間は柔らかく、戻りだけが異様に速い。

 

「蹴りは、“当たった後”が大事だ。

 当てたままにしている足は、相手に掴めと言っているようなものだ」

 

「なるほど……」

 

「二十一から三十までは、“戻しだけ”速く。

 三十一から四十は、“腰を先に戻す”。

 最後の十本は、全部意識をまとめてやる」

 

「欲張りセットですね」

 

「稽古とはそういうものだ」

 

 龍の声は淡々としているが、その目はわずかに楽しげだった。

 

 膝を上げ、足を振り出し、瞬時に引き戻す。

 腰を、先に引いてしまう感覚。

 最初はバラバラだった動きが、少しずつ一本の線の上に乗っていく。

 

「……三十五!」

 

 息が上がる。

 太ももが焼けるように熱くなってくる。

 

「三十六」

 

 ぐらりと重心が流れかけ――

 

「そこだ」

 

 すっと側面から胆の声が飛んだ。

 

「今の“ぐらつき”を、畳の感触で覚えろ。

 それが“崩される一歩手前”の位置だ」

 

「崩される、一歩手前……」

 

「そうだ。

 組手で相手に押されたとき、その感触が来たら――そこから先は“もう一歩”下げてはいけない」

 

 胆は淡々と告げる。

 

「“ここまでは耐える”“ここからは受け流す”。

 今日の稽古で、その境目を探せ」

 

「……はい」

 

 四十を越えた頃には、汗が顎からぽたぽたと畳に落ちていた。

 最後の十本は、もはや気合と根性の塊だったが、龍も胆も止めない。

 

「――五十!」

 

 最後の一発を戻し切った瞬間、青見は思わずその場に膝をついた。

 

「はぁ……っ!」

 

「よし」

 

 龍が短く言う。

 

「昨日より、ずっとマシだ」

 

「……本当ですか」

 

「昨日なら、三十で足が止まっていたな」

 

 龍が口元だけで笑った。

 

「今の五十本は、“形”になっていた。

 ――ここから、ようやく“技”にしていく」

 

「これから、なんですね……」

 

「当然だろう」

 

 胆が、畳に座ったまま言う。

 

「まだ馬歩も残っている」

 

「ですよね」

 

 諦め半分、覚悟半分の返事だった。

 

 ◆ 夕方・四姉妹との組手 ◆

 

 夕飯の支度を終えた四姉妹が、道場に戻ってきたのは、ちょうど馬歩立ちの地獄が一区切りついた頃だった。

 

「おー、生きてる生きてる」

 

 友香が、どこか感心したように拍手する。

 

「昨日より顔色はマシだね。汗のかき方が“死にかけ”じゃなくて“ちゃんと追い込んだ人”のやつだ」

 

「そんな分類あるんですか」

 

「あるある」

 

 梨花は青見の姿勢を一瞥し、すぐに李たちを見る。

 

「おじい様、今日はここまでじゃないですよね?」

 

「にょほほ。当然じゃ。

 ――梨花、お主からやってやれ」

 

「わかりました」

 

 梨花はすっと道場の中央に立つ。

 

「青見くん、軽く組手しましょう。

 今日は、“崩されないこと”だけ意識してみて」

 

「はい」

 

 軽く礼を交わし、構えを取る。

 

 梨花の型は、美しいほどに教科書どおりだ。

 無駄のない足運び、ぶれない上半身。

 だが、その“教科書どおり”が、そのまま“隙の少なさ”に繋がっている。

 

「行きます」

 

 声と同時に、一歩。

 

 触れるか触れないかの距離まで踏み込まれ、青見は咄嗟に前蹴りを選んだ。

 

(さっきまでやってたやつ……!)

