/*/ 二度目の出稽古・朝 /*/
日曜の朝。
前と同じ駅前ロータリーで、青見は黒い筒型ケースを肩にかけ、李を待っていた。
「にょほほ。よう続けたのう」
背後から聞き慣れた笑い声。振り向くと、李がエコバッグ片手に立っていた。
中身は、前と同じく木刀と、なにか細長い包み――それに、今日は小さな巾着袋がひとつ、口をきゅっと結ばれている。
「“突き百本”、毎朝やっとるんじゃろ?」
「……はい。
最初の三日くらいは、ふくらはぎが死にましたけど」
「死なんでええ所は死なんでええ。
まあ、そのうち“準備運動”になるわい」
「まだそこまで行ってないですけどね」
軽口を叩き合いながら、前回と同じルートで神社へ向かう。
ローカル線を乗り継ぎ、バスに揺られ、町外れの小さな社へ。
石段を上ると、今日も拝殿の横の土のスペースが、静かに口を開けて待っていた。
「……来たか」
拝殿の影から、相良義輝が現れる。
前と変わらない、古びたジャージに道着の上衣だけ――だが、その歩みには、やはり一片の隙もない。
相良の視線が、青見の肩の黒いケースをちらりと撫でた。
「それが“棒”か」
「はい。
あの……この前バランス調整してもらったので、多分、少し振りやすくなってると思います」
先日、理事長室で伊集院貴也に半ば強引に預けさせられたことを思い出す。
『この程度ならすぐだよ。
“本物”の刃を握る前に、せめて“刃を想定した棒”くらいは最適化しておきたいしね』
そう言って、楽しそうに重量とバランスをいじっていた。
青見としては、「さすが金持ち理事長、道具にも妙なこだわりがあるな」くらいの感想でしかなかったが。
「にょほほ。伊集院の坊主が、ちぃと手ェ入れてくれたそうでな」
李が、さも何でもないことのように付け足す。
「ふん」
相良は、それ以上余計なことは聞かず、手で合図した。
「構えろ」
◆ 変わったもの・変わらないもの ◆
鉄の棒をケースから抜き、いつもの中段に構える。
――重さが、ほんの少しだけ違う。
バランスは以前より“素直”になっているのに、
振り出しの瞬間、棒の先に、微妙な“遅れ”がついてくる。
(……芯が太くなった、みたいな感じか)
そう把握し直して、呼吸を整える。
「まずは、前回と同じく“正面への突き”だ」
相良が、先日の印とほぼ同じ位置に足で線を描いた。
「百」
「……了解です」
腰を切り、突き出す。
「――一本」
前回よりも、明らかに静かな音で空気が裂けた。
打った本人にも分かる。
“当たった感触”を追い求めるのではなく、
“通り抜けた結果として、そこに傷が残る”――あの意識が、身体のどこかに残っている。
「十」
数本目で、相良の短い評価。
「前よりマシだ」
「ありがとうございます」
「まだ“守る突き”の気配は抜けきらんがな。
……だが、“殺すつもりで止める”というのが何かは、理解してきている」
その言葉に、青見は少しだけ息を吐いた。
(やっぱり、あの首筋寸止めは、無駄じゃなかったってことだな)
淡々と突きを繰り返す。
足裏が土を噛み、腰が回転し、肩から先が“ついてくる”。
やがて――三十本を超えたあたりで。
「止め」
相良が手を上げた。
「今度は、“対象あり”だ」
「……対象?」
相良は拝殿の柱の陰から、藁を束ねた簡易な打ち込み台を引きずってきた。
膝ほどの高さにまとめた藁束に、白い紙札が一枚、ぴたりと貼られている。
李が、わざとらしく視線を逸らした。
(……札? お祓い用のやつかな)
「これは?」
「藁束はただの藁だ」
相良は、紙札の隅を指で弾いた。
