なんちゃってクトゥルフ小説   作:ぶーく・ぶくぶく

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薄い光

 

 

/*/ 翌朝、薄い光 /*/

 

 

 カーテンの隙間から、白っぽい朝の光が差し込んでいた。

 東青見は、いつ眠ったのか分からないまま、ただ「朝になっていた」ことだけを理解した。

 

 結局、一睡もできなかった気がする。

 ベッドから身を起こすと、昨夜よりは薄まったものの、まだあの悪臭の名残が部屋の空気にこびりついていた。

 

(……夢じゃない、ってことだよな)

 

 枕元には、鉄の棒がそのまま転がっている。

 握りしめたままどこかで意識を飛ばしてしまったらしい掌は、汗でじっとり湿っていた。

 

 シャワーを浴び、無理やり頭を切り替える。

 鏡の中の自分は、少しだけ目の下にクマを浮かべていたが、動けないほどではない。

 

(今日が、残り全部)

 

 団体戦は既に終わっている。

 個人戦は佳境。準決勝と決勝――今日はその二つを戦う日だ。

 

 ドアを開けて廊下に出ると、冷房の効いた空気の中にも、わずかに鼻をつくような残り香があった。

 漂ってきたのは、洗剤やホテルの匂いではない、昨夜と同じ、あの「なにか」がいた証の臭い。

 

「……」

 

 足早に廊下を抜け、エレベーターへ向かう。

 

 /*/

 

 朝食会場のレストランは、既に多くの選手で賑わっていた。

 ジャージ姿の高校生たちが、トレイを持って行き来しながら、今日の組み合わせや対戦相手の話をしている。

 

「東、こっち空いてるぞ」

 

 高山直哉主将が手を挙げた。

 同じテーブルには他の部員たちも座っている。

 

「おはようございます」

「……顔色、悪いな。寝られなかったか」

「まあ、少しだけ」

 

 曖昧に笑うと、高山はそれ以上追及しなかった。

 

「無理に食わなくてもいいが、口に入るもんだけ入れとけ。試合中にガス欠になったら話にならん」

「はい」

 

 パンとスクランブルエッグを少しずつ口に運ぶ。

 味がよく分からない。

 

 そこへ、他校の顧問らしき先生が、低い声で話しているのが耳に入った。

 

「……○○高校の選手、一人棄権だそうですよ」

「え? さっき対戦カードに名前ありましたよね」

「宿で負傷したとかで。夜中に騒ぎがあったらしいです」

 

 ちらり、とそちらを見る。

 具体的な学校名も選手名も聞き取れなかったが、「宿」「負傷」「棄権」という言葉だけが、やけに耳に残る。

 

「どうやら、部屋の中で転んでガラスで足を切ったとか、自分でぶつけたとか、話が二転三転してるらしいですけどね」

「物騒ですね……」

 

 青見の背中を、冷たいものがつうっと走った。

 

(宿で、負傷……)

 

 昨夜、自分の胸の上にのしかかってきた「なにか」。

 鉄の棒を振り抜いた時の、生肉を叩いたような感触。

 そして、耳の奥にこびりついた、声ならざる声。

 

(まさか、同じ宿……? いや、だからって――)

 

 もしあれが「人」だったなら。

 もしくは、人にとり憑いた何かだったなら。

 

 高山が、ふっと真剣な目で青見を見た。

 

「東」

「はい」

「今の話、気にするな。俺たちにできるのは、自分たちの試合をしっかりやることだけだ」

「……はい」

 

 そう言われて、ようやく自分が箸を止めたまま固まっていたことに気づく。

 

「昨日の竹刀の件もある。お前の周りで色々起きてるのは事実だが――」

「事実、なんですね」

「ああ。だが、今日ここで戦うのは、リングの上じゃなく畳の上だ。刀でも、鉄パイプでもない。竹刀一本だ」

 

 高山はわざとらしく肩をすくめて見せた。

 

「“見えない何か”が絡んでこようが、ルールの中で叩き斬る。それが逢瀬学園校のやり方だろ?」

「……了解しました」

 

 喉の奥のざらつきが、すこしだけ和らいだ。

 

 

 /*/

 

 

 それから残りの二日間。

 あれほど連鎖していた異常は、嘘のように起こらなかった。

 

 水も、食事も、道具も。

 むしろ今まで以上に安全確認が徹底されたこともあってか、青見の周りは妙に「静か」だった。

 

 それが逆に、不気味だった。

 

(嵐の前、って感じじゃないといいけどな)

 

 そんなことを思いながらも、試合が始まれば、意識は自然と目の前の相手へと集中する。

 

