◆ 二日目・前半の稽古のつづき ◆
「じゃあまず、“力を抜く”前蹴り五十本からだ」
「抜くのに五十本……」
「抜けないから五十本だ」
龍の乾いた声に、思わず苦笑しつつも、青見は前足を半歩引き、構えを取る。
「一つ目の意識だ」
龍がすっと横に立つ。
「蹴りは“足を上げる”んじゃない。
――“腰から脚がぶら下がっている”と思え」
「腰から、ぶら下がって……」
「そうだ。最初の二十本は“当てなくていい”。
ただ、膝を上げて、ぶら下がった足を前に“振る”感覚だけを探せ」
「振る、ですか」
「そうだ。力を入れようとするな。入るのは勝手に入る」
(言ってる意味はわかるけど、体がついてくるかどうか……)
深く息を吸い、吐き出す。
足裏で畳をしっかりと感じ、腰の位置をほんの少し沈めて――。
「いち」
号令と同時に、膝を上げる。
ふらつきかけた重心を、足指で畳を掴むようにして押し戻す。
「に」
今度は、さっきより少しだけ、腰が先行する。
「さん」
膝が勝手に上がる感覚と、上げさせている意識の境目を探りながら、淡々と数を重ねていく。
「……二十」
龍が数えるのを止めた。
「ここからだ」
「ここから……」
「今度は、“戻し”を意識しろ」
龍は自分でも一度、ゆっくりと前蹴りを出してみせる。
伸びる瞬間は柔らかく、戻りだけが異様に速い。
「蹴りは、“当たった後”が大事だ。
当てたままにしている足は、相手に掴めと言っているようなものだ」
「なるほど……」
「二十一から三十までは、“戻しだけ”速く。
三十一から四十は、“腰を先に戻す”。
最後の十本は、全部意識をまとめてやる」
「欲張りセットですね」
「稽古とはそういうものだ」
龍の声は淡々としているが、その目はわずかに楽しげだった。
膝を上げ、足を振り出し、瞬時に引き戻す。
腰を、先に引いてしまう感覚。
最初はバラバラだった動きが、少しずつ一本の線の上に乗っていく。
「……三十五!」
息が上がる。
太ももが焼けるように熱くなってくる。
「三十六」
ぐらりと重心が流れかけ――
「そこだ」
すっと側面から胆の声が飛んだ。
「今の“ぐらつき”を、畳の感触で覚えろ。
それが“崩される一歩手前”の位置だ」
「崩される、一歩手前……」
「そうだ。
組手で相手に押されたとき、その感触が来たら――そこから先は“もう一歩”下げてはいけない」
胆は淡々と告げる。
「“ここまでは耐える”“ここからは受け流す”。
今日の稽古で、その境目を探せ」
「……はい」
四十を越えた頃には、汗が顎からぽたぽたと畳に落ちていた。
最後の十本は、もはや気合と根性の塊だったが、龍も胆も止めない。
「――五十!」
最後の一発を戻し切った瞬間、青見は思わずその場に膝をついた。
「はぁ……っ!」
「よし」
龍が短く言う。
「昨日より、ずっとマシだ」
「……本当ですか」
「昨日なら、三十で足が止まっていたな」
龍が口元だけで笑った。
「今の五十本は、“形”になっていた。
――ここから、ようやく“技”にしていく」
「これから、なんですね……」
「当然だろう」
胆が、畳に座ったまま言う。
「まだ馬歩も残っている」
「ですよね」
諦め半分、覚悟半分の返事だった。
◆ 夕方・四姉妹との組手 ◆
夕飯の支度を終えた四姉妹が、道場に戻ってきたのは、ちょうど馬歩立ちの地獄が一区切りついた頃だった。
「おー、生きてる生きてる」
友香が、どこか感心したように拍手する。
「昨日より顔色はマシだね。汗のかき方が“死にかけ”じゃなくて“ちゃんと追い込んだ人”のやつだ」
「そんな分類あるんですか」
「あるある」
梨花は青見の姿勢を一瞥し、すぐに李たちを見る。
「おじい様、今日はここまでじゃないですよね?」
「にょほほ。当然じゃ。
――梨花、お主からやってやれ」
「わかりました」
梨花はすっと道場の中央に立つ。
「青見くん、軽く組手しましょう。
今日は、“崩されないこと”だけ意識してみて」
「はい」
軽く礼を交わし、構えを取る。
梨花の型は、美しいほどに教科書どおりだ。
無駄のない足運び、ぶれない上半身。
だが、その“教科書どおり”が、そのまま“隙の少なさ”に繋がっている。
「行きます」
声と同時に、一歩。
触れるか触れないかの距離まで踏み込まれ、青見は咄嗟に前蹴りを選んだ。
(さっきまでやってたやつ……!)
