火のついた夏
/*/ 八月、火のついた夏 /*/
八月。
蝉がうるさいほど鳴き続ける中、県大会・ブロック大会を順当に勝ち抜いた青見は、とうとう全国大会――インターハイ本戦の枠を手に入れていた。
ほとんどが三年生の中で、二年連続の全国。
それだけで、彼の名前はそこそこ知られる存在になっていた。
「東青見、また勝ち上がってきてるらしいぞ」
「去年もベスト16だっけ? 今年はシードだろ、確か」
会場に貼られた組み合わせ表の前で、知らない学校の選手たちがそんな囁きを交わす。
それを耳にしても、青見は表情を変えず、ただ静かに自分の名前の位置だけを確認した。
剣道の個人戦。
その下に並ぶのは、全国から集まった猛者たちの名前だ。
「おーい、東」
背中から声をかけてきたのは、いつもの低く落ち着いた声――高山直哉主将だ。
「水分、ちゃんと摂ってるか。今日はやたら暑いからな」
「はい。控室に置いて――」
言いかけて、青見は眉をひそめた。
「あれ?」
さっきまで置いてあったはずの、自分のスポーツドリンクのボトルが、控室の端にちょこんと転がっている。
キャップはきつく閉まっているが、中身は微妙に濁ったような色をしていた。
(……さっき見た時、こんな色じゃなかったよな)
嫌な予感がして、青見はボトルをそっと開ける。
鼻先に近づけた瞬間、つん、と酸っぱい匂いがした。
「……これ、ダメです。変な匂いがする」
「どれ」
高山が受け取り、慎重に匂いを確かめる。
「……確かに。発酵してる、ってレベルじゃないな。冷蔵が甘かった、って感じでもない」
「さっき買ってきたばかりなんですけど」
「賞味期限は?」
「来年の……ですね」
二人でラベルを確認する。期限切れではない。
「おかしいな。店で変質してたって可能性もあるから、これは飲むな。……ほら、予備で買っておいたやつだ」
高山は自分のバッグから、未開封のミネラルウォーターを一本取り出した。
キャップのリング部分がしっかりつながっているのを確認してから、手渡してくる。
「ありがとうございます」
「こういう時のためにな。――ったく、運が悪かったと思っておけ」
そう言われて、青見も「はい」と頷く。
だが、それは「最初の一回」に過ぎなかった。
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二度目は、地方大会の決勝前だった。
夏休みに入ってすぐ、まだ全国の切符を賭けて戦っていた頃のことだ。
「……あれ?」
ウォーミングアップを終え、汗を拭きながら自分の竹刀――ではなく、拳サポーターに手を伸ばしたとき。
青見は、違和感に気付いた。
右のサポーターのマジックテープが、一部ベロリとめくれている。
よく見ると、縫い目のところが、糸ごとざっくり切れていた。
「こんなとこ、切れるか?」
怪訝そうに呟いていると、横から高山が覗き込んだ。
「どうした」
「いえ、サポーターが……。昨日は普通だったと思うんですけど」
「貸してみろ」
高山は手に取って、指で縫い目をなぞる。
「……ハサミか、カッターだな。自然にほつれた感じじゃない」
「え?」
心臓が、きゅっと冷たくなった。
「ま、予備は持ってきてる。大会前に装備チェックはしてるしな。ほら」
バッグから同じ型のサポーターを取り出し、ポンと放ってよこす。
「ありがとうございます」
「礼はいい。試合に集中しろ」
高山はそれ以上何も言わなかったが、その横顔はいつもの柔和さを少しだけ失っていた。
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三度目は、さすがに「偶然」とは思えなかった。
全国大会初日。
宿舎として用意されたホテルの一室で、青見は夜のストレッチを終えて、机の上の水のペットボトルに手を伸ばした。
