◆ 朝の散歩道・カーとの再会 ◆
休日の朝。
安生道場に行く前のウォーミングアップで、青見はいつもの住宅街をランニングしていた。
まだ早い時間帯で、人通りは少ない。
ひんやりした空気を胸いっぱいに吸い込み、リズムよく足を運んでいると――
「わふっ!」
曲がり角の向こうから、短く元気な声。
(あ、やべ)
反射的にそう思った次の瞬間、視界いっぱいに茶色のもふもふが飛び込んできた。
「うおっ!?」
ドンッ、と体当たりみたいな衝撃。
大型犬が全力で飛びついてきて、青見はあわてて腰を落として受け止める。
「カー、待って! 減速減速!」
少し遅れて、小柄な女の子の声が追いついてきた。
紺色のジャージに、上からパーカー。
黒髪をうなじ辺りで束ねて垂らしたおさげの少女。
見た目は完全に “朝の散歩に出てきた近所の高校生” だけど、目だけが年齢より少し大人びている。
三森玲子――高校一年生。小柄な、青見の後輩だ。
「ご、ごめんなさい青見先輩! カー、青見先輩見つけるとテンション上がっちゃって……!」
「いや、もう慣れたから大丈夫」
そう言いつつ、胸に乗っかってる重量にちょっとだけよろける。
「……お前、また重くなっただろ絶対」
大型犬――カーは、前脚を青見の肩にかけて、舌全開で顔をペロペロしてくる。
「ちょ、やめ冷たっ……!」
「カー、キスは一回まで! 女の子の前でやるスキンシップじゃないから!」
「わふっ」
玲子にリードを引かれて、カーは素直に一歩下がり、青見の目の前で “おすわり” した。
つやのある毛並み、大きな体、尻尾はメトロノームみたいにぶんぶん。
なのに、その瞳の奥だけは妙に賢そうで、人の言葉を“意味付きで”理解しているように見える。
「おはようございます、青見先輩」
「おう、おはよ、三森」
軽く会釈を交わすと、カーが「わふ」と一声挟んだ。
「はいはい、お前もおはような」
青見が苦笑しながら頭を撫でると、カーは目を細めて気持ちよさそうに喉を鳴らす。
――この犬は、あの“天才の証”の夜に、玲子と一緒に助け出した大型犬だ。
そのまま三森邸で引き取られ、“家族”になった。
◆ カーという名前 ◆
「そういえばさ」
カーの首元をわしゃわしゃしながら、青見は前から気になっていたことを口にした。
「“カー”って、どういう意味なんだっけ? 前、ちゃんと聞いてなかった気がする」
「意味、ちゃんとありますよ」
玲子が、少し誇らしげに笑う。
「エジプト神話で〈カ〉って、〈生命力〉とか〈守護霊〉って意味なんです。
それと、ケルト語で〈犬〉って意味もある単語があって」
「生命力に、守護霊に、犬」
「はい。ぜんぶこの子に欲張って詰め込んだ結果、“カー”になりました」
名前を呼ばれて、カーは「わふっ」と短く吠え、尻尾をさらに激しく振る。
「……名前負けしてないよな」
「してないですよ、ほんとに」
玲子はカーの頭をなでながら、少し照れくさそうに続ける。
「“あのとき”だって、あたしを庇って一番前に出てくれましたし。
今でも、変な音や匂いがすると、すぐ気づくんです」
「犬の勘+異界知識教育か」
「やめてください、“異界知識教育”って言い方」
玲子が肩をすくめる。
「でもまあ、実際そうなんですけど……
あの人たち、あたしに“教育映像”見せるとき、カーも同じ部屋にいたから。
たぶん、普通の犬よりいろいろ覚えちゃってます」
「“犬とは思えないほど頭が良い”ってやつか」
「はい。問題集とかやらせたら、きっとあたしより先に答え覚えますよ」
「それはそれでショックだな」
軽口を叩き合っていると、カーが首を傾げた。
“自分の話してる?” とでも言いたげな顔で。
「カー」
玲子が名前を呼ぶと、ピシッと姿勢を正す。
「“危ない音”は?」
その質問に、カーの耳がぴくりと動いた。
遠くで走る車、電車の音、風で揺れる木。
一つ一つ確かめるみたいに耳を動かしたあと――カーは、その場でストンと伏せた。
「今は“安全”って」
「たぶん、そういうことだと思います」