腰から、足がぶら下がるイメージ。
伸びる瞬間だけ、最小限の力。
――しかし。
「はい」
梨花は、まるで最初からそこに蹴りが来るとわかっていたかのように、半歩だけ外側に回った。
足が空を切る。
次の瞬間、膝の裏に軽く手刀が当たって、バランスが崩れた。
「っ!」
「そのまま、はい、床」
崩れた体勢を、梨花は最小限の力で“押す”だけでよかった。
畳に手をつきながら、青見は自分の腰の位置を確認する。
「……崩される、一歩手前」
「そう」
梨花が頷く。
「さっき、おじい様とお父様が話してた“境目”を、今、ぶっちぎってました。
前に出た勢いと、私の“横”の力が合わさって、そのまま転がされた形です」
梨花は、その場で簡単に足運びをなぞってみせた。
「今の前蹴り自体は悪くなかったですよ。
でも――“蹴った後の重心”が、そのまま前に流れてた」
「戻しが遅かった、ってことですか」
「戻し“だけ”じゃないです」
梨花は小さく笑う。
「蹴りを外された瞬間に、“一回後ろに戻る”っていう選択肢も、頭のどこかに置いておいてください。
突っ込むだけが攻めじゃないから」
「……はい」
(突っ込みがちなの、図星だな)
何度か同じパターンを繰り返し、少しずつ“崩される一歩手前で止まる”感覚を探っていく。
梨花との組手が終わる頃には、足の裏の感覚が、さっきよりずっと鮮明になっていた。
「じゃ、次は私ね」
友香がパッと手を挙げる。
「青見くん、“フェイント”担当の時間だよ」
「担当制なんですか、これ」
「うん。私は“揺らす係”」
そう言うなり、友香はひょいと距離を詰めてきた。
肩の力が抜けていて、どこからでも攻撃が出てきそうな、読みにくい構え。
「じゃ、最初は“全部ダマし”ね」
「全部……」
「私の上半身の動きには、一切反応しない。
足だけ見て。腰だけ見て。
――それ以外は、“ノイズ”だと思って」
言った次の瞬間、友香の上半身が大げさに揺れた。
「うおっ」
「はい、引っかかったー」
笑いながら軽く掌底を突き出す。
ギリギリでガードは間に合ったが、視線が泳いでいるのが自分でもわかる。
「ね? 簡単に釣られるでしょ?」
「……認めざるを得ない」
「人間、顔が動くとそっち見ちゃうからね。
でも、“本当に来るのは足と腰”なんだよ」
友香は、わざとらしく肩をすくめながら、ステップを踏む。
「じゃ、私が“大げさなフェイント”かけるから、その間に“自分の攻撃を一発だけ通す”ことだけ考えて」
「攻撃を……一発」
「そう。守るばっかだと、いつまで経ってもラクダのままだからね」
「ラクダ……?」
「荷物背負って蹴られるだけの役」
「それは避けたいですね」
軽口を交わしながらも、青見の目は自然と友香の足元と腰に集中していく。
肩が揺れる。首が傾く。腕が上下する。
しかし、実際に距離を詰めてくるのは、常に足と腰だ。
(そこだけ、切り取る……)
数合交えたところで、ふっと視界の“ノイズ”が薄れた瞬間があった。
「今だ!」
無意識のうちに、前蹴りが出ていた。
先ほど梨花との稽古で叩き込まれた“戻しの意識”が、自然と乗る。
友香の肩口の前で、ぎりぎり止まる軌道。
「――おっ」
友香が目を丸くし、すぐにニッと笑った。
「今の、いいね」
「……マジですか」
「うん、“釣られたフリして、こっちが釣り返した”感じ。
そうそう、そういうの大事」
友香は嬉しそうに肩を叩いてきた。
「じゃ、これ以上やると頭パンクしそうだから、このくらいにしとこっか」
「助かります」
心の底からの本音だった。
「では、次は――私ですね」