 準決勝。

 去年も同じブロックで当たった強豪校の選手。

 攻めは鋭く、技も多彩だったが、安生道場で李に叩き込まれた実戦的な間合いと、怪異との死線で培われた「ここぞの一瞬を嗅ぎ分ける勘」が、ギリギリのところで青見を支えた。

 

 一瞬の出鼻。

 小手。

 続けざまの面。

 

 二本を奪い、決勝へ駒を進める。

 

 決勝の相手は、西の名門校のエースだった。

 長身から繰り出される遠間からの面と、体格に似合わぬ軽いフットワーク。

 正攻法の中に、相手の呼吸をずらす「いやらしさ」も混じる、完成された強さ。

 

(強い)

 

 そう認めた上で、踏み込む。

 

(だからこそ、ここで勝つ)

 

 幾度も竹刀がぶつかりあい、汗が面の中を流れ落ちる。

 観客席のざわめきが遠のき、主審の「はじめ」「やめ」だけがやけにはっきり聞こえる。

 

 一本目。

 相手の大きく振りかぶった面の起こりをとらえ、鋭く胴。

 審判の旗が二本上がる。

 

 一本取り返しにきた相手は、それまで以上に攻めを強めてきた。

 執拗に面を打ち込み、フェイントを混ぜ、小手を狙う。

 

 だが、青見は「怖い」とは感じなかった。

 

 夜の路地裏で見た、形容しがたい「何か」の腕。

 昨夜、布団の上から胸を押し潰してきた、見えない重さ。

 

 それらに比べれば、目の前の一撃は、確かに怖い。

 けれど、「届く範囲が決まっている」分だけ、まだ優しい。

 

(ここ)

 

 相手の竹刀が、わずかに沈んだ瞬間。

 その足の裏に溜まった重心の「重さ」が、まるで手に取るように感じられた。

 

 踏み込み。

 面。

 

 空気を裂く音とともに、竹刀が相手の面を捉える。

 主審の「面あり!」の声。

 旗が三本、一斉に上がった。

 

 観客席が、一瞬だけ静まり返り――次の瞬間、どっと歓声が溢れた。

 

 東北勢、初優勝。

 二年生での全国制覇。

 

 あとからついてきた、いくつもの肩書きは、その瞬間には何の重みもなかった。

 ただ、握りしめた竹刀の感触と、胴着越しに感じる鼓動の速さだけが、やけにリアルだった。

 

 

 /*/

 

 

 表彰式。

 日の丸と大会旗の前で整列し、メダルを首にかけられる。

 フラッシュの光が、何度も何度も瞬いた。

 

「東北勢では初の優勝となります。おめでとうございます」

 

 アナウンスがそう告げるたびに、会場のどこかから拍手が湧く。

 地元紙の記者が近づいてきて、東北訛りの混じった声で質問を投げかけてくる。

 

「いまのお気持ちは?」

「二年でこの結果、プレッシャーは?」

「来年は連覇を?」

 

 青見は、できるだけ落ち着いた声で、一つひとつ答えていった。

 

「先輩方のおかげです」

「支えてくれた人たちに感謝しています」

「来年も、一戦一戦を大事に戦うだけです」

 

 模範解答みたいな言葉。

 けれど、それは嘘ではない。

 

 ――ただ、その背後で。

 

 無数の視線が、自分の身体をなぞるように這い回っているのを、紛れもなく感じていた。

 

 賞賛、羨望、嫉妬、興味。

 観客席から、カメラのレンズから、記者の目から、同業者の目から。

 それらは、どこか乾いてあっさりしている。

 

 その中に、ひとつだけ。

 ねっとりとした、湿った視線が混ざっていた。

 

(……また、だ)

 

 首筋の産毛が逆立つ感覚。

 それは、具体的な「場所」を持たない視線だった。

 

 観客席のどこかから、ではない。

 天井からでも、通路からでもない。

 

 もっと「空間そのもの」に穴が開いて、そこから覗かれているような、そんな質感。

 

 自分を値踏みするように。

 次の獲物を撫でるように。

 あるいは、「取り落とした獲物」をもう一度捕まえにこようとするものの目。

 

 報道陣のカメラがシャッターを切るたび、その視線もまた、細かく震えながら、青見の輪郭をなぞっていく。

 

(見てろよ)

 

 心の中で、誰にともなく吐き捨てる。

 

(人間の土俵で戦うなら、人間のルールで来い。

 それ以外のやり方で来るなら――今度は、もう少し深く叩き込んでやる)

 

 笑顔を作り、インタビューに応じながら、青見は胸の内で静かにそう誓った。

 

 全国優勝という栄光の影で。

 あの夜、宿の部屋にのしかかってきた「なにか」によく似た、ねっとりとした悪意ある視線は――

 

 むしろ今まで以上に、強く、濃く。

 東青見という一人の高校生を、じっと、じっと見つめ続けていたのだった。

 

 

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