玲子は、カーの背中をさすりながら言う。
「“異界知識教育”のせいで、パターンとかリズムにすごく敏感なんですよ、この子。
テレビでニュース流してるときでも、たまに特定の音にだけ唸ったりしますし」
「……“あの夜の音”に似てるやつか」
「そう、だと思います」
玲子の目が、一瞬だけ遠くを見る。
あの真紅の夜。
実験台みたいに扱われた子どもたち。
冷たい笑い声と、壊れていく音。
――その全部を、一緒にくぐり抜けた“仲間”でもあるから、
この大型犬を、ただの“ペット”だと思うのは難しい。
◆ 後輩と犬と、朝の道 ◆
「ところで青見先輩」
玲子が、ふっと表情を和らげた。
「最近、顔つき変わりましたね」
「え、マジで?」
「はい。
前は、なんかずっと“噛みつきそうな警戒モード”って感じだったんですけど」
玲子は、自分の眉間を指でちょいちょいとつつく。
「今は、“いつでも動けるけど、今は大丈夫な時だから力抜いてる”みたいな顔してます」
「安生道場のせいかな」
「安生道場?」
「李さんのとこ。じいさんの道場」
「あ、前言ってた“基礎めちゃ厳しいとこ”ですね」
玲子は、くすっと笑う。
「たぶん、そのおかげで“殴る側”としてちゃんとした形になってきてますよ」
「物騒な褒め方やめろ」
「褒めてるんですってば」
カーが、その会話に合わせるように、青見の足元をくんくんと嗅いだ。
汗と、畳と、道場の匂いが混ざった匂いがするのだろう。
「……カーも、“ちゃんと戦える匂い”って覚えてるかもですね」
「覚えなくていいこと覚えるな、お前は」
「でも、そういう子だから、生き延びたんですよ」
玲子は、カーの首輪を軽く持ち上げる。
「先輩と、あの夜のことも。
ちゃんと覚えてて、ちゃんと嬉しくて、ちゃんと心配してるんだと思います」
「心配される筋合いない気もするけどな……」
そう言いつつ、カーの頭に手を置く。
ぐい、と自分の方に額を押しつけてくる仕草が――
“無事か”と確かめているみたいで、なんだかくすぐったかった。
「朝の散歩、どのくらい歩くんだ?」
「この先の公園まで一周して戻るコースです。
道場行く前でしたら、ちょっとだけ一緒に歩きます?」
「ランニングのクールダウンがてら、一周くらいなら」
「じゃ、カー。“護衛モード・弱”」
「わふ」
よくわからないモード指定に、カーは真面目な顔で立ち上がる。
「護衛モード・弱ってなんだよ」
「不審者が来たら、あたしと先輩の間に入るけど、無駄に吠えないモードです」
「モード制なのかよ……」
呆れつつも、三人(人2+犬1)は並んで歩きだす。
カーは、本当に玲子と青見のちょうど真ん中をキープしながら、
曲がり角や路地、電柱の陰を、そのつど確認するみたいに視線を動かしていた。
(……やっぱ名前通りだな)
〈生命力〉〈守護霊〉〈犬〉――カー。
その全部を背負って、当たり前みたいな顔して、二人の前を歩いたり、間に入ったりしている。
「カー」
ふと呼んでみる。
カーはすぐに振り向き、首を傾げた。
「――あんときも、今も。ありがとな」
その一言に、カーは小さく「わふ」と鳴いて、尻尾をひと振りした。
ありがとうを理解しているのか、
“任せろ”と言いたいのか。
どっちとも取れるその仕草に、玲子も小さく笑う。
「……ほんと、犬だよな?」
「犬ですってば。
ちょっとだけ、異界知識とトラウマと執念が混ざった犬ですけど」
「形容が重い」
そんな他愛もないやり取りをしているうちに、道場へ向かう分岐点が見えてきた。
「じゃ、あたしたちはこっちです」
「おう。俺はここから道場」
「今日も、死なない程度に頑張ってくださいね、先輩」
「ハードル低いな」
「一番大事なラインですから」
玲子が笑い、カーが「わふっ」と一声。
「じゃ、またどっかの朝で」
「はい。またお会いしましょう、“命の恩人”」
「その呼び方やめろ」
軽く手を振り合って別れたあと、
背中の方から、カーのもう一声が聞こえた。
「わふっ!」
その声は、やっぱり「いってらっしゃい」に聞こえた。