ユイリィが静かに立ち上がる。
「今日の私は、“軸”担当です」
「軸担当……」
「はい。
私と軽く手を合わせながら、“頭の位置がブラさない”ことだけ考えてください」
ユイリィは、掌を前に出す。
「力は入れません。押しません。
ただ、お互いの手のひらを“触れさせたまま”動くだけです」
実際にやってみると、これが意外と難しい。
手のひら同士だけが、常に同じ位置で触れ合うように――
ユイリィは、ゆっくりと前後左右に移動する。
「頭が先に動いています」
「えっ」
「今、二回。
足より先に頭が前に出ました」
「あー……」
言われてみれば、視界の端に床が近づいて見えている。
「視界を追いかけると、頭が先に行きます。
――“床の一点”だけ、見てもらえますか?」
「床の、一点」
「はい。そこから“自分の頭の位置”を外さないように」
ユイリィの声は、相変わらず淡々としている。
だが、その一言一言が、妙にスッと頭に入ってきた。
(頭の位置を、固定する……)
足が動いても、腰が回っても、頭だけは“真ん中”に留めておくイメージ。
ユイリィの手のひらの圧が少し変わるたびに、重心が流れかけるのを自覚できるようになっていく。
「……さっきよりマシです」
ユイリィが、小さく頷いた。
「これなら、さっき梨花に崩された分は、少しだけ取り返せると思います」
「“少しだけ”なんですね」
「謙虚さは美徳です」
表情をあまり変えないまま、さらっと言う。
最後に、ルテアが「じゃ、私は“フィーリング担当”ね」と言い出したので、
さすがに龍が「今日はここまでだ」と制止した。
「ルテアの“フィーリング”は、二日目にぶつけるものではない」
「お父様ひどい」
「否定はしない」
そんなやりとりに、道場に笑いが広がる。
◆ 稽古後・夜道のメッセージ ◆
帰り際、李たちに挨拶をして道場を出る頃には、空はすっかり暗くなっていた。
住宅街の街灯がぽつぽつと灯り、ひんやりとした夜気が汗を冷やしていく。
ポケットの中で、スマホが震えた。
画面を見ると、彩女からのメッセージが一件。
『今日も道場?』
短い文面。
でも、その一行だけで、彼女がどれくらい意識しているかが伝わってくる。
『うん。今終わった。
じいさん&親父さん&兄貴+4姉妹フルコースでしごかれた』
送信して少しすると、すぐに返信が来た。
『死んでない?』
『筋肉痛でバキバキだけど、生きてる』
打ち込んでいると、スタンプがぽんと飛んできた。
へろへろになっているキャラクターの横に、「おつかれ」と吹き出しがついている。
続いて、もう一行。
『……変なことされてない?』
昨日のやり取りと、彼女の“条件”が頭をよぎる。
『ラッキースケベ的なやつはゼロ。
転ばされたり殴られそうになったりは、たくさん』
少し迷ってから、そう正直に送る。
しばらくしてから返ってきたのは、たった4文字だった。
『よろしい』
その後に続いたスタンプは、なぜか腕を組んで頷いている女の子だった。
(……ほんと、わかりやすいな)
苦笑しつつも、どこか胸の奥が軽くなる。
『ちゃんと強くなって帰ってくるから』
そう打ち込んで、一瞬だけ迷い、送信ボタンを押した。
数秒後。
『当たり前でしょ。
あたしの隣に立つんだから』
その返信を見た瞬間、今日の筋肉痛も、少しだけ報われた気がした。
(よし。明日も、行くか)
夜風を一度深く吸い込み、吐き出す。
安生道場での修行は、まだ始まったばかり。
でも、その先に並んで立つ相手がいるというだけで、
この“地味でキツい”道の一歩一歩が、少しだけ楽しく思えた。