「あれ……」
ラベルはいつもの銘柄。
だが、キャップのリングが、微妙にずれている。完全な「開封済み」ではないが、どこか違和感のある噛み合い方だった。
嫌な汗が、背中にじわっとにじむ。
(またか)
さっき自販機で買ってきて、確かに自分でここに置いた。
誰かが勝手に部屋に入れるような状況ではない、と頭では分かっているのに――。
と、そのとき。
「東、いるか?」
ノックの音と共に、高山の声が聞こえた。
「はい、どうぞ」
ドアを開けると、ジャージ姿の高山が、紙コップとポットを持って立っていた。
「悪いな、遅くに。ちょっといいか」
「はい」
部屋に入ってきた高山は、テーブルの上のペットボトルにちらりと目をやり、眉をひそめた。
「……そのボトル、いつ買った?」
「さっきです。チェックインのあと、自販機で」
「そっか。見せてみろ」
キャップ部分をじっと観察する。
指で軽く押すと、リングのつなぎ目が、ぴき、と音を立てて外れた。
「やっぱりな。微妙に一回開けて、また閉めてる」
「……どういうことですか」
問いかける声が、自分でも分かるくらい硬くなっている。
「分からん。だが――」
高山は、持ってきた紙コップにポットの中身を注ぐ。
白い湯気が立ちのぼった。普通の、ただの白湯(さゆ)。
「しばらくは、オレが見ている前で封を切ったもの以外、口にするな」
「……はい」
返事をしながら、胸の奥がざわつく。
「直哉先輩。これって、偶然じゃないですよね」
「そうだな」
高山は、はっきりと言った。
「水が腐ってたり、ドリンクが変質してたり、道具が切られてたり。全部お前の周りでだけ起きてる」
「……オカルト、じゃないですよね」
冗談のつもりで言ったが、声はほとんど笑っていなかった。
「さあな。そうならそうで、別の意味で厄介だが」
高山は苦笑いを浮かべ、すぐに真剣な目に戻った。
「ただ、ひとつだけ言えるのは――“起こるはずのないトラブル”が、全部お前の足を引っ張る形で発生してるってことだ」
「……誰かが、俺を狙ってる、ってことですか」
「その可能性は高い」
宿舎の静けさの中、その言葉だけがやけにくっきり響く。
「なんで、俺なんか」
「“なんか”じゃないだろ」
高山は、ふっと目を細めた。
「二年で二度全国。三年が大半の中で、それは十分“目立つ”ことだ」
「でも、だからって……」
抗議しかけた青見の言葉を、高山は穏やかに制した。
「理由はいい。今大事なのは、対策だ。これからは、荷物を置くときも、自分の目の届く範囲から離すな。トイレに行く時も、誰かに見ててもらう」
「はい」
「水と食べ物は、オレか顧問の先生の前で開けたものだけ。道具はオレが一緒にチェックする」
そこまで言って、少しだけ言葉を選ぶように間を置く。
「……変な話だが。もし“それでも”何か起きるようなら――それはもう、単なる嫌がらせじゃない」
「単なる嫌がらせ、じゃない?」
「人為的にいじれる余地がないところで、何かが起きるってことだからな」
例えば。
試合中、足を取られるようにマットの一部だけが異様に滑るとか。
準備していた帯が、締めた瞬間に千切れるとか。
想像して、背筋が冷えた。
「……分かりました」
「怖がれって意味じゃないぞ」
高山は言い、笑みを浮かべる。
「“お前はそれでも勝てる”ってことだ。こういう逆風込みで、全国だ」
「……はい」
紙コップから立ちのぼる湯気を見つめながら、青見はゆっくり深呼吸した。
(誰だっていい。嫌がらせでも、たまたまでも、オカルトでも)
(全部まとめて、ぶち抜いてやる)
拳を軽く握る。
外では、夜風にかき消されそうな蝉の声が、まだ細々と鳴いていた。
その音の向こう側から、じわじわと――見えない“何か”が忍び寄っていることに、このときの青見は、まだ気付いていなかった。