◆ 突きの稽古 ◆
「構えろ」
相良の一声で、空気がまた一段、張り詰めた。
鉄の棒を中段に構える。
足は肩幅、つま先はやや内側、前足に気持ち多めに体重。
李に叩き込まれた“基礎”が、自然と身体を形にしていく。
「まずは、正面への突きだ」
相良が、土の上に印をつける。
青見からちょうど二歩半の位置。
「ここが“喉”だと思え」
「……はい」
「一足一刀。
お前のリーチと運足なら、その位置が“斬り合う前のライン”だ」
相良は、自分の胸を軽く指で叩く。
「そこから先に入るとき、“斬る側”に立たなければならない。
――それを、突きで教える」
言い終わらないうちに、右手の刀がわずかに揺れた。
さっき、首筋に寸止めを入れてきたその刀だ。
「百だ」
「……百?」
「ミスったら増える」
逃げ道はないらしい。
「号令はかけん。自分のタイミングでやれ。
ただし――」
すっと、視線だけが鋭くなる。
「“殺すつもりで突け”。
それができないなら、今すぐやめろ」
喉の奥が、かすかに鳴った。
殺すつもり――。
その言葉を口にされるだけで、あの真紅の記憶が、脳裏でざわりと揺れる。
(――嫌だ)
心の奥底で、反射的にそう思う自分と。
(それでもやらなきゃ、守れないだろ)
別の声が、静かに押し返す。
呼吸を一つ、深く。
狙いの“喉”を、一点だけ見据えて――。
「……一本」
腰を切り、後ろ足で地面を蹴る。
鉄の棒が、一直線に前へ走る。
喉元の手前数センチで、ぴたりと止める。
「二本」
戻し。
構え直し。
再び前へ。
突きのたびに、手のひらに伝わる鉄の重さと、足裏から上がってくる反動。
「三本」
額に汗が滲む。
だが、その汗の奥に、じりじりとした熱が混じっていく。
五本目あたりで、相良の声が飛んだ。
「腰が抜けるな。
“前に出る足”より、“押し出す腰”を先に意識しろ」
「はい!」
十本目。
「今のは“守る突き”だ」
「守る……?」
「“当てる場所を選んでいる”突きだ。
殺すつもりで、急所を狙い、なおかつ止めろ」
無茶なことをさらっと言う。
(でも――)
さっきの真剣の寸止め。
あの首筋すれすれの“線”を思い出す。
(あれをやった人間が言うなら)
少なくとも、できる可能性が“ゼロ”ではない証拠だ。
意識を切り替える。
“当てたら危ないから弱める”のではなく――
“本気で貫くつもりで、ギリギリで止める”。
「十一本」
「十二本」
数えながら、無意識に歯を食いしばる。
途中で、相良の刀がふっと動いた。
突きが伸びきる直前、刃がそっと軌道の外側に差し込まれる。
もし今のが真剣だったら――
自分の突きに合わせて、腕ごと断ち切られていた。
「十五」
「……っ!」
「怖いか」
「……そりゃ、怖いですよ」
「それでいい」
相良は淡々と言う。
「怖いから、目を閉じるな。
怖いから、狙いを外すな。
――怖いからこそ、“線”を外すな」
喉元の一点。
そこに、突きの軌道を“縫い付ける”ような意識。
三十を越えた頃には、腕だけでなく、背中や腰までじんじんと痺れてきた。
「三十一」
「その突きは、“守りながら攻めている”つもりだろう」
「っ……」
図星だ。
「“自分はそこまでやらない”と思っている相手は、いつか本当に殺される」
低く、乾いた声。
「“自分の一撃は、相手を殺せる”と理解した上で、なお止める。
そこまで行って、初めて“守る側の刃”になれる」
胸の奥で、何かがかちん、と鳴った。
(“やろうとしない”まま守れるほど、甘くないってことか)
四十。
五十。
息が荒くなり、腕が鉛のように重くなる。
それでも、突きの軌道だけは乱さないように――
足の裏と、腰と、肩の力の抜き方だけに意識を絞る。
「……六十九」
相良がぼそっと数を漏らしたとき、青見はふと気づいた。
さっきまで“対象”だった土の上の一点が、
今はもう、“そこにいる誰か”の喉元にしか見えなくなっていることに。
(あー……)
自嘲と諦めと、妙な納得が混じったため息が、胸の中で渦を巻く。
七十。
八十。
最後の十本は、もはや気力だけだったが――
相良の刀は、一度も「危ない」とは言わなかった。
「――百」
突き終えた瞬間、膝ががくりと落ちる。
鉄の棒を支える手が震えていた。
「はぁ……っ、はぁ……っ……!」
土の上に、汗がぽたぽたと落ちる。
「よし」
相良が短く言った。
「“殺すつもりで止める”感覚は、少しは掴めただろう」
「……正直、ぜんぶがぜんぶ、ってわけじゃないですけど」
「それでいい」
相良は刀を納め、今度は素手で鉄の棒を指さした。
「今日の稽古は、これで終わりだ」
「え、もう終わりなんですか」
「“突き百本”を“もう”と言えるようになったら、また来い」
「……すみませんでした」
反射的に謝った。
李が、横からにょほほと笑う。
「ようやったようやった。
相良殿が“終わり”と言ったのなら、今日のところは本当にここまでじゃろ」
「じじい、余計なことは言うな」
言い合いながらも、相良の表情はどこか満足げだった。
◆ 夕暮れの神社 ◆
稽古が終わる頃には、空はすっかりオレンジ色に染まっていた。
神社の境内には、静かな風の音と、遠くの車の音だけが響いている。