「ただし、札には“模したもの”が貼ってある」
「模した……?」
「怪異、妖、そういった“向こう側の気配”だ。
本物そのものではない。
だが、“殺されるかもしれない側”の人間にとっては充分な恐怖の残り香だ」
李が、にょっ、と笑う。
「伊集院の坊主がの、ちぃと遊びで作った札でな。
“怪異にだけよく効く刃物”の実験に使ってたんじゃと」
「怖いことさらっと言わないでくださいよ」
青見は苦笑しつつも、藁束の前に立つ。
紙札から、うっすらと“嫌なもや”のようなものが立ち上る気がした。
目には見えない。だが、首の後ろの産毛だけが、妙にざわざわする。
(……気のせい、だよな)
そう思って、鉄の棒を構えた。
「さっきと同じだ。
ただし今度は、“この藁束の向こうに人がいる”と思って突け」
「人、ですか」
「お前の後ろに誰か。
好きに想像しろ。
その誰かを、怪異から守ると思って突け」
相良の声は淡々としているのに、
喉の奥だけが、急に乾いた。
(後ろに……誰か)
真っ先に思い浮かんだのは、あの赤いジャージ姿だった。
(……彩女、なんだよな)
意識した途端、紙札から立ち上る“嫌な感じ”が、さっきより濃くなった気がした。
心臓が一拍、強く打つ。
「――一本」
突いた。
その瞬間。
鉄の棒の先端が、わずかに“変わった”。
青見には、ほとんど分からないほどの変化。
だが――
少し離れたところで見ていた李と、目の前に立つ相良には、はっきりと見えた。
棒の先に、細い“縁取り”のような光が、ひと筋だけ走ったのを。
「……っ」
シャッ、と空気が鋭く裂ける。
次の瞬間、藁束の表面に、紙一枚ぶんほどの浅い“切れ目”が走っていた。
「おお……?」
青見は、藁束を見て目を瞬かせる。
(今の、打撃じゃなくて……裂けた?)
鉄の棒は“刃のない刃”のはずだ。
殴れば凹む。千切れることはあっても、“切れる”ことはない。
なのに、今の一撃は、どう見ても“削れた”のではなく、“割れた”。
「気のせいか?」
棒の先を見つめる。
ただの鈍い鉄の色しか見えない。
「――にょほほ」
その様子を横から眺めていた李が、目を細めた。
(……やっとるのう、伊集院の坊主め)
棒の表面。
一瞬だけ走った光の“模様”を、李は見逃さなかった。
それは、かつてどこかで見たことのある“術式の線”に、よく似ていた。
そして――相良もまた、その瞬間。
(……刻印)
突きの残像の中に、薄く浮かび上がる“紋”を、確かに見た。
刃のない棒の“延長線上”に、紙一枚ぶんの“魔術的な刃”が重なるイメージ。
精神力に応じて伸びたり縮んだりする“精神の刃”。
それは、怪異の気配――紙札の“模した匂い”に反応して、ほんの僅かだけ姿を見せたのだ。
「……続けろ」
相良は、あえて何も言わずに告げた。
「今のを“偶然”で済ませるか、“再現”できるか。
そこが分かれ目だ」
「はい」
青見は、再び構えた。
(後ろに、彩女がいるとして――
目の前には、あの夜みたいな“何か”がいるとして――)
汗が目に滲む。
喉の奥で、心臓の音がうるさい。
「二本目」
踏み込み。
今度は、棒の重さが一瞬だけ、ふっと軽くなった気がした。
それは錯覚かもしれない。
だが、その“軽さ”に任せて、突きが“刺さる方”へと一段強く出た。
シャッ。
さっきより、わずかに高い音。
藁束に、今度は“V字”の浅い切り込みが残る。
「……」
青見は、それを見て眉をひそめた。
「相良さん」
「なんだ」
「この棒、“刃”とか付いてないですよね」
「付いていたら、最初の一撃で藁束が真っ二つだ」
