◆ 日曜・出稽古の朝 ◆
「――今日は道場じゃないんですね」
日曜の朝。
いつもの安生道場ではなく、駅前のロータリーに立ちながら、青見は李の隣でそう言った。
「にょほほ、たまには“外の空気”も吸わんとな」
李は紙袋をぶら下げ、のんきそうに笑っている。
その紙袋の中には、木刀が二本と、何やら細長い包みが一本。
「前に言ったじゃろ。“お主の刀を見てくれる、ちと変わり者の剣客”のこと」
「ああ、あの“出稽古”ってやつですか」
「そうじゃそうじゃ。
お主の基礎、いくらワシらが鍛えても、最後に“刃の世界”に触れさせるのは、やはり相応の手がよい」
「相応の手……」
そこだけ妙に含みのある言い方だった。
電車に乗り、さらにローカル線に揺られ、そこからバスに乗り継ぎ――。
辿り着いたのは、町外れの小さな神社だった。
石段を上ると、拝殿の横に、少し開けた土のスペースがある。
殺風景といえば殺風景だが、足を踏みしめた感触は妙に“稽古場”向きだった。
「着いたぞ」
李が鳥居の前で立ち止まり、小さく頭を下げる。
「ご無沙汰しておりますのう、“相良”殿」
その声に応えるように、拝殿の影から、すっと一人の男が現れた。
年の頃は四十前後か。
長身痩躯。
髪は無造作に後ろで束ね、古びたジャージの上に道着の上衣だけを羽織っている。
だが、その歩き方は異様なほど静かで、土を踏む音がほとんどしなかった。
「……遅い」
抑えた声が落ちる。
「時間ぴったりでしょうに」
李が肩をすくめると、男はちらりと青見を見た。
「こいつか」
「そうじゃ。安生道場の、新入りじゃよ」
男――相良義輝は、その名を聞いても特に表情を変えなかった。
だが、青見を射抜くような視線だけが、じりじりと肌を刺す。
「名は」
「青見です。青見……えっと」
「名だけでいい」
ばっさり切られて、微妙に名乗り損ねた。
「よろしくお願いします」
頭を下げると、相良は一歩、近づいてきた。
「そこに立て」
拝殿前の、少し開けた土の上を指さされる。
「はい」
指定された位置に立つと、相良は拝殿の柱に立てかけてあった長い包みを解いた。
中から現れたのは――
鞘付きの日本刀だった。
(……マジか)
青見の喉が、ごくりと鳴る。
相良はゆっくりと鞘を払った。
薄曇りの空の下で、刃が白く光る。
「にょほほ」
李が少し離れたところから楽しそうに見ている。
「今日は、“本物”と挨拶してもらう日じゃ」
「本物……」
青見は、無意識のうちに背筋を伸ばしていた。
刃がこちらを向いているわけではない。
それでも、視界のどこかに“鋼の線”が入ってくるだけで、指先の血の流れが変わった気がした。
「怖いか」
相良が、唐突に尋ねた。
「……正直、ちょっと」
「ちょっと、で済んでいるうちは甘い」
相良は刀を下段に構えた。
踏み込みも予備動作も、ほとんど見えない。
「恐怖を、知れ」
その声と同時に――刃が消えた。
いや、正確には“見えなくなった”だけだ。
次の瞬間には、首筋すれすれの位置で、ぴたりと止まっていた。
ひゅうっ、と、遅れて風が頬を撫でる。
「っ……!」
全身の毛穴が、一斉に開いた。
あと一歩、遅くても速くても、何かが違っていたかもしれない。
そういう“ギリギリ”の線上に、自分の命が乗っていた感覚だけが、鮮烈に残る。
「動かなかったな」
相良の声が、耳のすぐそばで響いた。
「よくやった、とは言わん」
刃がゆっくりと離れていく。
青見は、ようやく肺に空気を入れた。
「今ので腰が抜けても、おかしくはない。
だが、お前は――一瞬、目を閉じそうになって、閉じなかった」
「……そう、ですか」
「首を狙った。視界から刃を消した。
それでも“消えた後の軌道”を追っていた」
相良は、刀を軽く払うように振る。
「実戦を潜っているな」
その一言に、青見の背中がぴくりと跳ねた。
「“初めて刃を見た目”じゃない」
相良の瞳が、どこか遠くを見るように細められる。
「耳に残っているだろう。
――真紅の戦慄の、あの音が」
「っ……!」
喉の奥で、何かがつかえた。
赤。
あの夜の、いやなほど鮮やかな色が蘇る。
目の前で振り下ろされた何か。
自分のものではない血の飛沫。
焼けつくような金属音と、悲鳴と――。
「それだけじゃない」
相良は、さらに一歩、距離を詰めた。
「“天才の証”だと、自分では思っていないか。
“闇を呼ぶメロディ”に、いつか自分も呑まれるのではないかと、どこかで怯えている」
「……何、言って……」
口では否定しようとしたが、言葉が続かなかった。
あの時見た。
自分よりずっと“上”の存在が、名状し難い姿で人を食らうところを。
音楽のように、一定のリズムで、淡々と。
