◆ 放課後・安生道場の門前 ◆
その日の稽古も、ひと通り終わった。
前蹴り、馬歩、型、ミット。
龍と胆の指摘は相変わらず容赦がなく、最後は梨花たちとの軽い組手で〆。
「――今日はここまで」
龍のその一言で、張り詰めていた空気が少し緩んだ。
「ありがとうございました!」
道場中の声が揃う。
青見も深く一礼し、汗を拭きながら木刀とタオルを片付けた。
「青見くん」
道着姿の梨花が近づいてくる。
「今日はこのあと、まっすぐ帰る? おじい様、もうちょっと見たそうな顔してたけど」
「今日は勘弁してください……腕がもうプルプルなんで」
「ふふ、了解。じゃあ玄関の鍵、閉める前に声かけてね」
「はーい」
そう返して、道場の引き戸をガラリと開ける。
夕方の風が、熱のこもった体に気持ちいい。
西日が傾き始めた道場前の坂道には――
「わふっ!!」
「うおっ!?」
茶色い弾丸がいた。
「カー、ストップ! ブレーキ、ブレーキ!!」
その後ろから、小柄な女の子が慌ててリードを引いている。
紺色のブレザーにプリーツスカート。
学校指定の肩掛けバッグ。
朝のジャージ姿とは違う、ちゃんとした制服モードの三森玲子――高校一年、自分の後輩だ。
「ちょ、ちょうど良く出てきましたね青見先輩! カー、減速ってば!」
大型犬カーは、それでもある程度ブレーキをかけたらしく、
さっきよりは控えめな勢いで青見の胸に前脚をドン、と乗せた。
「……“控えめ”でこれなのかよ」
「いつもの全力よりはマシです!」
玲子が、ぜぇぜぇ言いながらリードを短く持ち直す。
「ごめんなさい、先輩。放課後ここ通るってわかってたみたいで、家出るときから玄関前でそわそわしっぱなしで……」
「いや、まあ。朝も会ったしな」
「“朝会った人は夕方もう一回会える確率が高い”って、変なパターン覚えてるんですよ、この子」
カーは「わふ」と短く吠え、尻尾をぶんぶん振りながら青見を見上げた。
道場の汗の匂いが気になるのか、道着の袖をくんくんと嗅ぐ。
「……とりあえず、ただいま」
「わふっ」
おかえり、とでも言いたげな声だった。
◆ “迎えに来た”理由 ◆
「で、なんで道場の前にいるんだ、お前ら」
カーの頭をわしゃわしゃやりながら尋ねると、
玲子は「あのですね」と、ちょっとだけ言いにくそうに頬をかいた。
「放課後、家に帰る前に、ここ通るルートがあるんですよ。
カーの散歩コースと、先輩の“安生ルート”が、途中まで被ってて」
「安生ルートって名前やめろ」
「で、朝の散歩のときに“ここが先輩の修行場所”って教えたら――」
「わふ!」
カーが自慢げに一声。
「今日の放課後、“あそこ行く”って玄関から動かなくて」
「お前が決めたのかよ……」
「“命の恩人+最近ちゃんと鍛えてるか確認対象”だと思ってるみたいで」
「後半の評価が厳しいな」
カーは、まるで会話の内容がわかっているかのように、
青見の前でトトトッと一歩下がって“おすわり”した。
その背筋は妙にまっすぐで、どこか“礼儀正しい”。
「それとですね」
玲子が、少しだけ真面目な表情になる。
「お父さんが、“道場の先生方にちゃんと挨拶しなさい”って言ってて。
……“娘と犬の命を助けたお兄さんを鍛えてくれてる人たちに”って」
「あー……」
それは確かに、親としてはそうなるか。
「だから今日は、まず雰囲気だけ見に来ました。
いきなり家族総出で突撃したら迷惑かなって」
「それはたぶん正解だな」
李の“にょほほ”顔で迎えられる三森ファミリーを想像して、
青見は思わず額を押さえた。
◆ 安生サイドの反応 ◆
「おーい、青見くん。忘れ物――」
道場の引き戸が、ガラリともう一度開く。
顔を出した梨花が、そこで固まった。
「……あれ?」
視線の先には、制服姿の可愛い後輩女子と、もふもふ大型犬。
そして、その間に立つ青見。
「青見くん、そちらの方は?」
「あ、えっと」
説明しようとしたところで、玲子がぺこりと頭を下げた。
「はじめまして。三森玲子といいます。
青見先輩の、学校の後輩です。――カーと一緒に、お迎えに来ました」
「迎えに来たって言い方やめろ」
「事実なので」
素で返される。
梨花は一瞬だけ目をぱちぱちさせたあと、ふっと柔らかく笑った。
「そうなんだ。
はじめまして、安生梨花です。ここの……一応、孫兼、弟子兼、雑用係?」
「役職多くないですか?」
「家業ってだいたいそういうものだよ」
梨花はカーの方にも目を向ける。
「わぁ……大きい。
こんにちは、カー」
「わふ」
カーは軽く一声返し、
“ここの空気を読むモード”に切り替わったのか、静かに座り直した。
梨花は、軽く首を傾げる。
「……なんか、“普通の犬じゃない”感じがしますね、この子」
「ですよね」
玲子が即答した。
「ちょっと、異界知識とトラウマと執念が混ざってる犬で」
「紹介文が重い」
梨花は小さく笑ってから、青見の方をちらっと見る。
「青見くん、“怪異”関係?」
「たぶん、そのへんの名残です」
「了解」
それだけで、深くは聞かなかった。
代わりに、道場の中へ声を張る。
「おじい様ー! お客さんと犬でーす!」