「ですよね」
「なら、お前の気のせいだ」
ばっさり。
けれど、相良の目の奥には、わずかな愉快そうな色が浮かんでいた。
(――なるほど。
伊集院、そういう玩具を寄越したか)
精神の一点に“守る”意志を集中した瞬間だけ、
棒の先に“魔術的な刃”が薄く乗る。
怪異の気配に対してだけ、本来あり得ない“切断力”を発揮する仕掛け。
この藁束は、“怪異のダミー”だ。
だからこそ、条件が揃った今だけ、術式が反応したのだろう。
李は、にょっ、と喉の奥で笑う。
「どうじゃ、相良。
あやつの細工、見えたかの」
「……ああ」
短く、それだけ。
青見の耳には届かない距離で、二人だけのやり取りが交わされる。
「精神に呼応しておるな。
“守る”と決めた瞬間、棒の先に“刃の線”が出る」
「伊集院の坊主らしいのう。
“攻めるため”ではなく、“守るため”の刃か」
「厄介でもあり……都合もいい」
相良は、藁束の切れ目を指先でなぞる。
「怪異相手に、“鉄の棒の打撃”だけでは限界がある。
いざというときの保険としては、悪くない」
「問題は、“心”が折れたときかの」
李が、少しだけ真面目な声で言う。
「精神力に呼応する刃は、
己の恐怖や絶望にも反応する。
“守れなかった”と思い込みゃ、そのまま自分を裂きかねん」
「だからこそ――」
相良は、青見の背中をじっと見つめた。
「今のうちに、“線”を覚えさせる。
どこまでが届き、どこから先が届かないかを、徹底的に叩き込む」
その視線の重さも、
二人の会話の意味も、今の青見には分からない。
彼に見えているのは、ただ目の前の藁束と。
その向こうに“いるはずの誰か”の姿だけだ。
◆ レベルアップした稽古 ◆
「――十本」
藁束に刻まれた切れ目は、まだどれも浅い。
それでも、最初の一本とは比べ物にならないほど、線は揃ってきていた。
喉の高さ。
同じ角度。
同じ深さ。
“守るために殺す”という矛盾した意志が、少しずつ一本の線に収束していく。
「よし。突きはここまでだ」
相良が、藁束から手を離す。
「次は――動く相手だ」
自分の木刀を抜き、軽く構えた。
「さっきまでの対象は“怪異のダミー”だ。
今度は、“怪異と戦った後に残る人間”だと思え」
「人間……」
「刃の乗った棒で、人間を殴ればどうなるか」
相良の目が、少しだけ鋭くなる。
「想像してみろ」
青見は、無言で息を吸った。
さっきまでとは違う緊張が、腕と指先にまとわりつく。
(さっきみたいに、彩女を守るつもりで突いたら――
この棒が“刃”になって、人に当たるかもしれない)
それだけは、絶対に嫌だ。
首筋に残る“線”の感覚と、
藁束に刻まれた“浅い切り傷”。
それを両方抱えたまま、鉄の棒を構え直す。
「来い」
相良が、小さく踏み込んだ。
木刀が、今度は“軽い牽制”の速度で首筋に伸びてくる。
――前回なら、見えなかった軌道。
だが今日は、その“前の段階”が、かろうじて見える。
腰の溜め。
足の向き。
肩の角度。
それらすべてが、「次にここへ刃が来る」と教えてくれている。
鉄の棒が、自然とそこへ滑り込んでいた。
カン、と乾いた音。
(受けられた……)
自分でも驚くほど、素直な感想が漏れそうになる。
「悪くない」
相良が、木刀を引き、今度は角度を変えて肩口へ。
それも、先ほどと同じように、棒の側面で弾く。
「さっきの藁束を“怪異”、俺を“その場に残る人間”だと思え」
相良の声が近い。
「怪異には、全力の突き。
人間には、決して刃を乗せるな。
――その切り替えを、“その瞬間に”やる」
