/*/ 割れた先端 /*/
全国大会・個人戦。
空調の効いた体育館なのに、汗ばむような熱気が漂っていた。
四面取っている試合場のうち、一番奥。
「三回戦、逢瀬学園・東青見――」
アナウンスが名前を読み上げると、客席の一部から小さなどよめきが起きた。
(……また見られてる)
去年のインターハイでベスト16。
ほとんど三年生だらけの中、二年の青見が今年も順調に勝ち上がっていることは、すでに噂になっていた。
礼。
試合場の中央で相手と向かい合い、一礼。面を付け、構える。
相手は他県の強豪校の三年。
体格はほぼ互角、あるいはやや向こうが上。
だが、青見は相手の目と竹刀の構えを一瞥しただけで、ある程度の「質」を把握していた。
(速い。それに、素直な剣じゃない)
正面からの打ち合いだけじゃなく、崩しも狙ってくるタイプ。
厄介だが、やりがいがある。
「はじめ!」
主審の声と同時に、二人の足がすっと前に出る。
最初の一合は探り合い。
互いに中段から、竹刀の先だけが、カチ、カチ、と細かく揺れる。
間合いが詰まる。
相手が一瞬、視線を落とした――と見せかけての、鋭い踏み込み。
「メェンッ!」
速い。
だが、読める。
青見は半歩だけ左に体を滑らせ、相手の竹刀が空を切るギリギリを通る。
(やっぱり速い。でも――)
この程度の速さなら、夜の路地裏で、わけのわからない「何か」に振り下ろされた腕の方が、よほど速かった。
骨が軋むほどの殺気と、獣じみた重さ。
あのときに比べれば、いま目の前にあるのは、まだ人間の技だ。
一合、二合、三合。
先に一本取ったのは青見だった。
相手の打突の起こりをとらえて、小手。
きれいな一本に、観客席から「おお」と小さな感嘆が漏れる。
(悪くない。でも、ここからだ)
息を整えながら、青見は再び構えた。
そのときだった。
相手の竹刀の先――先革のあたりに、かすかな違和感が走ったのは。
青見は一瞬、視線を細める。
(……今、揺れ方が)
中身の竹が、わずかに暴れているような感覚。
だが、主審も副審も気づいた様子はない。
(気のせい、か?)
判断する間もなく、再開の合図がかかる。
「はじめ!」
今度は相手が、やや無理気味に攻めてきた。
一本取られた焦りか、踏み込みがさっきより強い。
竹刀が交わり、互いに体勢を崩しながら絡み合う。
青見は一度距離を切って、体勢を立て直そうとした――その瞬間だった。
――ビシッ。
乾いた音。
相手の竹刀の先端キャップが、ふっと飛んだ。
白い先革が宙を舞い、その下から、四つ割りになった竹がぱっと開く。
(――やばい)
時間が、少しだけ、ねじ曲がる。
竹が裂けて、槍の穂先みたいな形になっている。
それが、相手の勢いのまままっすぐこちらへ突き出され――
面の金網と金網の、わずかな隙間。
そこにぴたりと軌道が重なっていた。
普通なら。
次の瞬間には「ぐしゃっ」という嫌な音とともに、片目は潰れている。
そのことを、本能が理解していた。
だが、青見の身体は、頭が考えるより早く動いていた。
夜の路地裏。
ガラス片を握って振り下ろされる腕。
首筋を狙って伸びてきた、ありえない長さの舌。
墓地で見た、骨ばった手。
(――ああ、これか)
あのときと同じ「殺しに来る軌道」。
腰を落として、頭をわずかに右へ。
竹刀を捨てる勢いで左手を上げ、面の横を押さえ込む。
視界の端を、裂けた竹の先が掠めた。
ざりっ。
面金にかすかな傷が走る音。
頬に、ひやりと汗が流れた気がした。
「やめッ!!」
主審の叫びが、遅れて耳に飛び込んでくる。
観客席から、どよめきというより「悲鳴」に近い声が上がった。
「今の……」「危ねぇ……」「目、いったかと思った……」
審判に呼ばれて、両者は中心に戻る。
相手はまだ事態を飲み込めていないのか、竹刀を見つめて固まっていた。
先端は、無残に裂けている。
安全確認さえしていれば、ここまでの状態で試合に出ることはありえない。
副審がその竹刀を受け取り、渋い顔をした。
「……これはダメだ。完全に破損してる。危険だ」
観客席のざわめきが、じわじわと広がっていく。
「選手、怪我は――」