血の匂いに酔いながら、自分の才能を“証明”していく化け物を。
「その目だ」
相良は、刀を静かに鞘に納めた。
「一度、血の匂いを嗅いでいる。
それも、ただのケンカや事故ではない。
――“殺すつもりの誰か”と、“殺す気のない自分”。その軋みを知っている目だ」
青見は、拳を握りしめた。
「……そんなもの、知らない方がよかったですよ」
「だろうな」
相良は、あっさりと頷く。
「だが、知ってしまった以上、それは消えん。
ならば、その闇ごと“刃の側”に引きずってしまえ」
「刃の、側……?」
「そうだ」
相良は、李の持ってきた紙袋を足先でつついた。
「おい、じじい。例の物は」
「おお、これじゃこれじゃ」
李が中から、細長い鉄の棒を取り出した。
柄も鍔もない、ただの鉄の棒。
片手で扱える長さ――だが、ずっしり重い。
「お主、普段は何を使っとるんじゃったかの」
「えっと……」
青見は、少しためらってから答えた。
「特殊警棒、です。
伸びるやつ。普段は短くして持ち歩けるんで」
「ほほう」
相良が、興味なさそうに眉だけ動かす。
「伸びる棒か。
確かに便利だ。携帯性もいい。
……だが、それでは“突き”が死ぬ」
「突き、ですか」
「そうだ。
その手の警棒は、構造上どうしても先端が軽くなる。
伸ばした状態で強く突けば、関節に無駄な負荷がかかるだけだ」
相良は、鉄の棒を片手で受け取り、軽く振ってみせた。
「刃物に慣れないうちは、“刃のない刃”を持て」
しゃらん、と、空気を裂く音がした。
「これは、ただの鉄の棒だ。
だが、バランスは刀に寄せてある。
打つこともできる。突くこともできる。
――“怖がらずに振れる刃”だと思え」
そう言って、棒を青見に差し出す。
受け取った瞬間、腕にずしりと来た。
(重……)
特殊警棒とは、比べものにならない密度だった。
重心も、柄寄りではなく、刃寄りに作られている。
「えっと、これ……」
青見は、棒と相良の顔を交互に見た。
「どう持ち歩けば……」
「そのまま持って歩けばいい」
「いや、絶対職質されますよねこれ!?」
思わず素の声が出た。
相良は、そこでようやく少しだけ口元を緩めた。
「職質されないようなに、歩き方と、持ち方と、顔つきを覚えろ」
「顔つきってなんですか!?」
「“こいつはこういう物を持っていてもおかしくない”と思わせる顔だ」
「それ余計危ないやつじゃないですか!?」
後ろで李が「にょっほっほ」と笑っている。
「まあまあ。相良の言い方が悪いだけでのう。
――ちゃんとケースも用意しておるわい」
李が紙袋の底から、地味な黒い筒型ケースを取り出した。
どう見ても釣り竿ケースか、ポスターケースである。
「これなら電車もバスも大丈夫じゃ。
中に鉄の棒が入っておるとは思われまい」
「ですよね!? 最初からそう言ってくださいよ!」
「相良は説明が苦手での」
「お前が余計な前振りをするからだ」
ぶつぶつ言い合う二人を横目に、青見は改めて鉄の棒――“刃のない刃”を握り直した。
重い。
だが、その重さの奥に、どこか安心感がある。
「それを“普段使いの延長”にするなよ」
相良が、ふっと真顔に戻る。
「警棒感覚で“人を殴る棒”として持ち歩けば、いずれお前は間違える。
――これは、“刃物の代わり”だ」
「……はい」
「お前が“闇を呼ぶメロディ”を怖がっているのは、悪いことじゃない」
相良の目が、もう一度、青見の奥を覗き込む。
「だが、その恐怖を“見ないふり”したまま刃物を握れば、いつか本当に、あの旋律に飲まれる」
低く、静かな声。
「恐怖を知れ。
知った上で、“それでも立つ”筋肉を作れ。
今はその段階だ」
「……はい」
握り拳に、力が入る。
(怖いのは、ずっと前からだ。
でも――)
その怖さごと抱えて、“隣に立つ”と決めた相手がいる。
自分の選んだ場所がある。
(そっから逃げるのは、たぶん違う)
「よし」
相良は、ひとつ頷いた。
「今日はこいつで、ひたすら“突き”だけだ」
「だけ……」
「“だけ”と言っても、百本や二百本で終わると思うな」
「ですよね……」
李が、楽しそうに手を叩く。
「にょほほ。若いのう。
――安心せい、夕飯はワシが奢ってやる」
「それ聞いても、あんまり安心できないんですけど……」
それでも、青見は鉄の棒を構え、土の上に足を踏み込んだ。
真剣の寸止めが、まだ首筋の皮膚に残っている。
あの“真紅の戦慄”と、“闇を呼ぶメロディ”の記憶も、消えることはない。
――だからこそ。
(この線を越えないために、強くなる)
鉄の棒の先を、目の前の見えない敵へとまっすぐ向ける。
相良義輝という、現代に残る剣豪の前で。
恐怖も闇もまとめて抱えながら、青見の“刃の稽古”が始まった。