「……それ、かなり無茶言ってません?」
「無茶をしてもらうために、じじいに頼まれた」
木刀の連撃が、少しずつ速さを増していく。
棒は、刃が乗っていない“ただの鉄”のまま、
しかし以前より遥かに“刃物を意識した角度”で、相良の打ち込みを受け流していく。
さっきのような光の縁取りは、一本も出ない。
それを見て、李は小さく頷いた。
(……うまいのう、相良)
怪異の気配が“模されている”藁束と、
生身の人間である相良。
同じ日、同じ棒。
条件を意図的に変えた中で、青見に“切り替え”を叩き込んでいく。
「――そこまで」
木刀が下りたときには、
青見の腕も足も、とうに限界を超えていた。
「っ、はぁ……はぁ……っ……」
棒の先を地面につき、何とか体勢を保つ。
藁束の前では、かすかな切り傷が夕陽に照らされている。
相良の木刀には、ひとつの傷もない。
「よし」
相良が、軽く頷いた。
「伊集院の細工も、まあ“使える”ことは分かった。
――あとは、お前の問題だ」
「俺の……?」
「“守りたい”ときだけ刃を出し、“守らねばならない相手”には決して向けない。
できると思うか」
「……できます」
迷いは、ゼロではない。
だが、言葉だけは、強く。
「やります。
やるって決めたから、ここに来てるんで」
「ふっ」
相良の口元が、ほんのわずかに持ち上がった。
「なら――“続けていたら”、また見てやる」
◆ 男たちの横顔 ◆
青見が社務所の裏の水道で顔を洗っているあいだ。
拝殿の影で、李と相良が、短く言葉を交わしていた。
「……どうじゃ」
「悪くない」
相良は、夕暮れに照らされた藁束を眺めながら言う。
「伊集院の刻印は、“精神に刃を付ける”類だ。
青見の“守りたい”という意志が強まったときだけ、棒の先に刃が乗る」
「便利そうで、危なっかしいのう」
「便利でもあり、危険でもある。
ゆえに、“どこまで届くか”と“どこから届かないか”を、こうして身体に覚えさせておく必要がある」
相良は、藁束の切り傷に触れた指を、さっと払った。
「それに――」
「それに?」
「あいつは、多分、“刃を振るう自分”を恐れている」
夕陽の色が、相良の横顔を赤く染めた。
「“闇を呼ぶメロディ”に飲まれる自分を、どこかで想像している目だ。
その恐怖ごと刃に乗せてやらねば、いざというとき、何もできなくなる」
「……なるほどのう」
李は、にょほほと笑いながらも、目だけは真剣だった。
「それで“守れる”なら、良し。
もし“守れなかった”と思い込んだとき――」
「そいつを引き上げるのは、俺たちじゃない」
相良が、拝殿の鈴を一度だけ揺らす。
「隣に立つ女の役目だ」
鈴の音が、夕風に溶けていく。
「安達彩女、という名だったか」
「よう覚えとるのう」
「じじいがよく喋る」
「ワシは事実を口にしとるだけじゃい」
からからと笑い合いながらも、
二人の視線の先には、鉄の棒をケースに収めて戻ってくる青見の姿があった。
その少年が、まだ自分の手に宿った“新しい刃”の正体に気づいていないことを、
そして、その刃が“怪異の夜”でどんな意味を持つかを、
当の本人だけが知らない。
――それでいい、と、彼らは思っている。
打ち合うべきものと、守るべきもの。
その境界線を、身体で覚えたあとに知る方が、きっと強くなるからだ。
神社を後にする三人の足音が、石段の上からゆっくりと遠ざかっていった。
黒いケースの中。
“刃のない刃”は、薄く眠るように沈黙している。
次に“怪異の気配”を嗅ぎ取ったとき――
その先端に、再び魔術の刃が灯ることを知らぬままに。