 

 腰から、足がぶら下がるイメージ。

 伸びる瞬間だけ、最小限の力。

 

 ――しかし。

 

「はい」

 

 梨花は、まるで最初からそこに蹴りが来るとわかっていたかのように、半歩だけ外側に回った。

 

 足が空を切る。

 次の瞬間、膝の裏に軽く手刀が当たって、バランスが崩れた。

 

「っ!」

 

「そのまま、はい、床」

 

 崩れた体勢を、梨花は最小限の力で“押す”だけでよかった。

 

 畳に手をつきながら、青見は自分の腰の位置を確認する。

 

「……崩される、一歩手前」

 

「そう」

 

 梨花が頷く。

 

「さっき、おじい様とお父様が話してた“境目”を、今、ぶっちぎってました。

 前に出た勢いと、私の“横”の力が合わさって、そのまま転がされた形です」

 

 梨花は、その場で簡単に足運びをなぞってみせた。

 

「今の前蹴り自体は悪くなかったですよ。

 でも――“蹴った後の重心”が、そのまま前に流れてた」

 

「戻しが遅かった、ってことですか」

 

「戻し“だけ”じゃないです」

 

 梨花は小さく笑う。

 

「蹴りを外された瞬間に、“一回後ろに戻る”っていう選択肢も、頭のどこかに置いておいてください。

 突っ込むだけが攻めじゃないから」

 

「……はい」

 

(突っ込みがちなの、図星だな)

 

 何度か同じパターンを繰り返し、少しずつ“崩される一歩手前で止まる”感覚を探っていく。

 

 梨花との組手が終わる頃には、足の裏の感覚が、さっきよりずっと鮮明になっていた。

 

「じゃ、次は私ね」

 

 友香がパッと手を挙げる。

 

「青見くん、“フェイント”担当の時間だよ」

 

「担当制なんですか、これ」

 

「うん。私は“揺らす係”」

 

 そう言うなり、友香はひょいと距離を詰めてきた。

 肩の力が抜けていて、どこからでも攻撃が出てきそうな、読みにくい構え。

 

「じゃ、最初は“全部ダマし”ね」

 

「全部……」

 

「私の上半身の動きには、一切反応しない。

 足だけ見て。腰だけ見て。

 ――それ以外は、“ノイズ”だと思って」

 

 言った次の瞬間、友香の上半身が大げさに揺れた。

 

「うおっ」

 

「はい、引っかかったー」

 

 笑いながら軽く掌底を突き出す。

 ギリギリでガードは間に合ったが、視線が泳いでいるのが自分でもわかる。

 

「ね? 簡単に釣られるでしょ?」

 

「……認めざるを得ない」

 

「人間、顔が動くとそっち見ちゃうからね。

 でも、“本当に来るのは足と腰”なんだよ」

 

 友香は、わざとらしく肩をすくめながら、ステップを踏む。

 

「じゃ、私が“大げさなフェイント”かけるから、その間に“自分の攻撃を一発だけ通す”ことだけ考えて」

 

「攻撃を……一発」

 

「そう。守るばっかだと、いつまで経ってもラクダのままだからね」

 

「ラクダ……?」

 

「荷物背負って蹴られるだけの役」

 

「それは避けたいですね」

 

 軽口を交わしながらも、青見の目は自然と友香の足元と腰に集中していく。

 

 肩が揺れる。首が傾く。腕が上下する。

 しかし、実際に距離を詰めてくるのは、常に足と腰だ。

 

(そこだけ、切り取る……)

 

 数合交えたところで、ふっと視界の“ノイズ”が薄れた瞬間があった。

 

「今だ!」

 

 無意識のうちに、前蹴りが出ていた。

 

 先ほど梨花との稽古で叩き込まれた“戻しの意識”が、自然と乗る。

 友香の肩口の前で、ぎりぎり止まる軌道。

 

「――おっ」

 

 友香が目を丸くし、すぐにニッと笑った。

 

「今の、いいね」

 

「……マジですか」

 

「うん、“釣られたフリして、こっちが釣り返した”感じ。

 そうそう、そういうの大事」

 

 友香は嬉しそうに肩を叩いてきた。

 

「じゃ、これ以上やると頭パンクしそうだから、このくらいにしとこっか」

 

「助かります」

 

 心の底からの本音だった。

 

「では、次は――私ですね」

 

 ユイリィが静かに立ち上がる。

 

「今日の私は、“軸”担当です」

 

「軸担当……」

 

