/*/ 翌朝、薄い光 /*/
カーテンの隙間から、白っぽい朝の光が差し込んでいた。
東青見は、いつ眠ったのか分からないまま、ただ「朝になっていた」ことだけを理解した。
結局、一睡もできなかった気がする。
ベッドから身を起こすと、昨夜よりは薄まったものの、まだあの悪臭の名残が部屋の空気にこびりついていた。
(……夢じゃない、ってことだよな)
枕元には、鉄の棒がそのまま転がっている。
握りしめたままどこかで意識を飛ばしてしまったらしい掌は、汗でじっとり湿っていた。
シャワーを浴び、無理やり頭を切り替える。
鏡の中の自分は、少しだけ目の下にクマを浮かべていたが、動けないほどではない。
(今日が、残り全部)
団体戦は既に終わっている。
個人戦は佳境。準決勝と決勝――今日はその二つを戦う日だ。
ドアを開けて廊下に出ると、冷房の効いた空気の中にも、わずかに鼻をつくような残り香があった。
漂ってきたのは、洗剤やホテルの匂いではない、昨夜と同じ、あの「なにか」がいた証の臭い。
「……」
足早に廊下を抜け、エレベーターへ向かう。
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朝食会場のレストランは、既に多くの選手で賑わっていた。
ジャージ姿の高校生たちが、トレイを持って行き来しながら、今日の組み合わせや対戦相手の話をしている。
「東、こっち空いてるぞ」
高山直哉主将が手を挙げた。
同じテーブルには他の部員たちも座っている。
「おはようございます」
「……顔色、悪いな。寝られなかったか」
「まあ、少しだけ」
曖昧に笑うと、高山はそれ以上追及しなかった。
「無理に食わなくてもいいが、口に入るもんだけ入れとけ。試合中にガス欠になったら話にならん」
「はい」
パンとスクランブルエッグを少しずつ口に運ぶ。
味がよく分からない。
そこへ、他校の顧問らしき先生が、低い声で話しているのが耳に入った。
「……○○高校の選手、一人棄権だそうですよ」
「え? さっき対戦カードに名前ありましたよね」
「宿で負傷したとかで。夜中に騒ぎがあったらしいです」
ちらり、とそちらを見る。
具体的な学校名も選手名も聞き取れなかったが、「宿」「負傷」「棄権」という言葉だけが、やけに耳に残る。
「どうやら、部屋の中で転んでガラスで足を切ったとか、自分でぶつけたとか、話が二転三転してるらしいですけどね」
「物騒ですね……」
青見の背中を、冷たいものがつうっと走った。
(宿で、負傷……)
昨夜、自分の胸の上にのしかかってきた「なにか」。
鉄の棒を振り抜いた時の、生肉を叩いたような感触。
そして、耳の奥にこびりついた、声ならざる声。
(まさか、同じ宿……? いや、だからって――)
もしあれが「人」だったなら。
もしくは、人にとり憑いた何かだったなら。
高山が、ふっと真剣な目で青見を見た。
「東」
「はい」
「今の話、気にするな。俺たちにできるのは、自分たちの試合をしっかりやることだけだ」
「……はい」
そう言われて、ようやく自分が箸を止めたまま固まっていたことに気づく。
「昨日の竹刀の件もある。お前の周りで色々起きてるのは事実だが――」
「事実、なんですね」
「ああ。だが、今日ここで戦うのは、リングの上じゃなく畳の上だ。刀でも、鉄パイプでもない。竹刀一本だ」
高山はわざとらしく肩をすくめて見せた。
「“見えない何か”が絡んでこようが、ルールの中で叩き斬る。それが逢瀬学園校のやり方だろ?」
「……了解しました」
喉の奥のざらつきが、すこしだけ和らいだ。
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それから残りの二日間。
あれほど連鎖していた異常は、嘘のように起こらなかった。
水も、食事も、道具も。
むしろ今まで以上に安全確認が徹底されたこともあってか、青見の周りは妙に「静か」だった。
それが逆に、不気味だった。
(嵐の前、って感じじゃないといいけどな)
そんなことを思いながらも、試合が始まれば、意識は自然と目の前の相手へと集中する。
準決勝。
去年も同じブロックで当たった強豪校の選手。