「大丈夫です。どこも当たってません」
青見はそう答えた。
実際、傷ひとつない。
頬を指で確かめ、面を外してもらう。
ほんの数ミリ。
下手をすれば目に来ていたであろう軌道が、まだ脳裏に焼き付いていた。
(……間に合った)
遅れて心臓が早鐘を打ち始める。
それを、表に出さないように深く呼吸した。
「選手の安全第一ですから、この試合は――」
審判団の中で「どうするか」が話し合われている。
中止。無効試合。再試合。
いくつかの単語が聞こえた。
「待ってください」
青見は、一歩、前に出た。
「俺は続行できます。相手の方が良ければ、仕切り直しで構いません」
審判たちの視線が集まる。
客席からも「やらせてやれよ」「今のは事故だろ」という声が飛ぶ。
相手の選手は、青見と竹刀の先を交互に見つめていた。
顔色が悪い。
自分が振った竹刀が、目の前の選手の片目を奪っていたかもしれない、という現実が、じわじわと押し寄せているのだろう。
「……俺は、大丈夫です。お願いします」
もう一度頭を下げると、主審は少しだけ眉を寄せ、それから頷いた。
「分かった。では、相手選手は道具を交換。安全確認ののち、再開とする」
拍手とも安堵ともつかない、奇妙な空気が会場に流れた。
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控えの竹刀に持ち替え、再び中央に立つ相手。
だが、先ほどの鋭さは、どこかに置き忘れてきたようだった。
構えは同じ。
けれど、足の出がわずかに遅い。
打ちに来る瞬間、無意識に先端を気にして、目線がぶれる。
一本目の再開。
青見はあえて、こちらから無理に取りに行かなかった。
様子を見れば見るほど、相手の「萎縮」が、手に取るように分かるからだ。
(……怖いよな)
竹刀一本で人を傷つけかけた、という自覚。
それは、真面目に剣道を続けてきた人間ならこそ、重くのしかかる。
それでも。
ここは全国の舞台だ。
中途半端に手を抜く方が、よほど失礼だと分かっていた。
(だったら、正面から倒す)
相手の迷いが、わずかに前足に乗った瞬間。
青見は踏み込んだ。
「メェンッ!」
気合とともに振り下ろした一撃は、相手の中心を真っ直ぐ打ち抜いた。
審判の旗が、二本同時に上がる。
「面あり!」
続く二本目も、結果は同じだった。
技術的には、教科書に載せられるようなきれいな二本。
だが、勝利の感触は、どこか、湿っていた。
(……これで、いいのか)
礼をして、試合場から下がる。
その途中で、客席を一瞬だけ見上げた。
ひな壇になった観客席の影のなか。
誰かがこちらをじっと見ているような気がして、視線がそこに吸い寄せられる。
黒い影。
人の形をしているようで、していないようで。
瞬きをしたときには、もう何もなかった。
(見間違い、か)
そう思って、すぐに視線を外す。
控え席に戻ると、高山主将が立ち上がった。
「……無事で何よりだ」
「はい」
言葉少なに答えると、高山は青見の面金を指先で軽く弾いた。
金属の、かすかな傷が、目の前で光る。
「普通なら、片目なかったな、今のは」
「……ですね」
淡々としたやり取り。
けれど、高山の目の奥には、明らかに「警戒」が宿っていた。
「水の件。道具の件。今日のこれ。全部偶然って言うには、もう数が多すぎる」
「……はい」
青見は、自分の右目の横を指でなぞった。
何もない肌の感触が、かえって不気味だった。
(狙われてる? 本当に)
人か。
それとも、人じゃない何かか。
いずれにせよ、「たまたま」では片付けられない何かが、確実に青見の周りで濃くなっている。
会場のざわめきが、ふっと遠のいていく。
代わりに、耳の奥で、あの夜の音が蘇った。
骨を引きずる足音。
壁を爪でひっかく、しゃりしゃりという音。
見てはいけないものが、こちらを覗き込む気配。
(――まだ終わってない、ってことか)
全国という晴れ舞台の真ん中で、足元からじわじわと、別の世界の影が染み出してくるような感覚。
試合には勝った。
けれど、その勝利の上に落ちる影は、少しずつ、濃さを増していた。