「はい。

 私と軽く手を合わせながら、“頭の位置がブラさない”ことだけ考えてください」

 

 ユイリィは、掌を前に出す。

 

「力は入れません。押しません。

 ただ、お互いの手のひらを“触れさせたまま”動くだけです」

 

 実際にやってみると、これが意外と難しい。

 

 手のひら同士だけが、常に同じ位置で触れ合うように――

 ユイリィは、ゆっくりと前後左右に移動する。

 

「頭が先に動いています」

 

「えっ」

 

「今、二回。

 足より先に頭が前に出ました」

 

「あー……」

 

 言われてみれば、視界の端に床が近づいて見えている。

 

「視界を追いかけると、頭が先に行きます。

 ――“床の一点”だけ、見てもらえますか?」

 

「床の、一点」

 

「はい。そこから“自分の頭の位置”を外さないように」

 

 ユイリィの声は、相変わらず淡々としている。

 だが、その一言一言が、妙にスッと頭に入ってきた。

 

(頭の位置を、固定する……)

 

 足が動いても、腰が回っても、頭だけは“真ん中”に留めておくイメージ。

 ユイリィの手のひらの圧が少し変わるたびに、重心が流れかけるのを自覚できるようになっていく。

 

「……さっきよりマシです」

 

 ユイリィが、小さく頷いた。

 

「これなら、さっき梨花に崩された分は、少しだけ取り返せると思います」

 

「“少しだけ”なんですね」

 

「謙虚さは美徳です」

 

 表情をあまり変えないまま、さらっと言う。

 

 最後に、ルテアが「じゃ、私は“フィーリング担当”ね」と言い出したので、

 さすがに龍が「今日はここまでだ」と制止した。

 

「ルテアの“フィーリング”は、二日目にぶつけるものではない」

 

「お父様ひどい」

 

「否定はしない」

 

 そんなやりとりに、道場に笑いが広がる。

 

 ◆ 稽古後・夜道のメッセージ ◆

 

 帰り際、李たちに挨拶をして道場を出る頃には、空はすっかり暗くなっていた。

 住宅街の街灯がぽつぽつと灯り、ひんやりとした夜気が汗を冷やしていく。

 

 ポケットの中で、スマホが震えた。

 

 画面を見ると、彩女からのメッセージが一件。

 

『今日も道場?』

 

 短い文面。

 でも、その一行だけで、彼女がどれくらい意識しているかが伝わってくる。

 

『うん。今終わった。

 じいさん&親父さん&兄貴+4姉妹フルコースでしごかれた』

 

 送信して少しすると、すぐに返信が来た。

 

『死んでない?』

 

『筋肉痛でバキバキだけど、生きてる』

 

 打ち込んでいると、スタンプがぽんと飛んできた。

 へろへろになっているキャラクターの横に、「おつかれ」と吹き出しがついている。

 

 続いて、もう一行。

 

『……変なことされてない?』

 

 昨日のやり取りと、彼女の“条件”が頭をよぎる。

 

『ラッキースケベ的なやつはゼロ。

 転ばされたり殴られそうになったりは、たくさん』

 

 少し迷ってから、そう正直に送る。

 

 しばらくしてから返ってきたのは、たった4文字だった。

 

『よろしい』

 

 その後に続いたスタンプは、なぜか腕を組んで頷いている女の子だった。

 

(……ほんと、わかりやすいな)

 

 苦笑しつつも、どこか胸の奥が軽くなる。

 

『ちゃんと強くなって帰ってくるから』

 

 そう打ち込んで、一瞬だけ迷い、送信ボタンを押した。

 

 数秒後。

 

『当たり前でしょ。

 あたしの隣に立つんだから』

 

 その返信を見た瞬間、今日の筋肉痛も、少しだけ報われた気がした。

 

(よし。明日も、行くか)

 

 夜風を一度深く吸い込み、吐き出す。

 

 安生道場での修行は、まだ始まったばかり。

 でも、その先に並んで立つ相手がいるというだけで、

 この“地味でキツい”道の一歩一歩が、少しだけ楽しく思えた。

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