攻めは鋭く、技も多彩だったが、安生道場で李に叩き込まれた実戦的な間合いと、怪異との死線で培われた「ここぞの一瞬を嗅ぎ分ける勘」が、ギリギリのところで青見を支えた。
一瞬の出鼻。
小手。
続けざまの面。
二本を奪い、決勝へ駒を進める。
決勝の相手は、西の名門校のエースだった。
長身から繰り出される遠間からの面と、体格に似合わぬ軽いフットワーク。
正攻法の中に、相手の呼吸をずらす「いやらしさ」も混じる、完成された強さ。
(強い)
そう認めた上で、踏み込む。
(だからこそ、ここで勝つ)
幾度も竹刀がぶつかりあい、汗が面の中を流れ落ちる。
観客席のざわめきが遠のき、主審の「はじめ」「やめ」だけがやけにはっきり聞こえる。
一本目。
相手の大きく振りかぶった面の起こりをとらえ、鋭く胴。
審判の旗が二本上がる。
一本取り返しにきた相手は、それまで以上に攻めを強めてきた。
執拗に面を打ち込み、フェイントを混ぜ、小手を狙う。
だが、青見は「怖い」とは感じなかった。
夜の路地裏で見た、形容しがたい「何か」の腕。
昨夜、布団の上から胸を押し潰してきた、見えない重さ。
それらに比べれば、目の前の一撃は、確かに怖い。
けれど、「届く範囲が決まっている」分だけ、まだ優しい。
(ここ)
相手の竹刀が、わずかに沈んだ瞬間。
その足の裏に溜まった重心の「重さ」が、まるで手に取るように感じられた。
踏み込み。
面。
空気を裂く音とともに、竹刀が相手の面を捉える。
主審の「面あり!」の声。
旗が三本、一斉に上がった。
観客席が、一瞬だけ静まり返り――次の瞬間、どっと歓声が溢れた。
東北勢、初優勝。
二年生での全国制覇。
あとからついてきた、いくつもの肩書きは、その瞬間には何の重みもなかった。
ただ、握りしめた竹刀の感触と、胴着越しに感じる鼓動の速さだけが、やけにリアルだった。
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表彰式。
日の丸と大会旗の前で整列し、メダルを首にかけられる。
フラッシュの光が、何度も何度も瞬いた。
「東北勢では初の優勝となります。おめでとうございます」
アナウンスがそう告げるたびに、会場のどこかから拍手が湧く。
地元紙の記者が近づいてきて、東北訛りの混じった声で質問を投げかけてくる。
「いまのお気持ちは?」
「二年でこの結果、プレッシャーは?」
「来年は連覇を?」
青見は、できるだけ落ち着いた声で、一つひとつ答えていった。
「先輩方のおかげです」
「支えてくれた人たちに感謝しています」
「来年も、一戦一戦を大事に戦うだけです」
模範解答みたいな言葉。
けれど、それは嘘ではない。
――ただ、その背後で。
無数の視線が、自分の身体をなぞるように這い回っているのを、紛れもなく感じていた。
賞賛、羨望、嫉妬、興味。
観客席から、カメラのレンズから、記者の目から、同業者の目から。
それらは、どこか乾いてあっさりしている。
その中に、ひとつだけ。
ねっとりとした、湿った視線が混ざっていた。
(……また、だ)
首筋の産毛が逆立つ感覚。
それは、具体的な「場所」を持たない視線だった。
観客席のどこかから、ではない。
天井からでも、通路からでもない。
もっと「空間そのもの」に穴が開いて、そこから覗かれているような、そんな質感。
自分を値踏みするように。
次の獲物を撫でるように。
あるいは、「取り落とした獲物」をもう一度捕まえにこようとするものの目。
報道陣のカメラがシャッターを切るたび、その視線もまた、細かく震えながら、青見の輪郭をなぞっていく。
(見てろよ)
心の中で、誰にともなく吐き捨てる。
(人間の土俵で戦うなら、人間のルールで来い。
それ以外のやり方で来るなら――今度は、もう少し深く叩き込んでやる)
笑顔を作り、インタビューに応じながら、青見は胸の内で静かにそう誓った。
全国優勝という栄光の影で。
あの夜、宿の部屋にのしかかってきた「なにか」によく似た、ねっとりとした悪意ある視線は――
むしろ今まで以上に、強く、濃く。
東青見という一人の高校生を、じっと、じっと見つめ続けていたのだった。