「犬ごと呼ぶな」
「犬もお客さんですよ?」
ほどなくして、奥からぺたぺたと足音が近づいてきた。
「にょほほ、なんじゃなんじゃ。かわいい声が聞こえたと思ったら――」
引き戸の向こうから顔を出した李が、カーと目が合う。
次の瞬間、カーの耳がピンと立った。
「わふっ」
短い警戒音。
ほんの一瞬だけ、玲子の前に一歩出る。
(お、今の動き――)
青見は、思わず相良の稽古を思い出した。
一足一刀の間合いの手前で、“一歩だけ線を引く”ような止まり方。
「にょ……?」
李は一瞬目を細め、すぐににやりと笑う。
「良い目をしとるのう、この犬」
「えっと、その……」
玲子が少し緊張したように頭を下げる。
「はじめまして。三森玲子といいます。
青見先輩には、その……前に少し助けてもらって。
それで、ここの道場でお世話になっていると聞いて、ご挨拶を」
「にょほほ。挨拶など気にせんでもよいが……
――その犬、“守る目”をしとる」
李は、カーの鼻先に手を差し出した。
カーは一瞬だけ匂いを嗅ぎ、そのあと、するりと手の甲に自分の頬を押しつける。
「わふ」
「ほう」
李の目つきが、いつもの“からかい半分の老人”から、“武術家のそれ”に変わる。
「今、一瞬“噛むかどうか”迷ったじゃろ」
「……わかるんですか?」
玲子が目を丸くする。
「迷った末に、“匂いを嗅いでから決める”選択をした。
――ちゃんと、“一拍置く頭”がある犬じゃ」
「一拍置く頭って表現新しいな」
青見がぼそっと呟く。
「えーと、その……」
玲子は、小さく息を吸って言った。
「この子、カーっていいます。
〈生命力〉〈守護霊〉〈犬〉って意味があって」
「にょほほ。たいそうな名をもろうたの」
李は満足げに頷く。
「安生李じゃ。こやつをしごいとる張本人よ」
「いつもお世話になってます!」
玲子は慌てて深く頭を下げた。
カーもつられてぺこっと頭を下げるような仕草をする。
「わふ」
「おお、礼もできるのか。
……にょほほ。お主、稽古場にも入れるかの?」
「いや、さすがに犬は――」
「土間で見学くらいならええじゃろ。
“危ない音”が鳴ったら吠えるかもしれんが」
玲子が「あ、それわかるんですか」と目を見開く。
「さっきから耳の動き見ておった。
車の音、風の音、人の足音……全部拾っとる」
「さすが、じいさんだな……」
青見が肩をすくめると、梨花がくすっと笑った。
「ね。だから、“彩女ちゃんに誤解されそうな案件”は、あらかじめちゃんと説明しといた方がいいよ?」
「そこですか?」
「そこです」
梨花は即答した。
◆ “迎えに来た”と“送り出す” ◆
「じゃ、今日はこのくらいで」
梨花が、軽く手を叩く。
「おじい様、晩ごはんもあるしね。
三森さん、今度よかったら、ちゃんと日を決めてご家族で来てください。
うちは基本、“礼儀を尽くしてくれる人”は大歓迎なので」
「あ、ありがとうございます」
玲子が、ほっとしたように頭を下げる。
「カーも、そのときはちゃんとシャンプーしてきます」
「わふ?」
犬本人(犬本犬?)は、シャンプーと聞いて微妙そうな顔をした。
「青見くん」
梨花が、わざとらしく小声で囁いてくる。
「彩女ちゃんには、“命の恩人の後輩と、その護衛犬が道場前まで来た”ってちゃんと言っとくんだよ?」
「言い方がもう誤解を招くんだけど」
「誤解されないように説明するのが青見くんの仕事だから」
「ですよ先輩。
“変なフラグ立てたまま放置しました”ってパターン、だいたいろくなことにならないですし」
玲子まで真顔で乗ってくる。
「お前ら、そういうとこだけ妙にシビアだよな……」
ため息をつきつつも、どこかおかしくて笑ってしまう。
「じゃ、そろそろ帰るか、三森」
「はい。――カー、“護衛モード・弱”」
「わふっ」
カーが立ち上がり、玲子と青見の間、半歩だけ前に出る。
「またモード出たよ」
「使い勝手いいんですよ、“弱”と“強”と“遊び”と“睡眠”があります」
「睡眠はただ寝てるだけだろ」
「そうとも言います」
門の前で、もう一度李と梨花に頭を下げてから、
三人(人2+犬1)は並んで坂道を下り始めた。
「じゃ、ここで」
少し歩いた先の交差点で、青見は足を止める。
「俺、この先コンビニ寄ってから帰るから」
「了解です。
じゃ、今日のところは“ここまで”ってことで」
「何目線だよ」
「“命の恩人の健康チェック係+犬の飼い主”目線です」
玲子が、からかうように笑う。
カーは「わふっ」と一声鳴いて、尻尾をひと振りした。
「また、朝の散歩で」
「おう。……そのうち彩女にもカー紹介しないとな」
「楽しみです、“青見先輩の大事な人センサー”がどう反応するか」
「やめろ、そういう実験タイトルみたいなの」
軽く手を振り合って別れ、
背中の方から、カーのもう一声が聞こえた。
「わふっ!」
今度の声は、さっきより少し大きくて――
さっきまで彼を鍛えていた道場にも、ぎりぎり届くくらいの音量だった。
“いってらっしゃい”と、“おつかれさま”と、“またね”を全部混ぜたみたいな声に聞こえて、
青見は知らず知らず、少しだけ背筋を伸ばした。