李が、拝殿の縁側に腰を下ろし、缶コーヒーをぷしっと開けた。
「ほれ」
投げて寄こされたスポーツドリンクのペットボトルを、青見は慌てて両手で受け取る。
「ありがとうございます」
キャップを開け、一気に喉に流し込む。
冷たい液体が、火照った内側をすーっと冷やしていく。
「で、どうじゃった。相良の“刃”は」
李が、にやにやしながら聞いてくる。
「……マジで、首飛ぶかと思いました」
「飛ばんように加減しておるから、この通りお主は生きとる」
「それを“加減”って言うの、怖すぎるんですけど」
苦笑しながらも、さっきの寸止めを思い出して背筋がぞわりとする。
「怖いなら、よく覚えておけ」
相良が、拝殿の柱にもたれかかりながら言った。
「“この距離で、こう構えている相手”に対して、お前が何をしたか、何もできなかったか。
その全部をだ」
「……何も、できなかったですね」
「それでも目を閉じなかった」
相良は、ほんの少しだけ口元を緩める。
「だから、今日の稽古をやる価値はあった」
「……ありがとうございます」
素直に頭を下げると、李が「にょほほ」と笑って立ち上がった。
「さて。約束通り、飯を奢るとするかの」
「ほんとに奢ってくれるんですね」
「当たり前じゃ。若いもんを働かせた後の飯が一番うまい。ワシも嬉しい」
「自分のためじゃないですか!」
「両方じゃ両方」
相良も、ふっと立ち上がる。
「俺はここで別れる」
「あ、来ないんですね」
「人混みは疲れる」
淡々とした一言。
李が、「相変わらずの人付き合いの悪さよの」と肩をすくめる。
「相良殿、また頼むこともあるじゃろう」
「好きにしろ。ただし――」
相良は青見の方を一度だけ見た。
「こいつが、“続けていたら”だ」
その条件だけ残して、踵を返す。
「相良さん」
思わず呼び止めていた。
「……なんだ」
「今日の“突き”、ちゃんと続けます。
また見てもらえるように」
相良は、ほんの一瞬だけ目を細めた。
「“突き百本”を、“準備運動”と言えるようになってから来い」
「……はい」
それだけ言うと、相良義輝は境内の裏手へと姿を消した。
足音も、気配も、すぐに風に紛れていく。
「――現代に残る剣豪、っての、伊達じゃないですね」
「にょほほ。当たり前じゃ」
李が満足げに頷く。
「相良はの、“表”の試合も“裏”の抗争も、両方くぐり抜けて生き残っとる男じゃ。
お主が怖いと感じたのは、むしろ正しい」
「じゃあ、なんでそんな人に首を……」
「怖い物差しを知っとらんと、“守る”も“斬る”もわからんじゃろ?」
李は、からからと笑いながら石段を降りていく。
「さ、行くぞい。あそこの定食屋、唐揚げ定食が絶品じゃ」
「唐揚げ……」
身体がタンパク質を欲しているのを自覚しつつ、青見もその後に続いた。
◆ 夜・報告タイム ◆
帰宅後。
風呂に入り、ストレッチをして、ようやく一息ついたころ。
スマホが震いた。
『今日、出稽古だったんでしょ?』
彩女からだ。
『うん。
神社みたいなとこ連れてかれて、いきなり真剣首スレスレで止められた』
送信して数秒で、即レスが返ってきた。
『は?』
その後、連投。
『は?????
なにそれ殺人未遂?
え、ちょっと詳しく』
慌てて補足する。
『ちゃんとした人だから大丈夫。
相良義輝っていう、李さんの知り合いの剣豪。
最初の挨拶が“恐怖を知れ”って寸止めだっただけ』
『だけ、じゃない!!!』
画面の向こうで、盛大にキレてる顔が目に浮かぶ。
『あんた首持ってかれたらどうすんのよ!?』
『持ってかれてないから、今こうしてラインしてる』
『そういう問題じゃない!!!』
しばらく、怒涛のスタンプと短文が続いたあと――
ようやく、少し落ち着いたのか、長めのメッセージが届いた。
『……でも、その人が本気でやってたら
あんた、きっとそこで目を閉じてたんだろうね。
それでも開けたまま突っ立ってたなら
まぁ、“強くなりたい”って気持ちは本物だって認めてあげる』
最後の一行。
『だから死ぬな。以上』
青見は、知らず知らずのうちに笑っていた。
『了解。
唐揚げ定食までちゃんと完食して帰ってきたから、まだ死なない』
『そこ報告いらない』
そう返しつつも、すぐにまた一行だけ届く。
『……相良って人にも、礼くらい言っときなさいよ』
『もう言った』
『じゃあ良し。
そのうち紹介しなさいよ。
“あたしの彼氏に首向けた人”として』
『彼氏って言った』
『言ってない。誤字。』
『誤字で済ませるとこじゃない』
『うるさい寝ろ筋肉回復しろ』
強引に会話を締められ、思わず吹き出す。
(……ほんと、わかりやすいな)
スマホを枕元に置き、天井を見上げる。
首筋には、まだうっすらと“あの線”の感覚が残っていた。
喉元の一点に縫い付けた“突き”の軌道も、手のひらと腰にしっかりと刻まれている。
(あの線の手前で、守り切れるようにならないと)
目を閉じる前に、心の中でそっと呟いた。
真紅の戦慄も、闇を呼ぶメロディも。
全部ひっくるめた上で、それでも“隣に立つ”ために。
鉄の棒は、部屋の隅のケースに収まっている。
明日も、その重さを確かめるところから一日が始まる。
そんな予感と共に、青見は、心地よい疲労に身体を預けて眠りに落ちていった。